膝は、高さを操作する関節である——ブレイク・ナドルマン・トゥーラほか九点
跪く偽の聖者、鍵を受ける人、斬られる聖人。膝の九点を数えると、跪く姿勢が四点あり、それが任命にも処刑にも接近にもなっていた。姿勢は同じで、まわりの物だけが意味を変える。最後の一点では、膝が広さの単位になる。

膝をついて、座る
きわめて小さな絵である。
絵の部分は12×7.1センチ。
そのまわりに、広い縁がある。
縁は生成りで、金の花が散る。
絵の地は、濃い橙である。
そこに、男が一人いる。
横を向いている。
両膝を折って、座る。
足は、体の下に折り込まれる。
腰は、かかとの上にある。
背は、まっすぐ伸びる。
衣は、青い。
長い袖が、膝の前まで垂れる。
腰に、布が巻かれる。
頭に、白い頭巾を巻く。
髭は、短く整う。
目は、細く開く。
瞳の色が、薄い。
膝の上に、手が置かれる。
絵の上と下に、字が書かれる。

館の説明は、この人物の正体を書いている。
跪いているのは、偽りの聖者である。
青い衣は、神秘主義の修行者のものである。
絵の上下の字によれば、この人物は謙虚で敬虔にふるまう。
しかしそれは、金のためである。
信心からではない。
偽の聖者は、この土地の絵に繰り返し現れる。
館はさらに、目についても書く。
瞳が、淡く、空虚である。
つまり、姿勢は正しく、目は空である。
膝を折るという姿勢は、真似られる。
真似られるからこそ、疑われる。
九点の最初に、これを置く理由である。
膝は、態度を示す関節である。
立っていれば、態度は読めない。
折り曲げてはじめて、意思が形になる。
しかし、意思と姿勢は別のものである。
この絵は、そこを衝いている。
正しい姿勢の中に、空の目がある。
膝をついて、鍵を受ける
写本の一葉である。
紙は23.1×15.7センチ。
上半分が絵、下半分が文字である。
絵のまわりに、青い枠がある。
枠には、金の唐草が這う。
絵の中は、部屋である。
床は、市松である。
奥に、窓が開く。
窓の外に、水と空が見える。
左に、男が座る。
台の上に、腰を下ろす。
聖マルコである。
その手から、鍵が差し出される。
右に、もう一人がいる。
こちらは、床に片膝をつく。
赤い長衣を着ている。
頭は、垂れている。
両手を、前へ出す。
鍵を、受け取ろうとしている。
下の文字は、十二行ある。

館の説明は、この一葉の用途を書く。
これは、任命の文書である。
ある人物が、聖マルコ聖堂の管理職に任じられた。
その辞令の、冒頭の頁である。
下の十二行は、総督の名で始まる。
我らアンドレア・グリッティ、神の恩寵によるヴェネツィアの総督。
つまり、これは法的な文書である。
その文書に、跪く姿が描かれている。
前の一点では、膝は疑われる姿勢だった。
ここでは、膝は手続きの一部である。
跪かなければ、受け取れない。
高さの差を作ることが、授受の形式になっている。
館は、紋章を支えるものにも触れる。
人魚の男である。
腰から上は人、腰から下は魚だという。
魚には、膝がない。
支える形も、跪く形も持てない。
紋章を支えるのに、腕だけを使う。
人の姿の半分しかない者が、支え役になっている。
膝をついて、斬られる
明暗の木版である。
図の部分は29.2×47.5センチ。
横に長い。
茶の二段階と黒で刷られる。
画面の中央に、男がいる。
裸で、膝をついている。
両手は、前で合わされる。
頭は、わずかに垂れる。
その後ろに、男が立つ。
剣を、高く振り上げている。
刃は、まだ落ちていない。
左のほうに、別の群れがある。
一人の老人が、髭をつかまれている。
引きずられている。
まわりに、兵が何人もいる。
槍が、斜めに立ち並ぶ。
奥に、柱と階段がある。
空には、雲が渦を巻く。

