美術史・技法

画中の本に書かれた、一行——ヘラルト・ドウ、ダンテの寓意的肖像ほか九点

開いた頁は平らで、しかも明るい。だから、文字を置くのにこれ以上ない場所になる。九点のうち一点には、長い詩の四十八行がそのまま書き写されている。抜き書きされた一行が絵全体の意味を決める仕組みを読みたい。

祝福するキリスト
グリーフォ・ディ・タンクレディ《祝福するキリスト》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

画中の本に、一行が書いてある

絵画を九点、銘記の欄で並べてみる。

九点とも、画面の中に本が描かれている。

しかも、開いている。

開いた頁に、文字が書かれている。

館の記録は、本の上に、と位置を書く。

あるいは、左の頁に、右の頁に、と細かく分ける。

読める文字は、そのまま写される。

読めなければ、読めないと書かれる。

開いた本は、何を語るか

本は、閉じていれば四角い塊である。

開けば、白い面が二つできる。

その面は、平らで明るい。

つまり、文字を置くのにいちばん適している。

前の回で、貼り紙や帯を見た。

本は、それらより自然である。

本には、はじめから文字が書いてあるからだ。

書いていなければ、そのほうが不自然だろう。

本の形が、時代を示す

九点の本の形を比べてみる。

古い板絵の本は、分厚く、留め金が付く。

木の表紙に革を張り、金具で留める。

十五世紀までは、これが普通である。

十七世紀の一点では、留め革が細く描かれる。

十九世紀の一点は、小さく薄い。

紙が安くなり、本が軽くなった。

つまり、本の姿は時代とともに変わる。

館の記録は、本の形までは書かない。

書かれるのは、その上の文字だけである。

一行だけを、書く

ただし、実際に書かれるのは短い。

一行か、二行である。

本の頁には、何百行も入るはずだ。

それを全部描くことはしない。

読ませたい一行だけを書き、あとは線で示す。

つまり、抜き書きである。

その一行が、絵の意味を決める。

どの一行を選ぶかに、注文主と画家の意図が出る。

祝福するキリスト
グリーフォ・ディ・タンクレディ《祝福するキリスト》1310年ごろ。館の記録では、板にテンペラ。縦88.5センチ、横58.5センチ。銘記の欄には、手に持つ本に、われは世の光なり、という言葉があるとある。番号は1937.1.2。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。グリーフォ・ディ・タンクレディ《祝福するキリスト》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦長の板で、上が多角に切られる。

中央に、男性が上半身で描かれる。

顔は正面を向き、目が大きい。

髪は長く、肩に垂れる。

顎に、短い髭がある。

桃色の衣に、青い布を掛ける。

右手を上げ、指を二本立てる。

左手で、開いた本を支える。

本の頁は白く、文字が三行入る。

頭の後ろに、金の輪がある。

地は金で、周囲に細かい枠模様が回る。

手に持つか、置くか

本の持ち方も、絵によって違う。

胸の前に立てて持つもの。

膝の上に開くもの。

石の上に置いて、覗き込むもの。

台に載せて、両手を添えるもの。

持ち方が変われば、頁の向きも変わる。

見る人に向けて開けば、文字が読める。

自分に向けて開けば、読めない。

九点はいずれも、こちらへ向けて開かれている。

読ませるための開き方である。

同じ一行が、二点に出る

九点のうち二点は、同じ言葉を選んでいる。

われは世の光なり、という一句である。

新約聖書の一節から取られている。

一点は十四世紀の初め。

もう一点は、その百年後である。

書き方は違う。

一点は三行に分けて大きく書く。

もう一点は、九行に細かく分けて書く。

しかも、後者は別の節をつなげている。

聖母子と祝福するキリスト(中央の板)
マルティーノ・ディ・バルトロメオ《聖母子と祝福するキリスト(中央の板)》1415年から1420年ごろ。館の記録では、板にテンペラ。縦89.5センチ、横45.5センチ。銘記の欄には、幼児の本に、われは世の光なり、およびそれに続く言葉が九行であるとある。番号は1950.11.1。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。マルティーノ・ディ・バルトロメオ《聖母子と祝福するキリスト(中央の板)》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦長の板で、上が尖る。

