木から皿まで、実の三つの段階——歌麿・カトリン・ファンタン=ラトゥールほか九点
実は、木になり、摘まれ、盛られる。絵に描かれるのは、たいてい途中か終わりである。九点で、その道筋を追いたい。齧られた跡のある実は、九点のうち一点にしかない。九点のうち五点に葡萄が出るのも、理由がある。

木から皿まで
前の回で、器に生けた花を見た。
摘まれた花が、器に入って絵になった。
今回は実である。
果実にも、同じ道筋がある。
木になり、摘まれ、器に盛られる。
そして、絵に描かれるのは、たいていその途中か終わりである。
木についたままの実は、意外に少ない。
九点を並べて、その段階を追いたい。
九点のうち二点には、実がない。
その二点も、理由があって混ざっている。

掛軸である。
絹に描かれている。
画面だけで一三〇・八掛ける六二・五センチ。
表装を含めると、高さが二二二・九センチになる。
第十七回で書いたとおり、掛軸の記録は二つの寸法を持つ。
絵の部分と、仕立てた全体である。
画面には、太い木の幹が下から立ち上がる。
幹は白っぽく、節が多い。
途中で二つに分かれる。
館の記録では、桃の木である。
そして、枝の先に薄い桃色の花がつく。
上のほうには、柳が垂れる。
細い枝が、右上から左へ流れる。
葉は淡い緑である。
鳥が二羽いる。
一羽は上の枝に、横を向いて止まる。
もう一羽は幹の中ほどにいる。
こちらは背を見せている。
つまり、この一点に実はない。
花だけである。
桃の花が咲く時期は、実がなる前である。
第九回で、季節を示す図について書いた。
同じ木でも、花か実かで季節が変わる。
花なら春、実なら夏か秋である。
この一点は、実の前の段階を描いている。
だから、ここから始めたい。
木になっている実

刀の鐔である。
真鍮の地に、黒い線が入る。
大きさは八・三掛ける七・九センチ。
中央に刀身を通す穴があり、右側に小柄の穴がある。
そして、面いっぱいに葡萄が広がる。
館の記録の題は、葡萄棚である。
上部に横の線があり、これが棚だろう。
そこから蔓が垂れる。
大きな葉が五枚ほど。
葉脈まで彫り込まれている。
そして、葉のあいだに実の房がある。
小さな丸が集まって、三角に垂れる。
つまり、この実は木についたままである。
摘まれていない。
穴の右に、字が二つ入る。
館の記録では、作者の銘である。
第十八回で、刀装具の銘について書いた。
小さな面に、作者名を彫り込む。
そして、その位置は決まっていない。
この一点では、穴のすぐ横である。
葡萄が刀装具に多いことも、書いておきたい。
蔓が曲がり、葉が広く、実が細かい。
丸い面を埋めるのに、都合のよい形である。
前の回で、花が装飾に向くと書いた。
葡萄は、その上をいく。
一つの植物で、線と面と粒が揃っている。
摘む場面

三枚続の版画である。
三八・一掛ける七六・二センチ。
横に長い。
第十八回で書いたとおり、三枚続は横の広がりを作る形式である。
三枚を並べて、一つの場面にする。
画面には、十人ほどの女性がいる。
右のほうに、柿の木がある。
枝が上に広がり、実がついている。
その下で、一人が長い棒を持ち上げる。
先を枝に伸ばしている。
館の記録の題は、柿をもぐことを言っている。
つまり、これが摘む場面である。
木から実を離す、その瞬間である。
そして、下では別の女性たちが待つ。
籠を持つ者、受け取ろうとする者。
左のほうには、座っている者もいる。
赤い布が敷かれ、格子の戸がある。
つまり、庭か屋敷の一角である。
背景の下に、赤い帯がある。
これは版画の決まりの一つである。
地面や敷物を、平らな色の帯で示す。
第九回で、この表し方について書いた。
奥行きを描かず、面の重なりで場所を示す。
そして、人物の配置が読みどころである。
木のそばに動きがあり、左へ行くほど静かになる。
一つの動作が、横に流れて収まっていく。
もう一つの摘む場面