館の説明は、この版画の来歴を書いている。
この工房は、明暗木版の中心の一つだった。
作者は、一五二七年から三一年まで、師のもとで学んだ。
師の素描をもとに、いくつもの版を作った。
この一枚が、最初の共同の仕事だとされる。
もとの素描は、ローマで描かれた。
教皇からの注文を見込んでのものだったという。
場面は、二人の聖人の最期である。
一人は、手前で膝をついて斬られる。
もう一人は、髭を引かれて連れ去られ、逆さに架けられる。
ここでも、膝は高さを作っている。
跪けば、頭は剣の高さより下がる。
立ったままでは、斬りにくい。
任命と処刑が、同じ姿勢を使っている。
高さを下げるという一点だけが、共通している。
この版画は、三枚の版木で刷られている。
輪郭の版、中間の版、明るい版である。
重ねることで、立体が出る。
刷りの手数が、画面の奥行きを作っている。
版を重ねることについては、摺るは、同じものを何枚も作るで扱った。
膝をついて、身を乗り出す
墨摺りの版画である。
24.1×33.7センチ。
横長である。
画面の右に、女が座る。
三味線を抱えている。
撥を、右手に持つ。
胴は、膝の上にある。
棹は、左上へ伸びる。
衣は、大きな文様で埋まる。
髷は、高く結われる。
その左に、男がいる。
膝をついている。
腰を落とし、上体を前へ倒す。
顔は、女のほうを向く。
口は、開いていない。
手は、膝の上か、床にある。
体は、大きな弧を描く。
衣の裾が、後ろへ長く流れる。
左上に、小さな道具が置かれる。
煙草盆らしい。

館の札は「楽器」「男性たち」「女性たち」の三つである。
膝という札はない。
しかし英語の題には、膝をついた姿勢という語が入る。
日本語では、これを膝行とも、にじり寄るとも言う。
いずれにせよ、立っていない。
立って聴けば、見下ろすことになる。
膝をつけば、目の高さが近くなる。
前の二点では、膝は高さを下げる装置だった。
ここでも下げているが、目的が違う。
服従ではなく、接近である。
同じ姿勢が、場面によって別の意味になる。
見分けるのは、相手との距離である。
近ければ、接近。
遠ければ、服従。
この一枚では、二人の距離は一メートルもない。
膝と膝が、ほとんど触れそうである。
だから、接近のほうだとわかる。
片膝で、ねじれる
青銅の像である。
高さは79.4センチ。
幅は35.6センチ。
女が一人いる。
片膝を、床につく。
もう一方の脚は、前へ折る。
腰は、その上にある。
上体は、ねじれる。
胸は、左を向く。
顔は、上を向く。
目は、彫られていない。
髪は、短く、丸くまとまる。
両腕は、高く上げられる。
肘が、曲がる。
手は、頭の上あたりにある。
腰に、布が巻かれる。
布は、脚に沿って落ちる。
体の線は、なめらかである。
角が、すべて丸められている。
台座は、黒い石である。

館の説明は、この形の特徴を書く。
幾何学的に単純化された形と、やわらげた角。
それが、この作者の特色である。
構成は、螺旋を描く。
体が、曲げた膝の上で部分的にねじれる。
上げた腕が、脚の位置を反復している。
つまり、膝は螺旋の軸である。
前の四点では、膝は下げるための関節だった。
ここでは、回すための関節になっている。
床につけた膝が、回転の中心を固定する。
固定された点があるから、上体がねじれる。
館は、もとの構想にも触れる。
より大きな像が、石灰岩で考えられていた。
島の庭に置くためのものである。
庭に置く像は、下から見上げられる。
見上げれば、膝はいっそう目に入る。
床についた膝が、目の高さに近くなるからである。
この青銅は、台の上に置かれている。
置かれ方が、見え方を変えている。
真理の膝に、抱かれる
ペンと筆の素描である。
紙は37.9×32.5センチ。
淡い彩色がある。
画面の中央に、女が座る。
正面を向く。
衣は白く、全身を覆う。
その膝の上に、幼子がいる。
幼子は、両腕を横へ広げる。
十字の形になる。
女の手が、その体を支える。
左に、男が立つ。
右に、老いた女が立つ。
さらにその外に、二人いる。
いずれも、頭を垂れる。
上には、大きな翼が広がる。
翼の下に、顔が三つ並ぶ。
下のほうに、子と羊がいる。
輪郭は、細い線である。
影は、ほとんどない。

