ボッティチェッリの代表作と特徴——《ヴィーナスの誕生》はどこにあるのか
ボッティチェッリの代表作と特徴を、館の記録とCC0の画像で確かめる。《ヴィーナスの誕生》と《春》はフィレンツェのウフィツィ美術館にあり、当サイトでは扱えない。かわりに見られる8点から、線で立てる絵の作りを読む。

ボッティチェッリの代表作
サンドロ・ボッティチェッリの代表作として真っ先に挙がるのは、《ヴィーナスの誕生》と《春》である。
どちらもフィレンツェのウフィツィ美術館にある。当サイトの在庫には無く、図版として出すことはできない。
当サイトで画像を見られるのは、アメリカの三つの館にある8点である。ワシントンに5点、シカゴに2点、クリーヴランドに1点ある。
内訳は、肖像が2点、聖母と幼子の絵が5点、物語の場面が1点。そのうち3点は円い板に描かれている。
生年は館によって記録が分かれる。シカゴとクリーヴランドは1444年か45年、ワシントンは1446年とする。没年は1510年で、生涯の大半をフィレンツェで働いた。

なかでも知られているのが、《ジュリアーノ・デ・メディチ》である。フィレンツェを動かした一族の一人を、真横から捉えた肖像である。
ジュリアーノは兄ロレンツォとともにメディチ家を率いた。1478年の復活祭の日、フィレンツェの大聖堂のミサの最中に刺されて死んだ。
襲ったのは、銀行業でメディチ家と争ったパッツィ家とその一派である。兄ロレンツォは聖具室へ逃れて助かり、企ては失敗に終わった。
ワシントンの館の解説によれば、事件のあと、追悼と警告をかねた肖像が何点も注文された。この板は、その原型だった可能性があるという。
館は、開いた窓と喪の鳩を、死を表すおなじみのしるしとして読む。魂が飛び去り、死者が向こう側へ渡ることを指すという読みである。
伏せた瞼に注目し、死後に死の面型をもとに描いたとみる研究者もいる。ただしこれは館が紹介する一説であり、確定した事実ではない。
同じ構図の肖像は、ベルリンの絵画館とベルガモのアカデミア・カッラーラにもある。一人の死者の顔が、何度も描き直されたことになる。
館の来歴の記録では、板の裏に女王蜂と群がる蜂の紋がある。この紋は、16世紀末のトスカーナ大公フェルディナンド一世のメダルの裏にも見える。
つまりこの板は、のちのメディチ家の大公の手元にあったとみられている。一族が死者の肖像を代々持ち伝えた痕跡である。
《ヴィーナスの誕生》はどこにあるのか
フィレンツェのウフィツィ美術館である。《春》も同じ館にある。
二つの大作の大きさと素材
館の記録では、《ヴィーナスの誕生》は1485年ごろの作。カンヴァスにテンペラで、172.5×278.5センチある。
《春》は1480年ごろの作で、ポプラの板にテンペラ。207×319センチと、さらに大きい。
当サイトの8点は、いちばん大きい《東方三博士の礼拝》でも横102センチである。二つの大作の横幅は、その倍を優に超える。
当サイトの8点がすべて板であるのに対し、《ヴィーナスの誕生》は布に描かれている。同じテンペラでも、支持体は一つではない。
誰のために描かれたのか
ウフィツィの解説によれば、《ヴィーナスの誕生》の注文主を記した文書は無い。メディチ家の誰かが注文した可能性が高い、というのが館の見方である。
館は、画面右の岸に茂るオレンジの木をメディチ家のしるしとみる。当時、この木を指す語が一族の名に似ていたためだという。
確かな記録が現れるのは1550年である。画家伝を書いたヴァザーリが、メディチ家の分家のカステッロの別荘でこの絵を見たと記した。
《春》は15世紀の終わりに、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの相続人の屋敷にあった。この人物は、豪華王ロレンツォのいとこにあたる。
屋敷では、背もたれ付きの長櫃の上に掛けられていた。のちにカステッロの別荘へ移り、ヴァザーリは二つの絵を並べて書き残している。
《春》には神話の九人が並ぶ。館の解説では、中央にヴィーナスが立ち、目隠しをしたクピドが矢を射る。左では三美神が輪になって踊る。
兜と翼のある靴と杖で分かるメルクリウスもいる。西風ゼフュロスはニンフのクロリスを抱え、クロリスは花の女神フローラとしても描かれる。一つの画面に、変身の前と後が並んでいる。
館は、《春》に少なくとも42種の植物が描き分けられていると数えている。花の咲く草が28種、葉だけの草が14種である。
フィレンツェの外で見られる作品
1481年から翌年にかけて、ボッティチェッリはローマにいた。システィーナ礼拝堂の壁に、ほかの画家と並んで壁画を描いた。
担当したのは《キリストの誘惑》などの場面である。モーセの生涯とキリストの生涯を向かい合わせる連作の一部で、ヴァチカンにある。
ロンドンのナショナル・ギャラリーには《神秘の降誕》がある。画面の上端に、1500年の終わりに描いたと記すギリシア語の銘が入る。館の記録では、カンヴァスに油彩である。
館の解説では、銘は「イタリアの混乱」に触れている。フランス軍がナポリとミラノを攻め取り、フィレンツェでも内紛が続いた時期である。
画家はその混乱を、新約聖書の黙示録に重ねた。キリストが再び来て悪魔が埋められれば混乱は終わる、という読みが画面に描かれている。
当サイトに図版がない理由
代表作は、描かれた街のフィレンツェに残っている。当サイトはどの美術館の公式サイトでもない。
掲げられるのは、各館がCC0として公開した画像だけである。ウフィツィの作品はその中に入らない。
だから代表作の図版は出さず、公開されている8点のほうを読む。
ボッティチェッリの特徴はどこにあるのか
線である。顔でも衣でも、輪郭が一本の線として最後まで通っている。
《ジュリアーノ・デ・メディチ》では、額から鼻筋、顎までが途切れない線でつながる。目は伏せられ、瞼が重く落ちる。
赤い衣は広い襞をつくるが、襞の陰影は弱い。色の面と、それを囲む線とで形ができている。
背後には木の扉が半ば開き、隙間に淡い青の空がのぞく。左下の窓台には褐色の小鳥がとまり、その下に枯れ枝が置かれる。

