作品を知る

目だけが、向きを持てる——プシアクス・ルドン・モリゾほか九点

杯に描かれた二つの大きな目、閉じられた目、描き直された視線。目の九点を数えると、開いた目はわずか三点で、残りは閉じた目か、名や高さの中の目だった。手も足も向きは体で決まる。目だけが、体と別の方向を持てる。

赤像式の杯:戦士たち、楽人と若者たち
《赤像式の杯:戦士たち、楽人と若者たち》クリーヴランド美術館蔵

杯に、目が二つ描かれる

浅い杯である。

口の直径は26センチ。

高さは11.2センチしかない。

両側に、取っ手が付く。

取っ手まで入れた幅は33.6センチ。

低い脚が、下にある。

外側の地は、黒い。

そこに、大きな目が二つある。

左右に、一つずつ。

目は、赤みがかった地の色で残される。

輪郭は、太い弧を二本合わせた形。

中に、黒い丸がある。

その中に、さらに小さな丸がある。

瞳である。

二つの目のあいだに、人物がいる。

戦士が二人、倒れた者に迫る。

反対の面には、別の三人がいる。

若者が、竪琴を弾く。

二人が、それを聴く。

内側の底には、丸い画面がある。

赤像式の杯:戦士たち、楽人と若者たち
プシアクス《赤像式の眼杯:戦士たち、楽人と若者たち》紀元前520年ごろ。館の記録では、陶。取っ手まで入れて幅33.6センチ、高さ11.2センチ。番号は1976.89。クリーヴランド美術館蔵。《赤像式の杯:戦士たち、楽人と若者たち》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この目の働きを書いている。

眼杯には、両側に大きな目が描かれる。

黒像式のものが多く、赤像式はめずらしい。

そして、飲む者に仮面の効果を生むという。

杯を口に当てて傾けると、目が顔の位置に来る。

飲んでいる人の顔が、杯の目に置き換わる。

ふつうは、目の脇に棕櫚の葉の文様が置かれる。

中央には、鼻か人物が来る。

この作者は、葉を内側の丸い画面へ移した。

そして外側に、三人ずつの場面を作った。

赤像式の初期の、試みの一つである。

九点の最初に、これを置く理由である。

目は、描かれると、見るものではなく見られるものになる。

杯の目は、何も見ていない。

見ているように見えるだけである。

それでも、置かれた場所が効いている。

杯は、傾けなければ飲めない。

傾ければ、この目が上を向く。

飲む人の顔は、杯に隠れる。

隠れた顔の代わりに、この目が正面に出る。

飲むことについては、飲む絵は、注ぐところで止まるで扱った。

目を、閉じる

石版画である。

図の部分は31.2×24.2センチ。

画面の上半分に、頭と肩がある。

顔は、正面を向く。

しかし、目は閉じている。

上瞼の線が、まっすぐ横に引かれる。

睫毛は、描かれない。

眉は、細く、弧を描く。

鼻筋は、長い。

口は、小さく、閉じる。

顎は、丸い。

髪は、額の上で分かれる。

首は、太い。

肩から下は、暗く沈む。

画面の下半分は、別のものである。

水平の線が、いくつも走る。

水面らしい。

その奥に、低い丘がある。

線は、全体に薄い。

眼を閉じて
オディロン・ルドン《眼を閉じて》1890年。館の記録では、支那紙の石版を織目紙に貼る。図の部分は31.2×24.2センチ。番号は1927.306。クリーヴランド美術館蔵。オディロン・ルドン《眼を閉じて》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この形の意味を書いている。

