一冊の帖に、作者が九人いる——マグワイアの貼り込み帖、メトロポリタン美術館
十五歳の自画像、頭文字だけの作者、牛の絵、追悼のような子どもの顔。年は二十年以上にわたり、紙も大きさもばらばらである。それでも出所の行は九点とも同じ一文。集めた人の名が単位の名になった例を読みたい。末尾飾りとして描き下ろされた一枚もある。

一冊の帖に、作者が九人いる
これまで見てきた三冊の帖には、作者が一人ずつしかいなかった。
トマス・サリーの写生帖。ダニエル・ハンティントンの写生帖。ホイッスラーの切り抜きの帖。
どれも、一人の画家の手が並んでいる。
四冊目は、事情が違う。
メトロポリタン美術館に、番号二六・二一六という一群がある。
館はこれを「マグワイアの貼り込み帖から」と呼んでいる。
当サイトで公開している分だけでも、作者が三十人を超える。
同じ帖の頁なのに、描いた人がそれぞれ違う。
そして九点とも、出所の行は同じである。
「ジェイムズ・シー・マグワイア氏の寄贈、一九二六年」。
帖の名前になっている人が、そのまま寄贈者である。

まず、この一枚から始めたい。
題は《十五歳の自画像》。
館の記録は、作者の生没年を一八二三年から一八七九年と書く。
一八三七年に十五歳だった計算になる。
垣根にもたれて立つ少年が、こちらを見ている。
上着の前を開け、片手を柵の上に置いている。
足元に、小さな犬らしいものがいる。
背後には、木の幹と、垂れ下がる枝。
画面の右下に、頭文字と年が書き込まれている。
十五歳の少年が、自分を描き、名を入れ、年を入れた。
そして、その一枚が誰かの帖に貼られた。
帖の持ち主が、館へ渡す
九点すべての出所の行が同じであることには、意味がある。
一九二六年、マグワイアという人が、自分の帖を館に寄贈した。
帖は、その人が長い時間をかけて作ったものである。
画家たちから一枚ずつもらい、あるいは求め、台紙に貼っていった。
年の欄を並べると、その時間の幅が見える。
一八三七年、一八三七年、一八四〇年、一八四〇年、一八四一年、一八四三年、一八五九年。
年が不明のものもあるが、分かるだけで二十年以上にわたる。
十九世紀のアメリカで、こういう帖は珍しくなかった。
友人や知人に、一枚ずつ絵や詩を書いてもらう。
集めて綴じ、来客に見せる。
画家の側にとっても、断る理由はない。
小さな一枚を描くのは、それほどの手間ではない。
そして自分の名が、人の帖に残る。

この一枚の作者の欄は、頭文字だけである。
三つの文字が並び、姓も名も書かれていない。
館は、それ以上のことを書いていない。
分からないから書けない。
画面には、柵に囲まれた家が描かれている。
石造りらしい低い建物と、その手前に木が数本。
右下に、小さな人影がある。
画面の下の余白に、鉛筆の文字が三行ほど。
場所の名と、署名らしい文字と、日付が読める。
題にあるタパンは、ニューヨーク州の地名である。
独立戦争のとき、司令部が置かれた家が残っている。
つまりこれは、名所を訪ねて描いた一枚である。
帖の持ち主にとっては、絵であると同時に土産でもあっただろう。
同じ紙の表と裏に、別の絵がある
この帖のなかにも、表と裏で二つの番号を持つ紙がある。

上に一頭、下に一頭。
二頭の牛が、草を食んでいる。
上の牛は首を下げ、下の牛はこちらへ顔を向けている。
線は細く、毛の流れまで追われている。
背後の草むらは、短い線を重ねて作られている。
画面の下に、題と署名と年が並んで書かれている。
《蠅の季節》。
夏の、虫の多い時期のことだろう。
牛が尾を振り、頭を振る季節である。
絵の中に蠅は描かれていない。
題だけが、それを示している。