《若者の肖像》は、背景が黒一色である。人物は四分の三正面を向き、胸の中央へ右手を当てる。
指は五本とも広げられ、爪と関節まで描き分けられている。輪郭がはっきりしているぶん、手の形が先に目に入る。
テンペラは卵を混ぜた絵具で、乾くのが速い。塗り重ねてぼかすより、線と面で決める描き方と相性がよい。
館の記録を見ると、8点すべての技法欄にテンペラの語がある。描かれた支持体は、いずれも木の板である。
油彩が併記されるのは2点だけで、どちらもテンペラと並べて書かれている。線を要求する絵具が、最後まで中心にある。
シカゴの館の解説は、ボッティチェッリの師をフラ・フィリッポ・リッピとする。クリーヴランドの館は、ともに描いた弟子の一人にフィリッピーノ・リッピを挙げる。
同じころのフィレンツェには、若いレオナルドもいた。レオナルド《ジネヴラ・デ・ベンチ》の解説では、同じワシントンの館の肖像を読んだ。
線で形を閉じるボッティチェッリと、輪郭を煙のようにぼかすレオナルド。二人の肖像を見比べると、同じ街の同じ時代でも描き方が分かれていたことが分かる。
円い板にどう収めているのか
円の縁に沿って、人物の背や腕を曲げている。

《幼子を礼拝する聖母》は、館の記録では直径58.9センチの円形である。
聖母は左を向いてひざをつき、両手を胸の前で交差させて頭を垂れる。その背は、画面の丸みに沿って曲がる。
左下には裸の幼子が青い布の上に横たわり、右腕を母へ伸ばす。奥の飼葉桶の向こうから牛と驢馬が顔を出す。
右の開口からは木立と川、遠くの青い山が見える。円の中に、人物と建物と風景が三層に収められている。
当サイトにある円い板は、ほかにシカゴとクリーヴランドに1点ずつある。直径はそれぞれ34.4センチと68センチで、三点とも主題は聖母と幼子である。
なぜ円い絵が多いのか
家の中に掛けるための形だったからである。クリーヴランドの館の解説では、円い画面は1440年代にフィレンツェを中心に広まった。
教会ではなく家の部屋のために作られた、と館は説明する。シカゴの館も、フィレンツェの注文主は寝室用に円い絵を頼むのが常だったと書く。
円い画面は、四角い画面のように上下や左右の端で切ることができない。だから人物は円の内側へ抱え込まれ、背や腕が弧を描く。
縁に近いところには、屋根や石積みなど曲げやすいものが置かれる。円い板を見るときは、まず縁との関係を見ると分かりやすい。
同じワシントンの館には、ラファエッロの円い聖母子もある。ラファエッロ《アルバの聖母》の解説と並べると、一世代あとの円の使い方が分かる。
本当にボッティチェッリの手なのか
8点のうち何点かは、作者の名が長く揺れてきた。工房で弟子と描いた絵が多い画家なので、館の記録で作者名の書き方を確かめるとよい。