中央に、女性が上半身で描かれる。

濃い青緑の衣を、頭からかぶる。

内側は緑である。

胸の前に、桃色の衣の幼児を抱く。

幼児は、女性の顎に手を伸ばす。

女性の顔は、やや右に傾く。

頬に、赤みがさす。

地は金で、傷んで下地が見える。

尖った上部に、小さな人物が描かれる。

その人物が、開いた本を持つ。

二つの節を、つなげる

後者の一点には、注意が要る。

書かれているのは、一つの節ではない。

二つの節をつないだ形である。

われは世の光なり、で始まり、道であり真理であり命である、と続く。

前半と後半は、別の章から取られている。

館は、括弧の中でそれを説明する。

二つをつないだもの、と書く。

つまり、書いた人が編集している。

聖書の文をそのまま写したのではない。

覚え違いは、記録に残る

書き写す人が、覚えで書くことがある。

すると、細かい違いが生まれる。

語順が入れ替わる。

一語が抜ける。

別の句が混じる。

こういう違いは、写本の研究でよく使われる。

どこで書かれたか、いつ書かれたかの手がかりになる。

絵の中の文字も、同じである。

違いがあるからこそ、追える。

揃っていれば、追えない。

つなげることの、意味

なぜ、つないだのか。

一つには、その本に収めたい内容が二つあったのだろう。

一つには、口伝えで覚えていたからかもしれない。

祈りの場では、いくつもの句が続けて唱えられる。

覚えるときは、続きとして覚える。

書くときも、続けて書く。

そう考えると、この誤りは自然である。

館は、誤りとは書かない。

つないだもの、と事実だけを書く。

向かいの頁の、三文字

この一点には、二つの文字がある。

一方の頁に、長めの一句。

向かいの頁に、三文字の略号。

略号は、聖なる名を短くしたものだ。

この聖人は、その名の略号を掲げて説教した人物とされる。

つまり、略号そのものが人物の印である。

言葉と印が、開いた本の左右に並ぶ。

館の記録は、両方の位置を書き分ける。

一方を落とせば、絵の意味が半分になる。

死の間際の言葉

九点のうち一点は、開いた本に短い文がある。

父よ、われは御名を明らかにせり、という言葉だ。

新約聖書の一節から取られる。

館の欄には、さらに説明がある。

この句は、ある祭日の祈りの冒頭に使われる。

そして、描かれた聖人が死の際に唱えた言葉だとされる。

つまり、この一行は人物と結びついている。

誰でもよい言葉ではない。

その人の最期の言葉として選ばれている。

シエナの聖ベルナルディーノ
ヴィンチェンツォ・フォッパ《シエナの聖ベルナルディーノ》1495年から1500年ごろ。館の記録では、板に油彩とみられる。縦103.7センチ、横38.8センチ。銘記の欄には、中央右、開いた本に、父よ、われは御名を明らかにせり、という言葉があり、向かいの頁に三文字の略号があるとある。番号は1961.9.72。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ヴィンチェンツォ・フォッパ《シエナの聖ベルナルディーノ》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

