遊びの絵は、勝負の絵になる——テニールス・春章・北渓ほか九点
遊びを描いた九点を数えると、笑っている顔はほとんどなかった。骰子の絵では三人が黙って一点を見つめ、盤の絵では点を書き留める人がいる。数える人がいれば遊びは勝負になり、いなければ遊びのままでいられる。九点のうち、数える人は一点だけだった。

盤を挟んで、二人が向き合う
薄暗い部屋の絵である。

横長の画面である。
額なしで59×80.6センチある。
部屋は褐色に沈む。
壁は土の色である。
天井は低く、梁が見える。
奥に、明るい窓がある。
光は、そこから斜めに入る。
画面の左に、木の卓がある。
卓の上に、盤がある。
盤には、細長い区画が並ぶ。
区画の上に、小さな駒が置かれる。
卓を挟んで、二人の男が座る。
一人は白い上着で、こちらへ背を向ける。
もう一人は青い上着で、正面を向く。
二人とも、盤を見下ろす。
手は盤の上にある。
その周りに、三人が立つ。
三人は、勝負を覗き込む。
一人は、板に何かを書き付ける。
館の記録では、点を数えているという。
奥には、別の人の群れがいる。
七、八人はいる。
窓のそばで、話しているように見える。
右の隅に、若い女が立つ。
上の窓から、年配の女が見下ろす。
館の記録では、この二人がこの部屋の性格を示すという。
賭けの場であり、遊女のいる場だろうと書く。
床には、壺と骨が転がる。
犬らしい影も見える。
館の記録では、左下に署名がある。
館は、この遊びの歴史も書いている。
盤を使う遊びは、古くから続いてきた。
今の形になったのは、十五世紀だという。
名前が今のものになるのは、もっと後である。
この絵が描かれた頃と、ほぼ同じ時期らしい。
十七世紀には、たいへん流行した。
そして、金を賭けて遊ばれることが多かった。
館は、そう説明している。
左の二人は、高い賭けの最中だという。
点を書き留める人がいるのは、そのためだろう。
記録がなければ、勝ち負けが決まらない。
盤の駒は、小さく描かれる。
どちらが優勢かは、絵からは分からない。
分かるのは、二人が動かない姿勢だけである。
遊びは、九つの場所に現れる
このコラムでは、遊びの絵を九点並べる。
九点は、館も年代も技法も違う。
油彩があり、版画があり、素描があり、摺物がある。
共通するのは、館の記録に遊びか勝負の語があることだけである。
数えるのは、遊んでいる人と、見ている人の数である。
骰子を、机の上に転がす
二点目は、横長の油彩である。

とても横に長い画面である。
47×96.5センチある。
高さの二倍以上の幅がある。
画面の全体が、褐色に暗い。
背景は、ほとんど塗り潰される。
手前に、木の机がある。
机の面は、画面を横に切る。
その面に、光が当たる。
机の上に、小さな塊がある。
赤い点が見える。
骰子である。
机の左に、男が身を乗り出す。
男は赤褐色の服を着る。
顔は机の面すれすれにある。
目は、骰子を見る。
右には、女がいる。
女は緑の服を着る。
胸元が広く開く。
腕を机の上に伸ばす。
手は、骰子の近くにある。
女の後ろに、もう一人いる。
赤い帽子をかぶる。
顔は暗く沈む。
三人とも、視線が一点に集まる。
その一点に、小さな骰子がある。
題は、最後の一投である。
つまり、これで決まる場面である。
横に長い画面の使い方を見る。
幅96.5センチに対し、高さは47センチしかない。
人は三人、机は一つである。
三人は、その幅に横並びになる。
重なりが少ないぶん、視線がよく見える。
三つの視線は、すべて机の上へ落ちる。
交わる点は、画面のほぼ中央にある。
骰子は、そこに置かれている。
小さいものほど、視線で示される。
画面が横に長いのは、そのためでもある。
並べれば、集まる先が分かりやすい。
背景を暗くしたのも、同じ理由だろう。
明るいのは、机の面と三つの顔だけである。
洋燈の下で、札を配る
三点目も、油彩である。