そして、これがその裏である。
線は、ずっと薄い。
水平の線が一本引かれ、その上に桟橋らしい構造が乗っている。
小さな舟が数艘。
人影らしいものも見える。
紙の左端に、縦書きの文字がある。
表の《蠅の季節》に比べると、こちらは仕上げられていない。
途中でやめた覚え書きである。
にもかかわらず、館は独立した番号を与えた。
紙が一枚、番号が二つ。
写生帖と同じ数え方が、貼り込み帖にも適用されている。
ただし、事情は違う。
写生帖なら、両面に描くのは当然である。
貼り込み帖では、裏面は台紙に隠れるはずである。
この一枚は、台紙に貼られていないのかもしれない。
あるいは、片側だけを留めて、めくれるようにしてあるのかもしれない。
館の記録は、そこまで書いていない。
分かるのは、裏面が撮影できる状態にあるということだけである。
職業も、出身も、ばらばらである
作者の欄を、九点ぶん並べてみる。
ウィリアム・ヘンリー・パウエル。生没年のみ。
頭文字が三つ。
ジョン・ミックス・スタンリー。ニューヨーク州カナンダイグア生まれ、デトロイトで没。
ジェイムズ・ホワイトホーン。生没年のみ。
ダニエル・ハンティントン。ニューヨーク生まれ、ニューヨークで没。
シェパード・アロンゾ・マウント。生没年のみ。
エマヌエル・ロイツェ。ドイツのシュヴェービッシュ・グミュント生まれ、ワシントンで没。
ジェイムズ・ホランド。英国のスタッフォードシャー、バーズレム生まれ、ロンドンで没。
生まれた土地が、大西洋の両側にまたがっている。
そして、館が「アメリカの」と分類しているのは、帖がアメリカで作られたからである。
作者の国籍でそろえているわけではない。

九点でいちばん大きいのが、この一枚である。
縦二二・九センチ、横二八・七センチ。
横向きに置かれた紙に、一人の男が腰かけている。
片膝を立て、腕を組み、顔を横に向けている。
帽子をかぶり、上着の襟が立っている。
足元に、履物の輪郭が丁寧に描かれている。
右下に数字らしい書き込み、下の余白に三行の文字。
そのうちの一行が、題になった名前だろう。
館の記録は、この人物について説明していない。
名前だけが残っている。
死んだ子どもの、顔
帖のなかには、扱いに注意が要る一枚もある。

横顔だけが、紙の中央に浮かんでいる。
目を閉じ、口元は静かである。
首から下は描かれていない。
背景も何もない。
薄い鉛筆の線だけで、輪郭と髪が作られている。
紙の四隅は、斜めに切り落とされている。
八角形に近い形である。
貼るときに角を落としたのだろう。
題は《眠る子どもの頭部》である。
十九世紀のアメリカでは、亡くなった子どもの顔を描いて残す習慣があった。
ただし、この一枚がそれに当たるかどうかは、記録に書かれていない。
眠っているだけかもしれない。
館が「眠る」と書いている以上、それ以上の推測はしないでおく。
いずれにせよ、静かな一枚である。
そして、この静かな一枚が、牛の絵や名所の絵と同じ帖に並んでいる。
帖のために、描かれた絵
九点のうち一点だけ、性格の違うものがある。

題は《終わり》。
館の記録には、括弧付きで「マグワイアの貼り込み帖の末尾飾り」とある。
末尾飾りとは、本や章の終わりに置く小さな図のことである。
活字の本では、最後の頁の余白に、飾りの図を刷る習慣があった。
この一枚は、その役をするために描かれている。
つまり、帖のために描き下ろされた絵である。
画面には、岩の上に腰かけた人影がある。
そのまわりに木が茂り、上の余白は白く残されている。
輪郭は柔らかく、まわりへ向かって薄れていく。
四角い枠を持たない、ぼかした形である。
末尾飾りらしい作りである。
下に、署名と年らしい書き込みがある。
ハンティントンは、前回の写生帖の画家でもある。
同じ人が、自分の帳面に山を描き、他人の帖に末尾飾りを描いた。
一方は自分のための記録、他方は人のための仕事である。
同じ鉛筆で、性格の違う二つを描いている。
印刷の紙に、描く
技法の欄にも、一つだけ変わったものがある。