細長い縦の板である。

中央に、褐色の衣の男性が立つ。

頭は剃られ、耳が見える。

顔は伏せ、目を閉じる。

痩せた頬に、影が落ちる。

両手で、大きな本を胸の前に持つ。

本は開き、頁が白く光る。

背後に、石造の柱と弧が立つ。

その向こうに、緑の風景が見える。

左に、細い木が一本生える。

床は、赤い石の面である。

眠りと、夢の場面

この一点は、夢の場面である。

眠る人物と、その夢に現れた場面が同じ画面にある。

眠る人物は、下のほうに横たわる。

夢の中の場面は、上に描かれる。

一つの画面に、二つの時間が同居する。

そして、本はそのあいだに置かれる。

夢を見る人の傍らにあり、夢の中の物でもある。

境目の位置に、文字を持つ物がある。

読み手は、そこを手がかりに二つの世界を行き来する。

別の言語で、書かれた本

九点のうち一点は、文字がラテン語ではない。

東の地中海で使われた文字である。

館は、その文字であることを書く。

そして、意味を訳して添える。

内容は、福音書を示す語である。

つまり、この本が何であるかを示している。

言葉ではなく、書名に近い。

前の回で、巻物に法典の一語だけが書かれた例を見た。

同じ扱いである。

アレクサンドリアの聖カタリナの夢
ルドヴィコ・カラッチ《アレクサンドリアの聖カタリナの夢》1593年ごろ。館の記録では、カンヴァスに油彩。縦138.8センチ、横110.5センチ。銘記の欄には、中央左の本に、別の文字で福音書を示す語があるとある。番号は1952.5.59。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ルドヴィコ・カラッチ《アレクサンドリアの聖カタリナの夢》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦長の画面である。

右上に、女性が身を寄せる。

黒い衣に、赤い布を掛ける。

膝の上に、裸の幼児が座る。

幼児は左へ手を伸ばす。

その左に、若い女性が眠る。

白い胸元をあらわにし、頭を垂れる。

右手を下へ落とす。

左に、天使が二人並ぶ。

上のほうに、幼い天使が集まる。

背景は暗く、輪郭が溶ける。

本を持つ人の、身分

九点の本を持つ人物を並べてみる。

聖なる人物が四人。

修道女が一人。

詩人が一人。

隠者が一人。

そして、市井の男性と子供が一人ずつ。

古い絵ほど、本を持つのは聖なる人物である。

新しい絵になると、普通の人が持つ。

本が、特別な物から日常の物へ移ったということだ。

その移り変わりが、九点に並んでいる。

二語だけが、読める

九点のうち一点は、書かれた文字が二語しかない。

館は、その二語だけを写す。

説明も、訳も付けない。

本を持っているのは、修道女である。

日々の祈りの本を開いている場面だろう。

そう考えるのが自然である。

ただし、館はそこまで書かない。

二語を写して、それで終える。

読み取れなかったのか、断定を避けたのか。

どちらとも分からない。

聖クララの死
聖十字架の画家《聖クララの死》1400年から1410年ごろ。館の記録では、板に油彩。縦66.4センチ、横54.6センチ。銘記の欄には、右下、修道女の持つ本の左の頁に二語があるとある。番号は1952.5.83。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。聖十字架の画家《聖クララの死》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦長の板である。

中央に、白い寝台が横たわる。

その上に、黒い衣の人物が横たわる。

周りを、修道女が取り囲む。

いずれも黒と白の衣を着る。

左に、色鮮やかな衣の人物が並ぶ。

金の刺繍の衣が光る。

右上に、赤い天蓋が張られる。

上の空に、小さな人物が浮かぶ。

手前に、修道女が二人ひざまずく。

一人は、大きな本を開いて持つ。

何のために、そこまでするか

四十八行を書けば、絵の中で目立つ。

見る人は、必ず近づく。

近づけば、読む。

読めば、時間がかかる。

つまり、この絵は長く見られることを想定している。

飾りとして掛けるだけの絵ではない。

書斎に置き、繰り返し向き合う絵だろう。

そういう絵に、詩の全文に近い量を書き込む。

道具としての絵、と言ってもよい。

四十八行を、書き写す

九点のうち一点は、書かれた量がまったく違う。

一行や二行ではない。

長い詩の、一つの歌の最初の四十八行である。

館の欄は、その行数まで書く。

そして、詩の最初の語を写す。

つまり、絵の中の本に、詩が本当に書き写されている。

読めば、読めるだろう。

こういう絵は、めったにない。

書き写す手間を考えれば、当然である。

ダンテの寓意的肖像
フィレンツェ、16世紀《ダンテの寓意的肖像》16世紀後半。館の記録では、板に油彩。縦126.9センチ、横120センチ。銘記の欄には、中央の開いた本に、長い詩の一つの歌の最初の四十八行が書かれているとある。番号は1961.9.57。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。フィレンツェ、16世紀《ダンテの寓意的肖像》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