館の説明は、この画家の立場を書いている。
制度としての宗教は拒んだが、深く霊的であった。
聖書や、それに基づく文学を、独自に読んだ。
この画面では、聖母が中心にいる。
その膝の上に、幼子を抱く。
広げた腕が、のちの磔を先取りする。
左に養父、右に母の母が並ぶ。
下では、洗礼者が羊と遊ぶ。
題の副題に、真理の膝という語がある。
膝が、抽象名詞のものになっている。
真理に、体はない。
体のないものに、膝だけが与えられる。
前の五点では、膝は関節だった。
ここでは、膝は場所である。
載せる場所、抱く場所としての膝である。
この画家は、制度の外で自分の図像を作った。
だから、真理という抽象に膝を与えることもできた。
聖書にない組み合わせである。
子を抱くことについては、抱くと、輪郭が一つになるで扱った。
膝の上に、肩をあずける
祭壇の前を覆う織物である。
104.2×199.4センチ。
横に、たいへん長い。
羊毛と絹に、金銀の糸が入る。
画面の中央に、人が横たわる。
裸である。
体は、ほぼ水平に伸びる。
両腕が、左右へ広がる。
十字の形になっている。
頭のほうに、女が座る。
その膝の上に、横たわる人の肩がある。
女は、顔を近づける。
左のほうで、男が腕を抱える。
右のほうで、女が足を支える。
まわりに、人が十人以上いる。
一人は、三本の釘を持つ。
地は、青と緑である。
小さな花が、一面に散る。

館の説明は、この織物の置き場を書いている。
祭壇の正面全体に吊るす布である。
金糸と銀糸で飾られることが多い。
この一点は、感情の強さで高く評価されている。
そして、体の置かれ方を細かく記す。
体は、十字の形に置かれている。
肩は、聖母の膝の上にある。
左腕を、福音書記者が抱える。
足を、マグダラのマリアが支える。
つまり、体は三人に分けて支えられている。
そのうち、膝で支えているのは一人だけである。
腕と足は、手で支える。
肩だけが、膝に載る。
重い部分を、膝が受けている。
膝は、手より広く、平らで、疲れにくい。
そして、座っていれば動かない。
手は、他のことにも使える。
だから、体を載せる役は膝に回る。
織物の中で、この部分だけが密に織られている。
金糸が、膝のあたりに集まる。
膝が、人の名になる
油彩である。
73.7×60.9センチ。
女の、胸から上がある。
顔は、正面を向く。
髪は、中央で分ける。
分け目に、赤い顔料が引かれる。
その下に、赤い印がある。
頬にも、赤い丸が二つある。
耳に、青と白の飾りが下がる。
胸に、幾筋もの首飾りがある。
衣は、白い革である。
肩に、青い刺繍の帯がある。
胸に、丸い飾りが二つ下がる。
右の肩に、桃色の布が掛かる。
背景は、薄い青である。
雲らしいものが、刷かれる。

この一枚を膝の九点に入れたのは、題のためである。
人の名に、膝の語が入っている。
膝を洗う女、という意味だと館は記す。
画面に、膝は写っていない。
胸から上しか描かれていないからである。
名だけが、膝を持っている。
この画家の描いた肖像は、いずれもこの形式である。
音を写した名と、その意味の訳が並ぶ。
そして、身分が添えられる。
首長の妻、という具合である。
前の回でも、同じ画家の一枚を見た。
そのときは、肩の語が名に入っていた。
傷ついた熊の肩、という名だった。
同じ画家の、同じ形式の記録である。
だから、体の部分を探すたびに、この一群が出てくる。
同じ画家の、同じ年ごろの、同じ大きさの肖像が並ぶ。
在庫のかたよりは、こういう形でも現れる。
膝を容れるに、足りる
竹を彫った筆筒である。
高さ16センチ。
直径12.4センチ。
円筒である。
表面の全体に、彫りがある。
深い彫りと、浅い彫りがある。
木が、何本も立つ。
葉は、細かく刻まれる。
その奥に、建物がある。
屋根の線が見える。
建物の中に、人が座る。
小さいが、姿勢はわかる。
岩が、画面の上と下を囲む。
裏側には、崖がある。
崖の面に、字が刻まれる。
字は、崩した書体である。
竹の色は、飴色である。
使い込まれて、つやが出ている。

