名前が、書かれるようになる——1872年から1888年、館に最初にものを渡した六人
ある年を境に、出所の行に個人の名が入りはじめる。富裕な一族の当主、画家の妻、牧師、商人、初代の代表、そして後に数千点を遺す家の名。十六年ぶんの九点で、寄贈という約束が成立する瞬間を読みたい。三枚を一つの額に収めた作品も含まれる。

名前が、書かれるようになる
前の回まで、名前のない出所の行を読んできた。
購入、一八七一年。
公募による購入、一八七九年。
数名の紳士による寄贈。
どれも、金を出した人が特定できない。
ところが、一八七〇年代の後半から、行の書き方が変わる。
誰それによる寄贈、一八七二年。
個人の名が入るようになる。
今回は、その最初の世代を九点で追いたい。
一八七二年から一八八八年まで、十六年ぶんである。
館ができて間もない時期の寄贈者たちである。

等身大の立像である。
白い大理石で、裸の女性が正面を向いて立つ。
右手を体の前に下げ、細い枝のようなものを握っている。
左手は背中の後ろに回されて、見えない。
顔は無表情で、正面よりやや下を見ている。
髪は結い上げ、額を出している。
体重は右脚に乗り、左脚が少し前に出る。
台座は無地の直方体である。
高さは百八十センチ。
床に置けば、見る人と同じ背丈になる。
題は地名である。
金鉱の発見で人が集まった土地の名を、女性の像に付けている。
右手の枝と、見えない左手には、それぞれ意味が与えられている。
作者は、そういう寓意を得意とした彫刻家である。
大理石が、二点ある
九点のうち二点が大理石の彫刻である。
一点は立像、一点は座像。
どちらも実物大に近い。
十九世紀の半ばから後半にかけて、アメリカの富裕層は大理石の彫刻を好んで買った。
制作の場はイタリアである。
作者は二人とも、生涯の長い時期をイタリアで過ごしている。
一人はフィレンツェで没し、もう一人はイタリア中部の地で没している。
粘土で原型を作り、石工の工房で大理石に写す。
同じ原型から、複数の像が彫られることも多かった。
記録の年の欄が二段になっているのは、そのためである。
構想の年と、この一点が彫られた年。
立像は一八五〇年から五五年に構想され、一八五八年に彫られた。
座像は一八五八年の構想で、一八六九年に彫られている。
十一年の開きがある。
つまり、注文が入るたびに彫られた。
同じ姿の像が、他の館にもある可能性が高い。
一点ものではない彫刻を、一点として受け入れる。
館の記録は、そこを年の二段書きで処理している。
一八七二年の寄贈
出所の行の年は一八七二年。
館の現在の建物が開く八年前である。
寄贈者は、ニューヨークの富裕な一族の当主として知られる人物である。
館の記録は、それ以上のことを書かない。
肩書きも、寄贈の理由も、行には入らない。
名前と年だけである。
それでも、この行には前の回までにない情報が入っている。
誰に礼を言えばよいかが、書いてある。
寄贈者の名を書くという習慣は、記録の作法であると同時に、約束でもある。
名を残す代わりに、ものを渡す。
その取り決めが成立した最初の時期が、この十数年である。

薄暗い室内である。
中央に、彫りの入った重い机がある。
その手前に男が腰かけ、机の上のものを覗き込んでいる。
赤い縁なし帽をかぶり、白い顎ひげを長く垂らしている。
上着は黒く、下は鮮やかな赤い脚衣である。
右手で小さなものをつまみ、目の高さに持ち上げている。
机の上には、書物と箱と、青い小瓶が並ぶ。
左の壁には、甲冑の部品と武具が掛かっている。
右奥には、台の上に胸像が置かれている。
床には金属の器が転がっている。
古いものを集めた部屋である。
そして、集めた人が、そのなかで一つを手に取っている。
描いた人の名と、贈った人の名
この一点の出所の行を、よく見たい。
エドウィン・ホワイト夫人による寄贈、一八七七年。
そして、作者の名はエドウィン・ホワイトである。
姓が同じである。
館の記録は、画家の没年を一八七七年としている。
寄贈の年と、同じ年である。
つまり、画家が亡くなった年に、その妻が絵を館へ渡した。
出所の行には、そこまでは書かれていない。
書かれているのは、名前と年だけである。
しかし、二つの年を並べれば、事情の形は見える。
そして、贈られた絵の主題が、古いものを集める人である。
集める人を描いた絵が、集める場所へ入っていく。
偶然だが、よくできた偶然である。
牧師が集めた水彩
三人目の寄贈者は、名前に肩書きが付いている。