この作者は、目を閉じた両性的な人物を繰り返し描いた。

その表情を、内へ向かう瞑想の印と考えた。

近代の社会の束縛から、離れていく動きである。

館はさらに、刷りについても書く。

石に軽く描いたので、線が淡い。

頭と肩は、その淡さで柔らかく形づくられる。

手前の、説明のつかない風景は、もっと粗く描かれる。

この一枚は、試し刷りの一点物である。

刷師と組んで、仕上がりを確かめていた段階のものである。

そして最後に、こう書き添える。

両性的に見えるが、画家の妻の肖像だとされている。

つまり、目を閉じた顔は、誰かの顔である。

閉じているから、誰かがわかりにくい。

前の一点では、目は描かれて見られるものになった。

ここでは、目は閉じられて見えなくなる。

どちらも、目が働いていない点では同じである。

働いていない目が、絵の主題になる。

働いている目は、そのままでは主題になりにくい。

見ている人は、見ている対象のほうに注意を向けさせる。

目だけを見てもらうには、閉じるか、外して置くしかない。

紙の上に、閉じた目が重なる

習作の一葉である。

紙は18.5×22センチ。

横長である。

一枚に、いくつもの絵が同居する。

左に、馬に乗る男がいる。

ペンと濃い茶のインクで描かれる。

線は、速い。

馬の脚が、四本とも動く。

男は、帽子をかぶる。

右に、少年の胸から上がある。

こちらは、水彩である。

髪は、耳を覆う。

目は、大きく、こちらを見る。

口は、小さい。

襟は、白い。

上着は、灰がかった紫である。

そして、馬と男の上に、薄い鉛筆の線がある。

大きな顔が、一つ重ねられている。

その目は、閉じている。

習作の一葉
アルフレッド・ドゥオダンク《習作の一葉》一八七〇年代。館の記録では、ペンと濃い茶インク、水彩と黒鉛・薄手の織目紙。紙の寸法は18.5×22センチ。番号は2018.1060。クリーヴランド美術館蔵。アルフレッド・ドゥオダンク《習作の一葉》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この紙の使われ方を書いている。

この作者は、多作な素描家だった。

一枚の紙に、いくつもの下絵を重ねることが多い。

右の少年は、作者の息子かもしれないという。

そして、馬上の男の上に、閉じた目の顔が薄く鉛筆で描かれる。

別の構想のために、紙を使い回したのだろう、と館は書く。

つまり、この閉じた目は、消し忘れではない。

新しい絵の始まりである。

紙が足りないので、上から描いた。

前の一点の閉じた目は、完成した主題だった。

この一点の閉じた目は、途中の線である。

同じ形が、一方では作品になり、他方では下描きで終わる。

違いは、どこで手を止めたかだけである。

館は、この作者が旅の記録に素描を使ったとも書く。

仏蘭西、西班牙、摩洛哥を回った。

旅先では、紙が貴重である。

だから、一枚に重ねて描いた。

重ねた結果、閉じた目が馬の上に浮いている。

目を、上へ向ける

大きな油彩である。

額を外すと145.8×99.8センチ。

女が一人、座っている。

体は、右を向く。

胸元は、大きく開く。

衣は、黄と赤と青である。

黄の布が、左肩から垂れる。

赤い布が、腰を覆う。

膝の上に、白い布がある。

左手は、丸い金属の器に添えられる。

兜である。

右手は、盾のふちに置かれる。

足元に、砲身らしいものがある。

そして、顔は上を向く。

目は、画面の外の高いところを見る。

口は、わずかに開く。

髪は、肩に落ちる。

背景は、青い空と、石の柱である。

寓意の人物像
ベルナルド・ストロッツィ《寓意の人物像》1636年ごろ。館の記録では、油彩・カンヴァス。額を外して145.8×99.8センチ。番号は1929.133。クリーヴランド美術館蔵。ベルナルド・ストロッツィ《寓意の人物像》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この人物の正体を書いている。