技法の欄に「活版用紙」とある。
活字を組んで刷るための、薄い紙である。
画用紙ではない。
手近にあった紙に描いた、ということだろう。
描かれているのは、別れの場面である。
女性が、銃を持った兵士に取りすがっている。
兵士は右手を高く上げ、銃を掲げている。
足元に犬がいて、女性の裾に顔を寄せている。
背後に、木の柵と建物らしい線。
線は速く、勢いがある。
画面の下に、署名と地名と日付が書かれている。
年の欄は一八五九年。
アメリカの南北戦争が始まる二年前である。
題は《兵士の別れ》。
十九世紀に、繰り返し描かれた主題である。
戦争を待たずに、この主題は流通していた。
館の記録は、この絵が何かの下絵だとは書いていない。
したがって、そう読むことはしない。
英国の画家の水彩が、一枚だけある

九点のうち、これだけが鉛筆でもインクでもない。
水彩である。
そして館の分類も、素描ではなく水彩になっている。
同じ帖の頁が、分類の欄で分かれている。
描かれているのは、大きな花の束である。
中央に淡い色の大輪、そのまわりに濃い葉。
左に細い葉が伸び、右下に小さな花。
背景は塗られていない。
年の欄は、一八〇〇年から一八七〇年。
作者の生没年が、そのまま入っている。
いつ描いたか分からないときの、目録の書き方である。
生きていたあいだのどこか、としか言えない。
前の八点が年を持っているのに、この一枚だけ持っていない。
署名に年が入っていなかったのだろう。
大きさに、そろえる意思がない
九点の寸法を並べてみる。
一二・一センチ掛ける一〇・二センチ。
一六・五センチ掛ける二三・三センチ。
二二・九センチ掛ける二八・七センチ。
一五・四センチ掛ける一三センチ。
一四・四センチ掛ける一三・二センチ。
一七・九センチ掛ける一四・九センチ。
二五・一センチ掛ける一九・七センチ。
一九・七センチ掛ける二六センチ。
大きさが、まるでそろっていない。
いちばん小さいものと、いちばん大きいものでは、面積が五倍以上違う。
縦長のものと横長のものが混じっている。
これは当然である。
描いた人が九人いて、それぞれ手元の紙に描いたのだから。
貼るほうは、来たものを貼るしかない。
ホイッスラーの帖では、切って形を整えていた。
こちらでは、切った跡がほとんどない。
例外は《眠る子どもの頭部》で、四隅が落とされている。
もらった紙を、そのまま貼る。
その方針の違いが、寸法の欄に出ている。
台紙の大きさは、いちばん大きな紙が入る寸法でなければならない。
二二・九センチ掛ける二八・七センチの紙が入るのだから、帖はかなり大きい。
小さな紙を貼った頁には、余白がたくさん残っただろう。
署名と年が、そろって書かれている
もう一つ、写生帖との違いがある。
署名と年が、画面の中に書かれている頁が多い。
《十五歳の自画像》に、頭文字と年。
《ワシントンの司令部、タパン》に、場所と署名と日付。
《蠅の季節》に、題と署名と年。
《兵士の別れ》に、署名と地名と日付。
《終わり》にも、署名らしい書き込みがある。
写生帖の頁には、署名はまず入らない。
自分の帳面に自分の名を書く必要がないからである。
人に渡す絵には、名を入れる。
誰が描いたかが、贈り物の中身の一部だからである。
そして年を入れる。
いつのことだったかが、あとで意味を持つからである。
この帖の頁が、館の目録で年を持てるのは、そのおかげである。
前回のハンティントンの写生帖では、年は帖全体に対して推定された。
こちらでは、一枚ずつが自分の年を持っている。
贈るという行為が、記録の精度を上げている。
帖が館に入るまで
出所の行の年は、一九二六年である。
いちばん古い頁が一八三七年だから、九十年近い隔たりがある。
その九十年のあいだ、この帖は個人の家にあった。
寄贈者の名は、帖の名と同じである。