館の説明は、刻まれた文を訳している。
文は、唐の詩人によるものだという。
田舎で家族や使用人と暮らす、気楽な生活を述べる。
十畝の家、五畝の庭に池があり、千本の竹がある。
土地が狭いとも、場所が辺鄙だとも言うな。
膝を容れ、肩を休めるには足りている。
堂と庭があり、橋と舟がある。
書物と酒があり、歌と弦がある。
ここで膝は、広さの単位である。
膝が入るかどうかで、狭さを測る。
肩を休められるかどうかで、休息を測る。
前の回で見た肩は、深さの目盛りだった。
ここでは、膝が面積の目盛りになっている。
体の部分は、しばしば物差しに転用される。
そして、その転用は文の中にしか残らない。
竹の彫りについては、彫るは、深さで語られるで扱った。
数えてみると
九点を数え直す。
人の膝が画面に写っているのは、六点である。
偽の聖者、鍵を受ける人、斬られる聖人、身を乗り出す男、踊る像、聖母の膝。
哀悼の織物も入れれば、七点になる。
写っていないのは、首長の妻と、筆筒の二点である。
写っている七点を、姿勢で分ける。
膝をついているのが、四点。
膝を曲げてねじるのが、一点。
膝を座面として使うのが、二点。
膝をついた四点のうち、二点は儀式である。
任命と、処刑。
一点は、疑わしい信心。
一点は、聴くための接近。
同じ姿勢が、四通りに使われている。
見分けるのは、まわりの人と物である。
鍵があれば任命、剣があれば処刑。
三味線があれば、接近になる。
膝そのものは、どの場合も同じ形をしている。
同じ形が、四通りに読まれる。
読み分けているのは、膝ではない。
膝のまわりに置かれたものである。
言えることと、言えないこと
言えるのは、膝が高さを操作する関節だということである。
立てば、目の高さが決まる。
膝をつけば、それが三十センチほど下がる。
下がった分だけ、相手が上になる。
その差が、服従にも、接近にも、処刑にもなる。
膝は、上下の関係を作る道具である。
そして、その差は自分で作る。
押さえつけられて下がるのではない。
自分から折る。
折ったことが見えるから、態度になる。
そしてもう一つ、膝は座面にもなる。
座れば、腿の上が平らな面になる。
そこに、子や、死者の肩が載る。
関節としての膝と、面としての膝。
同じ語が、二つのものを指している。
言えないことも、いくつかある。
まず、膝が写っている七点のうち、六点が宗教に関わる。
跪くという姿勢が、まず宗教の記録に残るからである。
日常の膝は、記録されにくい。
座る、しゃがむ、立ち上がる。
どれも題にならない。
題にならなければ、機械では拾えない。
つまり、この九点は儀式に偏っている。
次に、名の中の膝は、訳を経ている。
膝を洗う女という訳が正しいかは、確かめられない。
最後に、筆筒の文は、竹に彫られたものである。
彫った人が、その意味を測っていたとは限らない。
写した文が、たまたま膝を含んでいた。
それでも、膝を容れるに足るという言い方は残る。
住まいの広さを、膝で測る。
この測り方だけは、いまも通じる。
狭い部屋を、膝が入ると言う。
広い部屋を、膝が余ると言うことはない。
物差しは、下のほうにしか目盛りがない。
体は、いちばん近くにある物差しである。
そして、誰もが同じものを持っている。
だから、説明が要らない。
膝が入る広さと言えば、それで伝わる。
寸法の数字より、速い。
ただし、正確ではない。
正確でなくてよい場面のために、体の物差しは残っている。
膝が入る、肩が休まる、手に余る。
どれも、いまも使われる言い方である。
数字に置き換えれば、通じなくなる。