一六三〇年代に、この画家は寓意の女性像を何点も描いた。

知や芸を表す人物である。

北伊太利亜の学識ある注文主に、こうした主題が好まれた。

近年の研究は、これをミネルウァだとする。

羅馬の戦の女神である。

甲冑を脇へ置き、より思索的なものへ向かっている。

そして、こう書かれている。

上へ向けた視線は、霊感を求めているかのようである。

それが、知恵と弁舌と芸との結びつきを思い出させる。

つまり、目の向きが人物を特定している。

上を見ていれば、思索である。

下を見ていれば、別のものになる。

前の三点では、目は閉じるか、描かれるかだった。

ここで初めて、目は向きを持つ。

向きは、白目と黒目の位置で決まる。

黒目が上に寄れば、上を見ている。

その差は、数ミリの絵具である。

大きな画面の中の、ごく小さな面積が、主題を決めている。

館は、この絵の下絵も同じ館にあると書き添える。

目の向きを、描き直す

油彩である。

額を外すと46×71.8センチ。

横に長い。

画面の左寄りに、女が座る。

草の上である。

肩掛けを敷いている。

白い衣が、大きく広がる。

衣には、細かい花の文様がある。

帽子をかぶる。

つばに、緑の飾りがある。

首に、黒い紐を巻く。

両手で、本を持つ。

顔は、下を向く。

目は、本の頁にある。

草の上に、日傘が投げ出される。

扇も、その脇にある。

背景は、一面の草地である。

奥に、木立と低い丘がある。

読書
ベルト・モリゾ《読書》1873年。館の記録では、油彩・カンヴァス。額を外して46×71.8センチ。番号は1950.89。クリーヴランド美術館蔵。ベルト・モリゾ《読書》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この目について重要なことを書いている。

姉のエドマが、この絵のために座った。

そして、ある検査でわかったことがある。

放射線で調べると、目が描き直されている。

もとは、こちらを見ていた。

見る人をまっすぐ返り見る、という描き方である。

館は、それを同時代のある画家の型だと書く。

そして、この画家の人物はそうではない、と続ける。

仕事や、私的な思いに没入していることが多い。

つまり、目の向きは描き直せる。

顔も、姿勢も、衣もそのままで、目だけを変える。

変えれば、絵の性格が変わる。

こちらを見ていれば、こちらが見られている。

本を見ていれば、こちらは見ているだけになる。

前の一点では、目の向きが人物を決めていた。

ここでは、目の向きが見る側の位置を決めている。

描き直したのは、画家自身である。

こちらを見る顔から、本を見る顔へ変えた。

変えることで、見る側は覗く側になる。

覗かれていないから、こちらは安心して見ていられる。

読むことについては、読む姿は、顔を伏せるで扱った。

座敷の中で、一人だけが見る

掛軸である。

絵の部分は56.4×135.5センチ。

横に、たいへん長い。

画面には、人が十人ほどいる。

右のほうに、女が三人立つ。

先頭の一人は、豪華な衣を着る。

裾が、長く引かれる。

後ろの二人は、若い。

中央に、男が一人横たわる。

縞の衣を掛けている。

手に、扇を持つ。

その扇が、ぶらりと下がる。

顔は、右を向く。

つまり、入ってきた女たちを見ている。

左のほうに、楽器を持つ者がいる。

三味線を弾いている。

その前に、二人が座る。

背景は、金の地である。

家具は、ほとんど描かれない。

遊楽図
宮川長春《遊楽図》一七一〇年から五三年のあいだ。館の記録では、掛軸・絹本着色。絵の部分は56.4×135.5センチ。番号は1985.17。クリーヴランド美術館蔵。宮川長春《遊楽図》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この場面の緊張を書いている。