横長の画面である。
額なしで49.7×60.7センチある。
画面は、楕円に切り取られる。
四隅は暗い。
部屋は狭い。
壁は褐色である。
奥に、棚と扉がある。
画面の中央に、卓がある。
卓の上に、洋燈が立つ。
洋燈は明るく、周りを照らす。
火屋は白い。
卓を挟んで、二人が座る。
左の男は、帽子をかぶる。
顔は横向きである。
手には、札がある。
右の男は、こちらへ体を向ける。
両手に札を持つ。
顔は下を向く。
二人とも、黙っている。
見ている人は、いない。
床には、荷物らしい塊がある。
館の記録では、これはある店の名である。
店の中で、二人が札を合わせている。
館の記録では、左上に署名と年がある。
署名は、赤褐色の絵具で書かれる。
年も、そこに入っている。
館の記録には、旧蔵者の名も並ぶ。
ある夫婦が、長く持っていたという。
カンヴァスの裏に、名前の書き込みもある。
館は、それを妻の名と見ている。
夫の死の三年後に、売りに出したらしい。
館の記録は、そこまで推測を書く。
絵の中の二人は、店の客である。
名の付いた店で、札を合わせている。
楕円の形は、後から切られたものではない。
初めから、この形で描かれている。
四隅の暗さが、そのことを示す。
紙の裏に、札を持つ二人がいる
四点目は、素描である。

横長の紙である。
紙は32.3×40.7センチある。
紙は薄い褐色である。
この一枚には、両面に絵がある。
表には、男の頭部がある。
男は口を大きく開ける。
首の筋が浮く。
髪は乱れて散る。
館の記録では、これは恐怖の表情の研究である。
ある王の注文の絵のために描かれた。
その絵は、今は失われている。
館は、そう説明している。
裏には、別の絵がある。
小さな卓を挟んで、二人が座る。
左は男、右は女らしい。
二人とも、手に札を持つ。
線は速く、輪郭だけである。
顔は、点と線で示される。
背景は、ほとんど白いままである。
同じ紙の表と裏で、絵の調子がまったく違う。
一方は叫び、一方は遊んでいる。
館の記録は、表の絵について詳しい。
この顔は、実物を見て描いたのではないという。
ある画家の講義が、もとになっている。
心の動きを顔に表す方法の講義である。
それは、百年以上前のものだった。
画家は、その考えに沿って首の筋を強めた。
顎の下と髪に、擦った影を置いた。
褐色の紙を、中間の明るさに使っている。
館は、そこまで書いている。
裏の絵については、記録が短い。
カード遊びをする女と男、とあるだけである。
表が注文の仕事で、裏が余白なのだろう。
同じ紙が、二つの用に使われている。
庭で、目隠しが手を伸ばす
五点目は、エッチングである。

館の記録に、寸法の記載はない。
横長の画面である。
線は細く、全体が灰色である。
画面の上半分は、木である。
木は大きく、葉が茂る。
枝は左右に広がる。
右奥に、建物の柱が見える。
石の欄干もある。
欄干の上に、像が並ぶ。
館の記録では、その飾りは当時の流行の形である。
画面の下半分に、人が集まる。
十数人はいる。
女は裾の広い服を着る。
男は上着と帽子である。
草の上に、座っている人もいる。
中央に、立っている人がいる。
その人は、両腕を前へ出す。
目のあたりに、布が巻かれる。
これが鬼である。
周りの人は、少し離れて立つ。
逃げる構えの人もいる。
笑っているらしい顔もある。
館の記録では、これは別の画家の絵を版にしたものである。
版画家が、原画を写している。
館は、その線の軽さに触れている。
館の記録では、こうした版画家は特別に訓練された。
他人の絵を版にして、広める仕事である。
原画は、ある画家の油彩だった。
版にすると、色は消える。
残るのは、形と明暗だけである。
それでも、庭の遊びの軽さは伝わる。
館は、そう評価している。
この種の集まりにも、名前がある。
野外での催しを指す言葉である。
貴族が好んだ遊びだという。
館の記録は、そのことも書き添えている。
木の大きさに比べれば、人はみな小さい。
庭の広さが、そのまま身分を示している。
平原で、輪と棒を投げる
六点目は、油彩である。