横長の小さな画面である。
手前に草地が広がり、中ほどを細い水が横切る。
左右に、葉の落ちた木が一本ずつ立っている。
その二本のあいだが空いている。
奥は霧に沈み、山の稜線がかすかに見える。
空には薄い雲が層をなす。
右手の雲の切れ間に、月がぼんやりと光っている。
全体が青灰色で、色の差が小さい。
紙の地が灰緑色なので、暗さが最初から用意されている。
明るいところだけを白い絵具で置いていく描き方である。

同じ画家の、同じ大きさの水彩である。
高いところから見下ろした眺めである。
手前は岩と低木の斜面。
その下に、湖が幾筋にも分かれて広がる。
水面は白く光り、島影が点々と浮かぶ。
奥に山並みが重なり、右へ遠ざかる。
空は夕方で、雲が横に長く伸びている。
雲の下側だけが橙色に染まる。
前の一点が夜で、こちらが夕方である。
同じ寄贈のなかに、時刻の違う二枚が入っている。
番号は八〇・一の二と、八〇・一の六。
枝番が同じ束の中にある。
一八八〇年の最初の受け入れに、この画家の水彩がまとめて入ったことになる。
水彩を集めるということ
一八八〇年の寄贈者は、水彩を集めていた。
当時のアメリカで、水彩は油絵より一段低く見られていた。
小さく、色が薄く、光に弱い。
売り値も安い。
しかし、集める側から見れば、それは長所になる。
同じ予算で、点数を多く持てる。
保管も楽である。
画家の側にも事情がある。
野外で描くには、水彩のほうが扱いやすい。
現地で色を決め、そのまま仕上げることができる。
この二点も、実際の地名が題に入っている。
山と湖。
どちらも当時の避暑地として知られた場所である。
行った先で描き、持ち帰った絵である。
紙に描かれた作品は、光に当て続けると褪せる。
だから常設の展示には出しにくい。
寄贈された当時から、そういう扱いの難しさは分かっていたはずである。
それでも館は受け入れた。
同時代のアメリカ絵画を残す、という判断があったのだろう。
肩書きが、行に入る
出所の行の寄贈者名には、聖職の敬称が付いている。
神学の学位を示す略号も添えられている。
名前だけでなく、身分が書かれている。
これは、当時の記録の書き方としては自然である。
人を呼ぶときに肩書きを外さない時代だった。
同時に、寄贈者がどういう人かを示す情報でもある。
牧師が、同時代のアメリカ人画家の水彩を集めていた。
そして、それを美術館へ渡した。
大富豪の寄贈だけが館を作ったのではない。
このことは、出所の行を並べていくとよく分かる。

座った女性の像である。
背もたれのある椅子に、深く腰を沈めている。
右肘を膝に載せ、その手で頭を支えている。
顔は下を向き、目は閉じているように見える。
左手は膝の上に力なく置かれる。
衣は薄く、体の線が透ける。
裾は台座の上に流れ落ちている。
頭には、額を横切る飾りが巻かれている。
台座の正面に、題が彫り込まれている。
姿勢が全体に沈んでいる。
考えているというより、決めたあとの姿である。
番号に、aからdまで四つの枝が付いている。
像と台座と、部品が分かれているからだろう。
初代の館長が贈る
この寄贈者の名も、記録は肩書きを書かない。
館の歴史では、初代の代表を務めた人物として知られる。
つまり、館を運営する側の人が、自分の持ち物を渡している。
一八八八年のことである。
館ができて十八年目にあたる。
運営する側が自分でものを入れるのは、初期の館ではよくあることである。
集めるべきものの基準を、自分の持ち物で示す意味がある。
三つの番号、一つの額
次の三点は、一続きのものである。

