ラファエロの代表作と特徴——聖母子の絵はなぜ三角形に見えるのか
ラファエロの代表作と特徴を、ナショナル・ギャラリー(ワシントン)にある四点の記録と画像から読む。《アルバの聖母》の円い画面、聖母子が三角形に見える理由、物語画と肖像画の違いまでを順に見る。四点の所蔵先と収蔵番号も記した。

ラファエロの代表作
日本で名の挙がる《アテナイの学堂》や《システィーナの聖母》は、当サイトの在庫にない。
この記事で図版に使う油彩は、ナショナル・ギャラリー(ワシントン)にある五点である。ラファエロ・サンティは1483年に生まれ、1520年に37歳で没した。
五点は1505年ごろから1515年ごろまでの十年にまたがる。フィレンツェ時代の聖母子から、ローマ時代の肖像までを順に追える。

《アルバの聖母》は円形の画面である。館の記録では直径が94.5センチある。
聖母は草の斜面に直に坐る。青いマントが膝から足元へ大きく広がる。
上は桃色の衣で、頭には緑の布を巻く。顔は左へ向き、視線は十字の杖のほうへ落ちる。
左手は金の縁の小さな本を膝の上で持ち、指を頁の間に挟む。その左の肘を、背後の切り株にもたせる。
右腕は幼児の背の後ろを回り、左の童子のほうへ伸びる。
幼児は母の膝に腰を掛け、片脚を地面へ下ろす。左では毛皮をまとった童子が跪く。
童子は細い十字の杖の下を持ち、幼児がその上のほうを握る。
童子は杖と幼児を見上げ、幼児は童子を見下ろす。聖母も同じ方へ目を向け、三人の目線が画面の左寄りに集まる。
マントは厚く、膝の上でいくつもの大きな襞をつくる。聖母の右足には、紐を編んだ履物が見える。
地面には白い小花と草が点々と生える。左奥には水面と建物、青くかすむ山が見える。右奥の丘にも家並みがある。
画面の下の三分の一ほどは、草と土が占める。空は淡く、白い雲が浮かぶ。
この一点だけを詳しく読むなら、《アルバの聖母》の解説にまとめてある。
聖母子の絵はなぜ三角形に見えるのか
頭が上の一点に集まり、下では衣が左右へ広がるからである。

《小カウパーの聖母》では、聖母が腰から上の姿で坐る。
幼児は母の膝の上に立ち、母の首に腕を回す。母は片手で幼児の腰を支え、もう一方の手を幼児の足に添える。
聖母の衣は赤く、膝には青いマントが厚く重なる。マントの裏の緑が、両脇にのぞく。
頭の上には金の細い線の光背が浮く。幼児の頭の上にも同じ線がある。
光背は輪だけで、円盤にはなっていない。背景の空も髪も、その輪を透かして見える。
幼児の顔はこちらへ向く。母は目をわずかに伏せ、視線を下へ落とす。
背後には低い石の壁がある。その向こうの左に水辺と木立、右の丘に丸屋根の聖堂が見える。
母の頭と幼児の頭は近く並ぶ。下では衣が左右へ広がり、裾が画面の端まで届く。
上が狭く下が広い形になる。そのために画面はおのずと三角形に見える。

三年後の《ニッコリーニ・カウパーの聖母》では、同じ三角形が大きくなる。館の記録では縦が80.7センチあり、《小カウパーの聖母》よりひと回り大きい。
背景の風景はほとんど消え、青緑の空が画面を埋める。右の端にだけ、暗い地面の帯がのぞく。
幼児は白い布の枕に坐り、こちらを見て笑う。右腕を伸ばし、母の胸元の金の飾りに指を掛ける。
母は顔を傾けて目を伏せ、幼児を見下ろす。母の片手は画面の左端で幼児の背を支え、指先だけが見える。
衣は薄紅で、袖は肘でふくらむ。膝には青いマントと、緑の袖が重なる。
館の記録では、聖母の胴着の縁に、1508年にウルビーノのラファエロが描いたという意味の銘がある。
館の記録を見るかぎり、年まで入った署名は、この記事の五点の中でこれだけである。
《アルバの聖母》では、同じ形が円の中に収められている。
聖母の頭が円の上寄りにあり、二人の童子と広がるマントが下を埋める。
円形の画面には角がない。三角形の配置が、その丸みの中で安定して見える。
二人の童子は母の膝を挟んで左右に置かれ、左右の重さがほぼ釣り合う。
同じころのフィレンツェで聖母子を描いた画家との違いは、ボッティチェッリの代表作の記事と見比べると分かりやすい。
物語画と肖像画では何が変わるのか
人物の動きが消え、背景が近づき、視線だけが残る。