横長の画面である。
49.7×70センチある。
画面の上半分は、空である。
空は淡い青と灰色である。
雲が横に流れる。
地面は、緑がかった褐色である。
平らで、広い。
画面の左に、二人がいる。
二人は走っている。
体は前へ傾く。
手に、長い棒を持つ。
棒は前方へ伸びる。
その先に、小さな輪がある。
輪は地面を転がる。
右のほうに、人の列がある。
数十人が立ち並ぶ。
服は赤や褐色である。
顔は小さく、判別できない。
列は、画面の右端まで続く。
奥にも、人の群れがある。
見ている人のほうが、はるかに多い。
館の記録では、これはある競技の名である。
輪と棒を使う遊びだという。
遊ぶ人は二人、見る人は数十人である。
輪の大きさを見る。
輪は、人の膝ほどの高さである。
地面を転がる。
棒は、それより長い。
走りながら、棒を投げるらしい。
輪が止まる場所に、棒を近づける競技だろう。
絵からは、規則までは分からない。
分かるのは、二人が全力で走っていることだけである。
見ている列は、まっすぐに並ぶ。
線のように、画面を横切る。
その線が、競技の場を区切っている。
柵はない。
人の列が、そのまま境になっている。
香を聞き比べる
七点目は、版画である。

横長の紙である。
21.6×29.8センチある。
画面は、部屋の中である。
右に、障子と欄間がある。
左は、外の景色が覗く。
床には、畳と敷物がある。
四人の女が、画面に並ぶ。
いずれも大きな髷を結う。
衣は赤、白、黒である。
模様は細かい。
裾は床に広がる。
右の二人は、向かい合う。
一人は前へ屈む。
顔を、手元へ近づける。
その手元に、小さな道具がある。
館の記録では、これは香を当てる遊びである。
左の二人は、離れて座る。
一人は紙を手にする。
紙には、文字が書かれる。
もう一人は、こちらを見ている。
道具は小さく、目立たない。
目立つのは、衣の模様と髪の形である。
遊びの絵でありながら、装いの絵にも見える。
館の記録では、この四人はある店の女である。
店の名も、記録に残る。
遊びの名も、記録にある。
香を焚いて、その種類を当てる。
嗅ぐのではなく、聞くという。
道具は、小さな器と札である。
札に、答えを書く。
左の女が持つ紙は、その札だろう。
勝ち負けは、書いたものでしか分からない。
画面には、点を数える人がいない。
静かな遊びである。
版画の色は、赤と黒が強い。
模様の細かさが、画面の密度を作っている。
歌の札を、手に持つ
八点目も、版画である。

正方形に近い紙である。
紙は21×18.4センチある。
背景は、淡い橙色である。
上のほうに、白い梅の枝がある。
花は白く、盛り上がって刷られる。
左上に、四角い枠がある。
枠の中に、文字が並ぶ。
館の記録では、これは和歌である。
画面の中央に、女が座る。
女は横を向く。
髪は高く結われる。
衣は青く、大きな丸い模様がある。
模様は、金と銀で刷られる。
裾は、床に広がる。
女の膝の前に、黒い箱がある。
箱は小さく、四角い。
その周りに、札が数枚散る。
札には、文字と絵がある。
女の手にも、札がある。
札を見ている。
一人だけの画面である。
相手はいない。
館の記録では、これは古い絵に基づく図である。
昔の画家の絵を、写した形になっている。
摺物という形についても書いておきたい。
これは、売るための版画ではない。
注文で作り、配るためのものである。
だから、金銀の絵具や空摺が使える。
手間をかけても、部数が少ない。
梅の花の白い盛り上がりも、空摺である。
色を付けない版木で、紙を押し上げる。
光の当たり方で、模様が見える。
枠の中の和歌は、この摺物のための歌である。
館の記録は、その意味も訳している。
梅の枝のあいだで、鳥が鳴くという歌である。
札の遊びと、歌が重ねられている。
同じ語で、別のものが呼ばれる
九点目は、静物である。