建物の戸口である。
壁に紙が貼られ、募兵の事務所であることが示されている。
その戸口に、一人の黒人男性が立っている。
作業着のような茶色の上下。
右手で帽子を取り、頭の横に掲げている。
左手に、布の包みを提げている。
足もとに、木の板や道具が散らばる。
背後の暗い戸口の奥に、赤い布が見える。
題に付けられた語は、南北戦争の時期の合衆国で、奴隷状態から北軍の陣営へ逃れた人を指して使われた行政上の呼び方である。
物として扱う語をそのまま人に当てた言い方であり、いまは用いられない。
館の記録の題をそのまま訳したが、この語が当時の制度の側から付けられたものであることは、はっきりさせておきたい。

同じ戸口である。
壁の紙も、床の板も、右手の椅子も同じ位置にある。
立っている人物も同じである。
ただし、服が変わっている。
濃い青の軍服。
肩から白い帯を斜めに掛け、腰に道具を下げる。
右肩に銃を担ぎ、銃剣が上へ突き出ている。
帽子には記章が付く。
顔はまっすぐ前を向いている。
一枚目で帽子を取っていた手が、いまは銃を支えている。

三たび、同じ戸口である。
同じ人物が、また立っている。
服は軍のものだが、外套を羽織り、着崩れている。
右手を額に当て、敬礼の形をとる。
左手に杖を握っている。
そして、右の脚がない。
膝から下が、松葉杖に置き換わっている。
床には、前の二枚と同じ木片が転がっている。
三枚は、同じ場所の同じ人物を、三つの時点で描いている。
来たとき。
兵になったとき。
帰ってきたとき。
番号が三つ、額が一つ
寸法の欄に、注記がある。
八四・一二のbとcとともに額装。
三枚が一つの額に収められている、という意味である。
物としては三枚。
額としては一つ。
番号は三つに分かれ、枝番のa、b、cで区別される。
第十七回で見た三幅対や三枚続と、同じ形である。
そして、この三枚は順番が決まっている。
順を入れ替えると、話が成り立たない。
額が一つであることが、その順を保証している。
出所の行は、三枚とも同じ一行である。
一八八四年に、一人の寄贈者からまとめて入った。
三枚のうち一枚だけを買うことは、この場合できない。
三枚を、続けて見る意味
三部作をもう一度見たい。
同じ場所、同じ人、三つの時。
背景が動かないので、変わった部分だけが目に入る。
服が変わる。
持ち物が変わる。
体が変わる。
そして、姿勢も変わっている。
一枚目は帽子を取り、頭を下げ気味にしている。
二枚目は正面を向き、背筋が伸びている。
三枚目は敬礼をしているが、体は杖に預けられている。
三つの姿勢の差が、そのまま三年の差である。
画家は同じ構図を三度描くことで、時間を画面の外に置いた。
一枚ずつでは分からない。
並べてはじめて読める。
だから、額が一つになっている。
記録の題を、どう扱うか
三枚の題には、当時の言い方がそのまま残っている。
一枚目の語は、いまは使われない。
館はそれを直していない。
作品が付けられた題を変えないのは、記録の原則である。
題を現代の言い方に置き換えると、その絵がいつ誰に向けて作られたかが見えなくなる。
一方で、その語をそのまま繰り返せば、当時の見方を無自覚になぞることになる。
この二つのあいだで、どう書くかは書き手の判断になる。
当サイトでは、題は記録のまま訳し、語の由来を本文で説明する方針をとっている。
読む人が、題と現在の言葉づかいの距離を測れるようにするためである。
最後の一点
九点目は、よく知られた顔である。