《聖ゲオルギウスと竜》は小さな板絵である。館の記録では縦が28.5センチしかない。
白馬が前脚を高く上げ、背の男が上体を捻る。長い槍を左下の竜へ突き下ろす。
槍の穂は竜の胸の辺りに深く刺さる。竜は緑の体を地に伏せ、首をもたげて口を開き、黒い翼を広げる。
男は青緑のマントを背後へ大きく翻す。兜の下から赤みのある髪がのぞく。
右の木立の手前では、桃色の衣の女が両手を合わせて跪く。顔を上げ、戦いのほうを見つめる。
女は戦いの外に置かれ、画面の端で小さく描かれている。
左には黄土色の岩があり、その向こうに平野と塔の立つ町が見える。
空は上が青く、下ほど白い。前景の地面は褐色で、小さな草の株と石が散る。
馬の白い尾は右へ長く垂れ、画面の端近くまで届く。
手のひらほどの画面の中で、馬と男と竜が一本の斜めの線をつくる。
館の記録では、馬の胸の革帯に、画家の名とウルビーノを表す銘が書かれている。
男の膝の下に巻いた青い帯にも文字がある。館の記録では、イングランドのガーター勲章の標語の書き出しである。
来歴もイングランドから始まる。館の記録では、1627年までにペンブルック伯が持ち、のちに国王チャールズ1世の手に渡った。
1772年には、ロシアの女帝エカチェリーナ2世が、哲学者ディドロを仲立ちにして、パリの収集家クロザの遺族から買い入れた。

《ビンド・アルトヴィーティの肖像》では、背景が緑一色に塗られる。
若い男が背をこちらへ向け、肩越しに振り返る。黒い帽子をかぶり、金色の髪が肩に掛かる。
青い上着の上に黒いマントを掛け、片手を胸元に当てる。指には小さな金の指輪が光る。
顔と首には強い光が当たる。背景の緑は、右へ行くほど影が濃くなる。
体は奥へ向いたまま、顔だけをこちらへ戻している。首の捻りが画面に動きを残す。
館の記録では、この肖像を注文したのはモデル本人である。その後はアルトヴィーティ家に伝わった。
1808年、のちのバイエルン王ルートヴィヒ1世が買い入れ、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに入った。1938年に館を離れ、1940年にクレス財団が買い、1943年にワシントンへ寄贈された。
ビンド・アルトヴィーティは、フィレンツェ系の銀行家である。同じ人物をチェッリーニが青銅の胸像にしている。
その胸像はボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にあり、館の記録では1549年の作である。
物語画では体が動き、肖像画では視線だけが動く。同じ画家の中でこの差は大きい。
油彩の五点を制作順に並べると、画面の奥行きの扱いが変わっていくのも分かる。
早い時期の聖母子と物語画には遠くの町や山がある。1508年の聖母子では風景が空に退き、遅い時期の肖像には背景がない。
ラファエロはどんな画家か
1483年にイタリア中部のウルビーノで生まれた。父ジョヴァンニ・サンティは、ウルビーノの宮廷の画家だった。
1500年代の初めには、フィレンツェを中心にイタリア中部の各地で仕事をした。肖像と聖母子の絵で名を知られたのはこの時期である。
1508年、教皇ユリウス2世に呼ばれてローマへ移った。以後は教皇の住まいの部屋を壁画で飾る仕事を担った。
1514年には、ブラマンテの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂の建築の責任者になった。画家であると同時に、建築家でもあった。
1520年4月6日、37歳でローマに没した。本人の望みで、パンテオンに葬られている。
フィレンツェ時代には、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵から多くを吸収した。そのことを示す素描が、クリーヴランド美術館にある。