横長の板である。
83.5×118.7センチある。
館が公開する画像は、白黒である。
色は分からない。
画面の中央に、卓がある。
卓の上に、皿が置かれる。
皿には、果物が盛られる。
丸い実が積み上がる。
葡萄の房もある。
その左に、鳥が横たわる。
鳥は数羽ある。
翼が広がったままのものもいる。
首は、卓の縁から垂れる。
小さな鳥は、束になる。
右には、獣が吊るされる。
後脚を上にして、逆さに下がる。
耳の長い獣である。
背景は暗い。
窓も壁も見えない。
この一点に、遊んでいる人はいない。
館の記録の題には、遊びの語がない。
英語の記録では、獲物と遊びが同じ語になる。
この九点目は、その語で並んだ一点である。
並べてみると、分かることがある。
この絵の卓も、遊びの絵の卓と同じ位置にある。
画面の下を横に切り、手前に面を作る。
その面の上に、ものが置かれる。
札や骰子の代わりに、鳥と果物がある。
人が集まる場所に、卓が置かれる。
食べるための卓と、遊ぶための卓である。
形は、ほとんど変わらない。
館の記録では、この画家の作は少ない。
記録に残る名も、多くはない。
年は1645年と記される。
盤の勝負の絵と、ほぼ同じ頃である。
数えてみると
九点を並べ直す。
遊んでいる人がいるのは、八点である。
残る一点は、獲物の静物である。
遊んでいる人の数を数える。
二人だけが、四点である。
四人が一点、十数人が一点である。
一人だけが、一点である。
札を持つ女の絵である。
もう一つ数える。
見ている人がいるのは、三点である。
盤を囲む三人、平原の数十人、女の後ろの一人である。
このうち一点では、見る人が遊ぶ人より多い。
平原の競技である。
道具でも分かれる。
札が三点、盤が一点、骰子が一点である。
輪と棒が一点、香の道具が一点である。
道具のない遊びは、一点だけである。
目隠し鬼ごっこである。
場所でも分かれる。
屋内が五点、屋外が三点である。
残る一点は、背景の分からない静物である。
屋内の五点は、いずれも卓か床の上で遊ぶ。
屋外の三点では、地面か草の上である。
年でも並べてみる。
十七世紀が二点、十八世紀が三点である。
十九世紀が四点である。
二百年以上の幅がある。
それでも、卓を囲む形はほとんど変わらない。
さらに数える。
九点のうち、賭けが記録されるのは一点である。
九点のうち、女が遊ぶのは四点である。
男だけが遊ぶのは、三点である。
男女が並ぶのが、一点である。
賭けについては、画面のなかの金でも触れた。
言えることと、言えないこと
言えるのは、遊びの絵が見る人を描くということである。
九点のうち三点に、見ている人がいた。
盤の勝負では、三人が覗き込んでいる。
一人は、点を書き留めている。
平原の競技では、数十人が並ぶ。
遊ぶ人より、見る人のほうが多い。
遊びは、見られることで場になる。
言えないのは、遊びの絵が楽しさの絵だという話である。
九点のうち、笑っている顔は少ない。
骰子の絵では、三人が黙って一点を見る。
札の絵では、二人が下を向く。
盤の絵は、賭けの場だと館が書く。
遊びの絵の多くは、真剣な顔をしている。
働く人の絵については、働く人びとで扱った。
最後に、はじめの一枚へ戻る。
テニールスの部屋では、点が数えられていた。
数える人がいる遊びは、勝ち負けのある遊びである。
九点のうち、勝ち負けのある遊びは五点だった。
数え終えて残るのは、その割合である。
遊びの絵は、しばしば勝負の絵になる。
勝負であれば、顔は真剣になる。
笑っている絵が少ないのは、そのためだろう。
笑っていたのは、庭の鬼ごっこだけだった。
あれには、点を数える人がいない。
数えないから、笑っていられる。
九点を並べて見えるのは、その差である。
点を数える人がいるかどうかで、場が変わる。
数える人がいれば、遊びは勝負になる。
いなければ、遊びは遊びのままである。
九点のうち、数える人が描かれたのは一点だけだった。
残る八点は、勝ち負けを誰も記録していない。
それでも、顔は真剣なままである。
数えられていなくても、勝ち負けはある。