正方形に近い板である。

中央に、男性が横向きに座る。

深紅の長い衣を着る。

頭に、緑の葉の冠をかぶる。

鼻筋が高く、顎が張る。

目は前を見る。

両手で、大きな本を開いて支える。

本の頁に、細かい文字が二段に並ぶ。

背後の右に、青い水と岩山が見える。

左下は、暗く沈む。

赤い衣の襞が、画面の下半分を占める。

小さな板に、細かい仕事

この一点は、縦46センチ、横34.5センチである。

その中に、洞と老人と道具と草が描かれる。

しかも、本の留め革の上に文字がある。

留め革は、指の幅もない。

そこに頭文字と姓と年を書く。

拡大鏡が要る仕事だろう。

この画家は、そういう細かさで知られた。

絵具を薄く重ね、筆の跡を消す。

署名の細かさも、その延長にある。

本の頁に、署名を書く

九点のうち一点は、本に署名がある。

しかも、二か所ある。

一つは、本を留める革紐の上。

もう一つは、右の頁の上である。

どちらも、頭文字を組んだ形と姓が続く。

前の回で見た型と同じだ。

つまり、この本は聖なる書ではない。

画家の名を置くための、都合のよい平面である。

同じ本が、二つの役目を持っている。

隠者
ヘラルト・ドウ《隠者》1670年。館の記録では、樫の板に油彩。縦46センチ、横34.5センチ。銘記の欄には、下の中央、本の留め革に頭文字を組んだ形と姓と年、右の頁にも同じ形があるとある。番号は1960.6.8。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ヘラルト・ドウ《隠者》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦長の小さな板である。

暗い洞のような場所が描かれる。

中央に、白い髭の老人がひざまずく。

褐色の衣を着て、頭巾をかぶる。

両手を組み、大きな本に向かう。

本は、石の上に開いて置かれる。

その手前に、頭蓋骨が転がる。

右に、太い枯れ木が立つ。

枝に、籠と器が下がる。

左奥に、石の弧が見える。

手前に、草と薊が生える。

巡回画家と、書物

この一点を描いたのは、名の分からない画家である。

館は、代表作から取った仮の名で呼ぶ。

十八世紀末のアメリカで働いた。

そういう画家の絵に、詩人の著作集が現れる。

つまり、地方の家にもその本があった。

読む人がいた、ということでもある。

本の背に書名を書いたのは、そこを見せたかったからだろう。

持ち主の教養を、絵が示している。

本の背に、書名を書く

九点のうち一点は、開いていない。

閉じた本の背に、文字がある。

著者の名と、著作集という語と、巻の番号である。

つまり、これは書名である。

人物は、その本を持って座っている。

何を読む人かを、本が示している。

前の回で、持ち物が人物を語ると書いた。

本は、いちばん分かりやすい持ち物である。

赤い服の男性の肖像
シャーマン・リムナー《赤い服の男性の肖像》1785年から1790年ごろ。館の記録では、カンヴァスに油彩。縦76.2センチ、横63.5センチ。銘記の欄には、本に著者の名と著作集という語と巻の番号があるとある。番号は1980.62.35。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。シャーマン・リムナー《赤い服の男性の肖像》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦長の画面に、男性が座る。

赤い上着を着る。

前立てに、黄色い釦が三つ並ぶ。

内側に、白い胴着が見える。

首元に、白い布を巻く。

髪は黒く、額に切りそろえられる。

耳の下から、長い髪が垂れる。

顔はこちらを向き、口を結ぶ。

右手で、褐色の本を抱える。

背後は灰緑で、平らである。

椅子の背が、左に見える。

子供と、赤い本

九点のうち一点は、子供が本を持つ。

背が高いほうの子が、赤い表紙の本を開く。

頁に、短い一語が書かれる。

小さな子が持つ本は、たいてい教本である。

文字を覚えるための本だ。

一語だけが書かれているのは、そのためかもしれない。

覚えたての一語を、示している。

ただし、これは推し量りである。

館の記録は、一語を写すだけである。

三文字だけの、頁

最後の一点は、頁に三文字しかない。

意味は、人、という語である。

それだけが書かれている。

なぜ一語なのか。

分からない。

書き始めて、そこで止めたのかもしれない。

あるいは、その一語に意味を込めたのかもしれない。

館は、写すだけである。

読む人が、考える。

青い服の姉妹
スターティヴァント・J・ハンブリン《青い服の姉妹》1840年ごろ。館の記録では、カンヴァスに油彩。縦76.2センチ、横64.1センチ。銘記の欄には、本の頁に一語があるとある。番号は1978.80.19。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。スターティヴァント・J・ハンブリン《青い服の姉妹》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦長の画面に、二人の子が立つ。