館の記録では、この紙は「桃色の写生帖」と呼ばれる十枚の一枚である。六枚がフランスのリール美術館、二枚が大英博物館、一枚が個人蔵、一枚がこの館にある。どの紙にも母と子の組み合わせが描かれる。
金属の尖筆で下地の上に線を引く技法は、当時のイタリアで好まれた。下の三つの幼児は、輪郭を何度も重ねて身をよじる動きを追っている。
館の記録はさらに、子どもの頭の向きがレオナルドの《ブノワの聖母》に基づくと書く。見上げる目と開いた口は、ラファエロが変えた点だという。
紙が小さいので、1508年にフィレンツェからローマへ向かう旅にも持ち歩けたと館は書く。
ラファエロ・サンティの作品ページでは、この記事の五点と素描をまとめて見られる。
《アルバの聖母》の「アルバ」は何の名か
かつての持ち主の名である。「カウパー」も「ニッコリーニ」も同じで、描かれた人や土地の名ではない。
館の記録の来歴では、《アルバの聖母》は1686年にナポリ副王を務めたスペインの貴族が買った。その娘を通じて、スペインのアルバ公爵家に伝わった。
それより前の持ち主について、館の記録はノチェーラの司教パオロ・ジョーヴィオだった可能性を挙げる。確かな記録ではなく、可能性として書かれている。
その後はロンドンの収集家を経て、1836年にロシア皇帝ニコライ1世のものになり、エルミタージュに入った。
「カウパー」は、イングランドの第3代カウパー伯の名である。館の記録は、伯の居所をフィレンツェとしている。
館の記録では、《ニッコリーニ・カウパーの聖母》は1677年までにフィレンツェのニッコリーニ家にあった。1772年より後に画家ゾファニーの手に移り、1775年ごろに伯が買った。
《小カウパーの聖母》は、1780年ごろにフィレンツェで伯が買った。二点はその後、イングランドの伯爵家の屋敷パンシャンガーに伝わった。
ワシントンに着いた道筋もそれぞれ違う。《アルバの聖母》と《聖ゲオルギウスと竜》は、1931年にエルミタージュから画商を通じてアンドリュー・メロンが買い入れた。
《ニッコリーニ・カウパーの聖母》は1928年にメロンが買った。《小カウパーの聖母》は1914年にペンシルヴェニア州のワイドナー家に入り、1942年に寄贈された。
五点はいずれも、メロン、ワイドナー、クレスという二十世紀の収集家の手を経て館に入った。ヨーロッパの宮廷や貴族の手を数百年かけて渡った絵が、最後にここへ集まった。
ラファエロの絵はどこで見られるか
この記事で挙げた油彩の五点は、すべてナショナル・ギャラリー(ワシントン)にある。
館の記録では、《アルバの聖母》は板に描かれた油彩をカンヴァスへ移した作品である。ほかの四点は板のままである。
館は作品の画像をCC0で公開している。当サイトはその表示を作品ごとに確認して掲載している。
同じ館の作品では、レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネヴラ・デ・ベンチ》の解説も書いている。
ほかの代表作は、イタリアとドイツに分かれている。
《アテナイの学堂》は、ヴァチカン宮殿の「署名の間」の壁画である。ヴァチカン美術館によれば、この部屋の壁画は1508年から11年に描かれた。
中央でプラトンが指を上へ向け、隣のアリストテレスが自著を手にする。右端で黒い帽子をかぶった人物を、ヴァチカン美術館は画家の自画像としている。
壁に描かれた絵なので動かせず、日本で実物を見ることはできない。
《システィーナの聖母》は、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館にある。館の資料では1512年から13年の作で、カンヴァスに油彩である。
館の資料では、注文主はおそらく教皇ユリウス2世で、ピアチェンツァのサン・シスト修道院の聖堂に置くための絵だった。
雲の上を聖母が幼児を抱いて歩み出る。左で跪くのは教皇聖シクストゥス2世、右は聖バルバラで、どちらもこの聖堂で敬われた聖人である。
下の縁に肘をつく二人の小さな天使は、館の資料によれば画家が最後に描き足したものである。
絵は二百五十年ほどピアチェンツァにあった。ザクセン選帝侯アウグスト3世が買い入れ、1754年3月1日にドレスデンへ着いた。
円い画面の《小椅子の聖母》は、フィレンツェのピッティ宮殿のパラティーナ美術館が持つ。
最後の大作《キリストの変容》は、ヴァチカン絵画館にある。館の記録では1516年から20年の作である。
枢機卿ジュリオ・デ・メディチが、南フランスのナルボンヌの大聖堂のために注文した。画家の死後、枢機卿は絵を手元に残し、ナルボンヌへは送られなかった。
伝記作家ヴァザーリは、画家が仕事をした部屋で、亡骸の枕元にこの絵が置かれたと書いている。
当サイトが図版として扱えるのは、館が画像を公開し、権利の記録を残せた作品だけである。
名の知られた作品がここに出てこないのは、その線を守っているからである。