つまり、集めた本人か、その家の者が渡している。
館の記録は、寄贈者と収集者が同一人物かどうかを書いていない。
名が同じである以上、同じ家の人ではあるだろう。
十九世紀の帖が二十世紀に館へ入る道筋は、たいていこうである。
家に残り、代が替わり、あるとき渡される。
このとき、帖は形を変える。
私物から、公開される記録になる。
そして、番号を与えられる。
番号を与えられた瞬間に、一冊は九十件以上に分かれた。
三十人を、どう数えるか
この帖を一件にまとめると、作者の欄が書けない。
三十人以上を一つの欄に並べることはできない。
年の欄も書けない。
一八三七年から一八五九年まで、幅がありすぎる。
技法の欄も書けない。
鉛筆と、インクと、水彩が混じっている。
だから、頁ごとに数えるほかない。
ホイッスラーの帖と同じ理由である。
貼り込まれたものが、それぞれ独立した作品だからである。
一方で、失われるものもある。
これが一冊であるという事実である。
九点を別々に見ていると、たまたま同じ館にある九枚の素描に見える。
同じ帖にあった、とは見えない。
それを示しているのは、番号の頭だけである。
二六・二一六という共通の頭。
そして、出所の行の同じ一文。
集めた人の名が、残る
最後に、この帖の名前について書いておきたい。
館はこれを「マグワイアの貼り込み帖」と呼んでいる。
作者の名ではなく、集めた人の名で呼ばれている。
九点の題にも、その名が入っている。
《十五歳の自画像》の題は、正しくは《十五歳の自画像、マグワイアの貼り込み帖から》である。
作者の名は、作者の欄にある。
題のほうには、集めた人の名がある。
これは、この一群を一つの単位として扱うための工夫だろう。
番号の頭だけでは、一覧の上で見えない。
題に入れておけば、並べたときに気づく。
帖を作った人は、絵を描いていない。
それでも、その人がいなければ、この九枚は散らばっていた。
集めるという行為が、一つの単位を作った。
そして、その単位の名が、いまも記録に残っている。
一枚ずつが、小さな仕事である
この帖の頁は、どれも小さい。
そして、どれも短時間で描かれている。
《眠る子どもの頭部》は、輪郭と髪だけである。
《舟のある桟橋》は、線が数本しかない。
《終わり》も、まわりをぼかして終えている。
小さな仕事を、たくさんの人が引き受けた。
そこに、この帖の性格が出ている。
大作を並べた画集ではない。
手のひらほどの紙に、それぞれが少しずつ描いた。
だから、うまい下手より、手つきの違いが目に立つ。
牛の毛を追う線と、子どもの輪郭を一本で決める線。
別れの場面の勢いのある線と、花の水彩の柔らかい塗り。
同じ帖のなかで、九通りの手が並ぶ。
一人の写生帖を見ているときには、この比べ方はできない。
貼り込み帖の面白さは、そこにある。
帖は、誰のものだったか
この帖は、見せるために作られたものだろう。
だとすれば、頁の順序にも意味があったはずである。
末尾飾りがあるということは、始まりもあったはずである。
しかし、いま公開されている記録から、順序を復元するのは難しい。
番号は、二番、六番、十七番、三十一番、三十二番、四十番、四十五番、六十四番と飛ぶ。
番号の順が、貼られた順かどうかも分からない。
《終わり》が四十五番であることは、少し気になる。
末尾飾りなら、いちばん後ろにあってよさそうである。
六十四番の絵があるのだから、四十五番は末尾ではない。
考えられることはいくつかある。
帖が複数冊あったのかもしれない。
あとから頁が足されたのかもしれない。
番号が、貼られた順ではないのかもしれない。
どれも推測にとどまる。
館の記録には、そこまで書かれていない。
分かるのは、《終わり》と題された一枚が、四十五番として登録されているという事実だけである。