どちらも青い服を着る。

袖は短く、肩が丸い。

裾に、横の襞が幾重にも入る。

下に、白い袴と靴下が見える。

靴は青である。

左の子は小さく、赤い実の房を持つ。

右の子は背が高く、赤い本を持つ。

本は開かれ、白い頁が見える。

背景は暗い褐色で、平らである。

床に、赤い実がいくつか落ちる。

本は、いつ絵に入ってきたか

本を持つ人物の絵は、古くからある。

福音書を持つ聖人。

祈りの書を持つ信者。

学者の机の上の書物。

どれも、その人が何者かを示す。

やがて、肖像画でも本が持たれるようになる。

読み書きができることを示すためだ。

十八世紀の素朴な肖像でも、本は頻繁に現れる。

九点のうち三点が、そういう絵である。

何が書いてあるかは、たいてい分からない

ただし、多くの絵では文字が読めない。

線が引いてあるだけである。

文字らしく見える曲線を、並べる。

近くで見れば、意味がないと分かる。

遠くから見れば、文字に見える。

つまり、文字の形だけを借りている。

九点は、その中で例外的に読める。

読めるからこそ、記録に写された。

読めない本は、銘記の欄に現れない。

読める文字を、なぜ書いたか

では、なぜ読める文字を書いたのか。

一つは、意味を伝えたいからだ。

その一行に、絵の主題が凝縮される。

もう一つは、腕の見せ場だからだろう。

細い筆で、小さな文字を整然と並べる。

難しい仕事である。

うまくできれば、目を引く。

そして、注文主も喜ぶ。

詩を書き写す、という手間

四十八行を書き写した一点は、突出している。

なぜ、そこまでやったのか。

その絵が、詩そのものを主題にしているからだ。

詩人の姿と、詩の言葉を、一つの画面に置く。

顔だけでは、詩は伝わらない。

言葉を書けば、伝わる。

しかも、その歌は詩人自身の願いを語る部分だとされる。

選ばれた四十八行は、偶然ではないだろう。

館は、そこまでは書かない。

歌の番号と、最初の語だけを書く。

頁を、どう描くか

開いた本を描くのは、意外に難しい。

紙は薄く、たわむ。

厚みが、扇のように広がる。

そして、頁の面は光を強く受ける。

九点の本を見比べると、描き方が違う。

平らに開いたもの。

弧を描いてたわむもの。

厚みを見せるもの。

同じ物を描いても、これだけ差が出る。

本の中の文字と、絵の外の文字

九点の文字は、二種類に分かれる。

絵の中の言葉と、絵の外の情報である。

聖書の一節や、詩の一節は、絵の中の言葉だ。

画家の署名や、書名は、絵の外の情報である。

同じ本の頁に、両方が置かれることもある。

前の回で、内と外の仕分けを見た。

本の場合は、その境が曖昧になる。

本は、絵の中の物でありながら、文字を運ぶ道具でもある。

記録が、頁を分けて書く

館の欄は、左の頁と右の頁を分けて書く。

一点は、左の頁に祈りの言葉。

右の頁に、聖なる名の略号。

もう一点は、右の頁に署名。

なぜ分けるのか。

同じ本でも、内容が違うからだ。

分けなければ、続きの文と誤解される。

前の回で、位置の記録が細かい理由を書いた。

ここでも同じことが起きている。

一行が、絵の意味を決める

九点を並べて分かることがある。

書かれた一行が、絵の主題を言い切っている。

われは世の光なり、と書けば、その人が誰か分かる。

御名を明らかにせり、と書けば、その死の意味が分かる。

福音書と書けば、その本が何か分かる。

著者名と巻数を書けば、その人の好みが分かる。

一語でも、伝わることがある。

絵は、そこに賭けている。

言葉を全部書く必要はない。

一行だけあればよい。

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