こちらも、摘む場面である。
四六・六掛ける六二・八センチ。
横長である。
そして、画面が楕円に切り抜かれている。
外側は、色のついた台紙である。
上に小さな札が貼ってある。
第十五回で、こうした仕立てについて書いた。
紙に描いた絵を、台紙に貼って保存する。
その台紙ごと記録される場合がある。
楕円の中には、平原がある。
空が広く、青い。
地平線は低い。
中ほどに、細い木が十本ほど立つ。
葉が茶色や緑で、まばらである。
その根もとに、人が集まっている。
数えられるだけで、二十人ほど。
立つ者、しゃがむ者、歩く者。
そして、右のほうに大きな籠か桶がある。
館の記録によれば、野生の葡萄を集めている。
つまり、栽培ではない。
棚もなく、畑もない。
自生した蔓から、実を取る。
前に見た鐔の葡萄は、棚に仕立てられていた。
同じ実でも、生え方が違う。
そして、摘み方も違う。
棚なら手が届く。
木に絡んだ蔓なら、登るか引き寄せる。
この一点では、人が木のまわりに散らばっている。
盛られた実

非常に大きな絵である。
二六一・六掛ける一八七・三センチ。
高さが二メートル六十を超える。
九点のなかで、群を抜いて大きい。
第十六回で、大画面の静物について書いた。
壁一面を飾るために描かれる。
食堂や広間に掛けられる形式である。
画面には、石の台がある。
その上に、銀の器が並ぶ。
大きな盆、蓋つきの壺、脚のついた杯。
いずれも彫刻がついている。
中央に、大きな盆がある。
そこに、実が山のように盛られている。
葡萄、桃、無花果のようなもの。
色は赤、緑、紫、黄。
そして、実の上に花が飾られている。
背後には、石の壁と噴水のようなものがある。
その上にも、花が積まれている。
奥は屋外で、木と空が見える。
つまり、屋内と屋外の境である。
台の手前、下のほうに、実が転がっている。
盆から落ちたのか、置かれたのか。
白い布も垂れている。
第十四回で、この形式について書いた。
豪奢を並べて描く。
銀と実と花を、一つの画面に積む。
そして、実はここで完全に道具になっている。
食べるためではなく、飾るために盛られている。
小さな実の絵

前の一点と正反対である。
二一掛ける三五・六センチ。
はがき二枚ほどの大きさである。
横長で、背景は黒に近い。
そこに、実が並ぶ。
赤い林檎が七つか八つ。
館の記録では、野林檎である。
栽培種より小さい実である。
そして、緑の葡萄が二房。
粒が大きく、房が広がる。
実は台の上に、ばらばらに置かれている。
盛られていない。
積まれてもいない。
ただ、転がっているように見える。
そして、右のほうの林檎が一つ、齧られている。
白い果肉が見えている。
これが、この記事の題の由来である。
九点のなかで、切られた実はここだけである。
第十四回で、静物の細部について書いた。
齧った跡や、傷んだ部分を描き込む。
完全なものだけを並べない。
そうすると、置かれた時間が見える。
誰かがここにいて、一つ取って齧った。
そして、残りが並んでいる。
つまり、絵に人がいなくても、人の跡がある。
前の回でも、落ちた花について同じことを書いた。
花と実を並べる

三四・六掛ける四一・六センチ。
小さな絵である。
前の回で見た花瓶の絵に近い。
だが、こちらには実がある。
画面の左に、脚つきの硝子の器がある。
そこに白い薔薇が挿さっている。
五つか六つ。
黄色を帯びたものも混じる。
葉は暗い緑である。
そして、器の右に、洋梨が一つ置かれている。
大きく、黄色い。
赤みが少し差している。
その手前に、緑の葡萄が一房。
粒が小さく、平たく広がる。
背景は暗い茶色である。
台の面も茶色で、境がはっきりしない。
右上に、作者の署名と年がある。
つまり、この一点は花と実を同じ台に置いている。
前の回で見た七点は、花だけだった。
ここでは、実が加わる。
そして、実は器に入っていない。
台に直接置かれている。
この違いは大きい。
花は器がなければ立たない。
実は、置けばそのまま止まる。
だから、実の絵には器が要らない。
第十四回で、静物の道具立てについて書いた。
何を器に入れ、何を直に置くか。
それは主題の性質が決めている。
実のない一点