位の高い遊女が、二人の見習いを連れて座敷に入る。

主賓は、縞の衣の下に横たわる武士である。

扇をぶらつかせながら、音曲から目を転じる。

そして、その登場のほうを見る。

館は、この座敷の経済も書く。

この夜がどう運ばれるかは、彼女の采配にかかっている。

武士が彼女に多く払うほど、他の者にも回ってくる。

つまり、一人の視線が、その場の全員の収入を決める。

画面の中で、目を向けているのは彼だけである。

他の者は、それぞれの仕事をしている。

見る者が一人しかいないとき、その視線は権力になる。

しかもこの武士は、横たわっている。

いちばん低い姿勢で、いちばん強い視線を持つ。

姿勢と視線は、別のものである。

前の二点では、視線は人物の性格を示していた。

ここでは、視線が場の構造を示している。

目の高さに、置かれる

胡桃の木の羽目板である。

高さ160センチ。

幅は476センチもある。

横に、非常に長い。

五つの区画に分かれる。

区画ごとに、四角い板がはまる。

板には、木の象嵌がある。

色の違う木を、はめ込んで絵を作る。

柊と黒檀が使われる。

区画の枠には、渦と葉の文様が回る。

文様は、細く、連続する。

板の面は、磨かれている。

木目が、そのまま見える。

上下の縁は、段になっている。

全体に、色は濃い茶である。

聖具室の戸棚の上部羽目板
ジュリアーノ・ダ・マイアーノ《聖具室の戸棚の上部羽目板》一四六〇年から七五年のあいだ。館の記録では、胡桃材に柊と黒檀の象嵌。高さ160センチ、幅476センチ。番号は1915.526。クリーヴランド美術館蔵。ジュリアーノ・ダ・マイアーノ《聖具室の戸棚の上部羽目板》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この技法と置き場を書いている。

色の違う木を象嵌して、一種の寄木絵を作る。

十五世紀と十六世紀の伊太利亜で好まれた。

書斎や小部屋、教会の聖具室の羽目板と家具に使われた。

この五枚一組は、フィレンツェのどこかの教会から来た。

もとの場所では、同じ装飾の戸棚の上に載っていた。

戸棚には、祭服と書物が納められていた。

そして、こう書かれている。

したがって、この羽目板は目の高さで見られていたはずである。

ここで目は、寸法の基準である。

床から160センチほどの高さに、板の中心が来る。

それが、立った人の目の高さである。

前の回で見た肩や膝と、同じ役目である。

体が、物の置き場を決めている。

象嵌については、彫るは、深さで語られるで扱った。

鳥の名に、目が入る

摺物である。

20.8×13.7センチ。

縦長である。

画面の右下から、枝が伸びる。

桃の枝である。

花が、三つ咲く。

花弁は、淡い赤である。

蕾も、いくつかある。

葉は、まだ少ない。

枝に、鳥が三羽とまる。

小さい。

体は、黄緑である。

腹は、白い。

嘴は、細く尖る。

目のまわりに、白い輪がある。

その輪が、はっきり描かれる。

左に、文字が三行ある。

右下に、赤い印がある。

桃の枝の目白(鳥合より)
窪俊満《桃の枝の目白(鳥合より)》一八〇五年ごろ。館の記録では、私家版の摺物を帖に貼る・墨と色・紙。20.8×13.7センチ。番号はJP2293。メトロポリタン美術館蔵。窪俊満《桃の枝の目白(鳥合より)》メトロポリタン美術館蔵