胸から上の肖像である。
暗い背景に、白髪の男の顔が浮かぶ。
髪は横で膨らみ、後ろで束ねられている。
黒い上着に、白い襟。
喉もとに、白い布が幾重にも重ねられている。
顔は正面をやや外し、目はこちらを見ていない。
頬から顎にかけての線が張っている。
口元は結ばれ、動きがない。
この画家は、同じ人物の肖像を何度も描いた。
注文が続いたからである。
一点ごとに少しずつ違うが、顔の作りは共通している。
一八八八年の名前
この寄贈者の名は、覚えておきたい。
出所の行に現れるのは、一八八八年である。
そして、同じ姓は四十一年後にもう一度、はるかに大きな規模で現れる。
一九二九年の遺贈である。
数千点が一度に館へ入った、その寄贈である。
この回では触れないが、後の回で読むことになる。
一八八八年の一点は、その始まりにあたる。
出所の行を年順に並べると、こういう先触れが見えてくる。
十六年で、何が変わったか
九点の出所の行を、年の順に並べ直したい。
一八七二年、アスター。
一八七七年、ホワイト夫人。
一八八〇年、マグーン師。
一八八四年、スミス。
一八八八年、ジョンストン。
一八八八年、ハヴマイヤー。
六人の名前が、十六年のあいだに並ぶ。
富裕な一族の当主、画家の妻、牧師、商人、館の代表、実業家。
出身も職業もばらばらである。
そして、渡されたものもばらばらである。
大理石の等身大像。
同時代のアメリカ絵画。
風景の水彩。
戦争の三部作。
初代大統領の肖像。
この十六年に、館の性格を一言でまとめる基準はまだない。
あるのは、六人の関心が並んでいるだけである。
誰が最初に贈ったのか
六人の寄贈者を、もう一度並べたい。
このうち、館の運営に関わっていた人が二人いる。
初代の代表と、後に評議員を務めた商人である。
つまり、初期の寄贈の少なくとも三分の一は、身内から出ている。
新しくできた館に、外から寄贈が集まるとは限らない。
まず、作る側が自分で入れる。
それを見て、外の人が続く。
出所の行の年を並べると、その順序が見えてくる。
一八七二年から一八八八年までの十六年は、その助走の期間にあたる。
一八九〇年代に入ると、寄贈の件数は一気に増える。
大きな遺贈が続くのは、さらに後、二十世紀に入ってからである。
館が信用されるまでに、二十年ほどかかったことになる。
ものを預ける相手として認められるかどうか。
その判断が、出所の行の件数に表れている。
名前が入ることの意味
出所の行に名前が入ると、記録は追えるようになる。
その人が他に何を持っていたか。
いつ手放したか。
何を集めていたか。
一つの名前を手がかりに、複数の作品がつながる。
一八八四年の三枚は、同じ人の寄贈である。
一八八〇年の水彩二点も、同じ人である。
名前は、束ねるための索引になる。
そして、名前のない行は束ねられない。
一八七一年の百七十点は、いまも一つの塊のままである。
出所の行に名前が入るようになったことは、記録が索引を持ったということでもある。
次の回では、名前ではなく、基金の名が入る行を読みたい。
人ではなく、金の入れ物に名を付ける仕組みである。
十九世紀の額
三部作の寸法欄には額の記述があるが、額の寸法そのものは書かれていない。
前の回で見た二点は、額の寸法まで併記されていた。
同じ館の記録でも、書く欄と書かない欄がある。
額を作品の一部と見るかどうかで、扱いが変わるのだろう。
三枚を一つに収めた額は、明らかに作品の一部である。
それがなければ、三枚の順が失われる。
それでも寸法は書かれていない。
書く欄が用意されていなかった時期の登録だからかもしれない。
一八八四年の受け入れである。