素描帖の一葉である。
二二・九掛ける二九・二センチ。
紙は灰色に見える。
インクの線だけで描かれている。
一枚の紙に、いくつもの図が散らばっている。
館の記録の題が、その全部を並べている。
建築の素描が二点。
卓につく三人の男。
動物を抱く子ども。
角から現れる人物。
そして、芝居の一場面。
つまり、五つ以上の別々の図が同居する。
第十七回で、素描帖の記録について書いた。
一葉に複数の図があるとき、題が長くなる。
そして、表と裏で別の番号を持つ。
この一点も、番号の末尾に表とある。
裏にも図があるはずである。
では、なぜこの一葉がここに混ざったのか。
卓につく三人の男、という語である。
食卓の場面には、しばしば果物が出る。
だが、この素描には実がない。
線が粗く、卓の上に何があるかも読めない。
つまり、これも外れである。
前の回でも、題の語だけが一致した風景画があった。
同じことが、素描でも起きる。
そして、素描帖は特に起きやすい。
題に多くの語が並ぶからである。
葡萄が四点
九点のうち、葡萄が出るものを数えたい。
鐔の一点。
野生の葡萄を集める一点。
野林檎と葡萄の一点。
薔薇と果物の一点。
そして、水差しの一点。
五点である。
九点のうち五点に葡萄がある。
これは多い。
理由はいくつか考えられる。
第一に、形である。
小さな粒が房になる。
丸いものが集まる形は、描いても彫っても面白い。
第二に、蔓と葉である。
蔓は曲線を作り、葉は面を作る。
一つの植物で、三種類の形が揃う。
第三に、意味である。
葡萄は酒になる。
だから、豊かさや宴を示す図として使われてきた。
第九回で、意味を持つ植物について書いた。
そして、地域を問わず葡萄が使われている。
日本の鐔にも、米国の水差しにも、同じ実がある。
栽培の歴史が長く、広い範囲に伝わったからだろう。
実が器の形になる