館の札は「鳥」「花」「木」の三つである。

目の札はない。

しかし、鳥の名に目が入っている。

目白である。

目のまわりが白いので、そう呼ぶ。

英語でも、同じ呼び方をする。

白い目、という名である。

つまり、体の特徴が種の名になっている。

前の回でも、同じことがあった。

人の名に、肩や膝や足が入っていた。

鳥の場合は、種全体の名である。

一羽ごとの名ではない。

そして、その白い輪は目そのものではない。

目のまわりの羽である。

名は、目と言いながら、羽を指している。

摺物は、売り物ではない。

私家版として作られ、配られる。

だから紙も絵具も上等で、部数は少ない。

この一枚も、帖に貼られて残った。

誰の目で、見るか

写真である。

図の寸法は28.1×38.2センチ。

横長である。

画面の中央に、小さな神殿がある。

柱が、四本立つ。

柱の上に、横木が渡る。

その上に、飾りの帯がある。

帯には、人物の浮彫が並ぶ。

しかし、細部は潰れている。

神殿の下は、大きな石積みである。

石は、不揃いである。

手前は、崩れた地面である。

石の破片が、散らばる。

奥に、海が見える。

水平の線が、一本走る。

空は、白い。

人は、写っていない。

アテナ・ニケ神殿、勝利のヴィーナス、翼なき勝利の女神
ディミトリオス・コンスタンティン《アテナ・ニケ神殿、勝利のヴィーナス、翼なき勝利の女神》一八五〇年代から六〇年代。館の記録では、コロジオンネガからの鶏卵紙印画。図の寸法は28.1×38.2センチ。番号は2022.17。クリーヴランド美術館蔵。ディミトリオス・コンスタンティン《アテナ・ニケ神殿、勝利のヴィーナス、翼なき勝利の女神》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、短い。

ただし、書き出しが変わっている。

ここに見えるのは、古代ギリシアの記念物である。

それを、十九世紀のギリシア人の目を通して見ている。

そう書かれている。

神殿そのものは、紀元前四二〇年ごろに完成した。

二柱の女神に捧げられた。

どちらも、戦での勝利を表す。

館はさらに、この写真家について書く。

一八五八年に工房を開いた。

ギリシアで二番目の職業写真家だろうという。

ここで目は、写真家の立場を指す。

同じ神殿を、外から来た人が撮ることもできた。

実際、そうした写真は多い。

しかし、この一枚は地元の人が撮った。

誰の目で見たかを、館はわざわざ書いている。

写っているのは石だけだが、記録には目がある。

数えてみると

九点を数え直す。

人の目が画面に見えるのは、五点である。

ルドンの顔、習作の少年と重ねられた顔、ミネルウァ、読書の女、座敷の武士。

このうち、開いている目は三点だけである。

閉じた目が、二点。

目が描かれているが人ではないのが、一点。

杯の目である。

目が写っていないのが、三点。

羽目板、目白、神殿の写真である。

視線の向きで分けると、はっきりする。

上を向くのが一点、下を向くのが一点、横を向くのが一点。

三点とも、向きが記録に書かれている。

そして、そのうち一点は、向きを描き直した跡が残っていた。

目は、描き直しのきく部分である。

顔の輪郭を変えずに、視線だけを変えられる。

言えることと、言えないこと

言えるのは、目が向きを持つ唯一の部分だということである。

手も足も、向きは体で決まる。

目だけが、体と別の方向を持てる。

だから、視線という語がある。

視線は、画面の外へも出ていける。

こちらを見ている絵と、そうでない絵は、まったく違う。

その差は、目の中の小さな点の位置だけである。

読書の一枚で描き直されたのも、その点である。

言えないことも、いくつかある。

まず、閉じた目は、目の絵なのかどうか。

形としては、線が一本あるだけである。

それでも記録は、閉じた目と書く。

書かれているから、機械はそれを拾う。

拾った二点は、どちらも人の内側を主題にしていた。

閉じることが、内側の合図になっている。

次に、杯の目は人の目ではない。

しかし、飲む人の顔と重なることで、人の目になる。

使わなければ、ただの文様である。

使い方が、意味を作っている。

最後に、誰の目で見たかという記録は、めずらしい。

九点のうち、一点しかなかった。

ふつう、写真の記録は撮った人の出身を書かない。

書かれたときだけ、目という語が現れる。

目は、体の部分でありながら、立場の名でもある。

そして立場は、画面には写らない。

写らないものを書き添えるかどうかは、館が決める。

書き添えられた一点だけが、目の記録として残る。

残ったから、この九点に入った。

入れるかどうかは、こちらが決めた。

数えるという仕事は、二重に選んでいる。

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