《聖母子と幼い洗礼者聖ヨハネ》は、クリーヴランドの円い板である。聖母が幼子を抱き、幼子は母の胸に手を当てて頬を寄せる。
左には赤い衣の幼いヨハネが、細い十字の杖を肩に掛けて手を合わせる。聖母の頭には、髪が透けて見える薄い布が掛かる。
館の解説は、この板の作者について議論があったと明記している。顔の細やかな肉づけや透ける薄布は、画家自身の手とみてよいという。
一方で、聖母の青い衣は工房の別の手によるとみられている。そこは修復の手がもっとも多く入った部分でもある、と館は書く。
ワシントンの2点にも、名前の揺れた来歴がある。館の記録では、《若者の肖像》は1865年のパリの競売にマザッチョの作として出された。
マザッチョは、ボッティチェッリより半世紀ほど前の画家である。《幼子を礼拝する聖母》も、1878年と1929年のパリの競売ではフィリッポ・リッピの作とされていた。
いまの作者名は、こうした来歴と画面の調べを重ねて決まったものである。作者名の書き方の違いは、「伝」「派」「工房」の違いで整理した。
物語の場面はどう組み立てられるか
人の群れを左右に分け、中央に主役を置く形である。

《東方三博士の礼拝》は、当サイトにある唯一の物語画である。横長の画面の中央に、崩れた石の門と木組みの屋根が立つ。
その下に青いマントの聖母が坐り、膝に幼子を抱く。左には白髪の男が手を合わせて立つ。
手前の左右には大勢の人がひざまずき、桃と青と緑と臙脂の衣が二つの群れをつくる。奥には馬を連れた一団が控える。
中景は緑の丘と木立、遠景は青い山と塔の立つ建物。空は上へ行くほど濃くなる。
全体は明るい灰と緑でまとまり、強い色を持つのは人物の衣だけである。群れの色が、視線を中央へ戻す作りになっている。
前景には、崩れた柱の破片や石壁の裂け目が転がる。建物は新しくなく、壊れかけたものとして描かれている。
館の解説は、この場を粗末な馬小屋ではなく、古代の神殿の廃墟と読む。異教の廃墟からキリスト教が起こった、という考えを示す舞台だという。
館はまた、この板は壁画の仕事で滞在したローマで描かれたらしいとみる。フィレンツェでは三博士を敬う信心会があり、五年ごとに行列で旅を再現していた。
来歴も変わっている。館の記録では、1808年にロシア皇帝アレクサンドル一世が買い、エルミタージュに入った。1931年にそこから売りに出され、アメリカの実業家アンドリュー・メロンが買い取った。

初期の《聖母子》では、柱廊の間から黄褐色の野と黒い糸杉が見える。聖母の頭の後ろには、細い金の線を束ねた光背が広がる。
同じころの北方の絵と比べると、作りの違いがはっきりする。ヤン・ファン・エイク《受胎告知》の解説では、影と奥行きで室内を作る絵を見た。
日本でボッティチェッリは見られるか
東京の丸紅ギャラリーが、《美しきシモネッタ》を持っている。同社は、日本にある唯一のボッティチェッリのテンペラ画と説明している。
同社の記録では、1969年にイギリスから輸入した。この肖像は1808年にボローニャで再び見つかったものだという。
モデルの生前に描かれた可能性があるとされる。同じ女性を描いたとされる肖像は、ほかにフランクフルトやベルリンなど世界に5点ほどある。
公開は企画展のときに限られる。見に行く前に、同ギャラリーの案内で日程を確かめたい。
アメリカで8点をまとめて見るなら、ワシントンのナショナル・ギャラリーがよい。肖像2点、円い板、物語画、初期の聖母子が一つの館にそろう。
初めて見るなら、まず《ジュリアーノ・デ・メディチ》の横顔の線を追ってほしい。そのあと円い板の前で、縁に沿って曲がる背を確かめると、この画家の作り方が見えてくる。