最後は、器そのものである。
高さ二六・七センチ。
茶色の釉が、まだらに掛かっている。
館の記録では、ロッキンガム釉という。
黄色い素地に、茶色の釉を流し掛ける。
そして、焼くと斑になる。
十九世紀の米国で、広く作られた。
形は水差しである。
胴が丸く、口が前に突き出す。
把手が後ろにつく。
蓋がある。
館の記録は、氷を入れる水差しと言っている。
そして、胴の全面に葡萄が浮き彫りされている。
大きな葉が重なり、実の房が垂れる。
蔓も巻いている。
把手にも、細い蔓が絡む。
つまり、実が装飾になっている。
前の回で見た花瓶と同じである。
器の表面に、植物が置かれる。
だが、違いもある。
この一点は、彫られた形である。
描かれた絵ではない。
型に彫って、そこへ土を押しつける。
だから、何個でも同じものが作れる。
第十六回で、型による生産について書いた。
同じ意匠を、安く多く作る。
そして、葡萄は型に向いた主題である。
粒が丸く、葉が厚い。
浮き彫りにすると、影がよく出る。
実の種類
九点に出る実を数えたい。
葡萄が五点。
柿が一点。
野林檎が一点。
洋梨が一点。
桃、無花果のようなものが一点。
そして、掛軸の桃は花だけである。
つまり、種類は多くない。
そして、地域によって偏る。
葡萄は、日本にも欧州にも米国にもある。
柿は、日本の版画だけである。
野林檎と洋梨は、欧米の絵だけである。
第九回で、地域と主題の関係について書いた。
その土地で採れるものが、その土地の絵に出る。
当たり前のようだが、確かめておく価値がある。
そして、例外もある。
刀装具の葡萄は、日本で広く使われた図である。
だが、当時の日本で葡萄の栽培が盛んだったわけではない。
図としての葡萄が、中国から伝わっている。
つまり、実物より先に、絵が伝わることがある。
第十七回で、図の伝播について書いた。
主題は、物より速く動く。
三つの段階
九点を、段階で並べ直したい。
第一に、実の前である。
掛軸の一点が、これにあたる。
桃の花が咲いている。
第二に、木についた実である。
鐔の一点と、水差しの一点。
どちらも棚か蔓に、実が垂れている。
第三に、摘む場面である。
柿もぎの版画と、葡萄を集める一点。
人の手が、実を木から離している。
第四に、置かれた実である。
銀器の静物、野林檎の静物、薔薇と果物の静物。
三点とも、実は台か盆の上にある。
そして、外れが一点。
素描帖の一葉には、実がない。
つまり、九点で一本の道筋ができる。
咲き、実り、摘まれ、盛られる。
そして、盛られた実の一つが齧られている。
その先は、絵に描かれない。
食べ終えた皿を描いた絵は、この九点にない。
大きさの差
九点の寸法を比べたい。
いちばん大きいのが、銀器の静物である。
二六一・六掛ける一八七・三センチ。
いちばん小さいのが、野林檎の静物である。
二一掛ける三五・六センチ。
面積で言えば、七十倍ほどの差がある。
同じ果物を描いても、この幅がある。
大きいほうは、壁の装飾である。
離れて見る絵である。
だから、実は山として描かれる。
一つ一つの形より、全体の量が重要になる。
小さいほうは、近くで見る絵である。
だから、一つ一つが描き分けられる。
齧られた跡まで見える。
第十五回で、見る距離と描き方の関係について書いた。
同じ主題でも、大きさが描き方を決める。
そして、掛かる場所も変わる。
大画面は広間に。
小さな板は、手もとか小部屋に。
実を数えた記録
館の記録は、実の数を書かない。
種類を書くこともあれば、書かないこともある。
九点の題を見たい。
葡萄の語が入るのは三点である。
鐔、野生の葡萄を集める一点、水差し。
野林檎の語が入るのは一点。
柿の語が入るのは一点。
果物という総称が入るのは一点。
残る三点には、実の語がない。
銀器の静物、掛軸、素描帖。
銀器の静物には、実が山ほど描かれている。
それでも、題は銀器を言っている。
つまり、記録の題は最も重要な要素を選ぶ。
この一点では、銀の器が主題だと判断されている。
前の回でも、同じことを書いた。
見えているものと、書かれていることは一致しない。
そして、その判断は誰かが下している。
館の記録を作った人である。
第十七回で、記録の作られ方について書いた。
題は、しばしば後年に付けられる。
作者が付けた題が残っている場合は少ない。
だから、題は作品そのものではなく、記録の一部である。
部門と技法
九点の部門を確かめたい。
欧州絵画部門が二点。
米国部門が三点。
アジア部門が二点。
武具部門が一点。
そして、ナショナル・ギャラリー・オブ・アートが二点。
技法も広い。
カンヴァスに油彩が四点。
厚紙に貼った台紙に油彩が一点。
木版画が二点。
絹に墨と色が一点。
紙にインクと淡彩が一点。
金属が一点。
陶器が一点。
まとめれば、油彩が五点。
版画が二点。
掛軸が一点。
素描が一点。
金属が一点。
陶器が一点。
九点を、六つの材料で数えたことになる。
同じ主題を、違う材料で扱っている。
第十七回で、部門をまたぐ比較について書いた。
材料が変われば、描ける細部が変わる。
金属では色が出ない。
陶器では線が出にくい。
油彩なら、齧った跡の白い果肉まで描ける。
材料が、どこまで描けるかを決めている。
最後に、九点の年を並べておきたい。
いちばん古いのが、十七世紀の鐔である。
次が一七二〇年代の大画面。
次が一七六〇年代の掛軸。
次が一八〇二年ごろの柿もぎ。
次が一八一〇年からの素描帖。
次が一八四九年からの水差し。
次が一八六一年からの平原の一点。
次が一八六三年の薔薇と果物。
そして、一八八八年の野林檎。
二百年あまりの幅である。
そのあいだ、実の描き方は大きく変わっていない。
木にあり、摘まれ、置かれる。
その三つの段階を、どの時代も描いている。


