山は、いちばん上にある——富士・アルプス・中国の峰ほか九点
遠い山は、画面の上に置かれる。そして、輪郭だけになる。色は薄く、細部は消える。九点で、山がどこまで簡略になるかを追いたい。手前の山と奥の山では、青みの強さが違う。名を持つ山と、名のない山が並ぶ。稜線の重ね方も比べたい。

遠いものは、薄くなる
前の回で、見ている人の位置を読んだ。
今回は、いちばん遠いものを見たい。
山である。
風景画で、山はたいてい奥に置かれる。
そして、遠いものには共通の見え方がある。
色が薄くなる。
輪郭がぼやける。
細部が消える。
あいだにある空気が、光を散らすからである。
九点を並べて、その作り方を読みたい。
そして、その約束を破っている一点も見たい。

きわめて横長の画面である。
高さ二十五・四センチ、幅四十八・三センチ。
縦横の比が、およそ一対二である。
手前に、緑の草地。
低い木が横に並ぶ。
その向こうに、湖。
細長い帯として横たわる。
水面は淡い青灰色で、対岸との境が曖昧である。
湖の向こうに、山が連なる。
手前の山は、青みを帯びた灰色。
稜線がはっきりしている。
その奥の山は、さらに淡い。
輪郭がぼやけ、空との境が消えかかる。
空は上が青く、下へ行くほど白い。
空気の遠近という考え方
遠いものが薄く見える理由を、少し書いておきたい。
空気には、細かい粒が含まれている。
水滴、塵、そして空気そのものの分子である。
光がその粒に当たると、散る。
散った光は、あらゆる方向へ広がる。
そして、青い光ほどよく散る。
だから、遠くを見ると青みがかって見える。
同時に、対象から来る光が減る。
輪郭が弱まり、明暗の差が小さくなる。
つまり、遠いものは三つの変化を受ける。
青くなる。
明暗の差が減る。
輪郭がぼやける。
この三つを絵で再現すれば、遠く見える。
ヨーロッパの風景画では、十六世紀ごろからこの方法が意識的に使われた。
九点のうち、ヨーロッパの四点は、いずれもこの約束に従っている。
東アジアの絵では、事情が少し違う。
墨の濃淡で距離を作る方法が、早くから確立していた。
色を使わないので、青くはならない。
代わりに、薄い墨と、白い霞を使う。
行き着く効果は似ているが、道筋が違う。
三段階の薄さ
この一点では、山が三段階に分かれている。
手前の山は、青灰色で輪郭がはっきりしている。
中ほどの山は、それより淡い。
いちばん奥の山は、空とほとんど同じ色である。
つまり、遠くなるほど空の色に近づいていく。
これが、空気による遠近の作り方である。
あいだの空気が厚くなるほど、山の色が空の色に混ざる。
そして、その混ざり方は、空の色によって変わる。
青い空なら、山は青みを帯びる。
白い空なら、山は白っぽくなる。
この一点では、空の下のほうが白い。
だから、遠い山も白っぽい。
薄くする代わりに、線を細くする

第十七回で読んだ写生帖の、別の帖の頁である。
画像には、開いた帳面が写っている。
見開きの二頁にわたって、線が引かれている。
中央に綴じ目が縦に走る。
その線を越えて、稜線が続いている。
つまり、一つの景色を二頁に描いている。
第十七回で、見開きにまたがる絵の問題を扱った。
面ごとに数える方式とぶつかる例である。
線は、きわめて薄い。
紙の上半分に、山の輪郭が横に伸びる。
なだらかな起伏が続く。
その下に、水平の線が数本。
いずれも、鉛筆を軽く当てただけである。
紙の下三分の一は、白いままである。
鉛筆には、色がない
鉛筆で遠近を作るには、色が使えない。
使えるのは、線の濃さと太さだけである。
この頁では、遠い山ほど線が薄い。
そして、線が細い。
第一回でも、同じ工夫を見た。
濃さを変えるだけで、距離が生まれる。
そして、もう一つの方法がある。
線の数を減らすことである。
近くの丘には、斜面を示す短い線が引かれる。
遠い山には、輪郭の一本しかない。
情報量の差が、そのまま距離になる。
記号としての山

これまでの二点と、まったく違う。
画面の中央に、山が一つだけある。
なだらかな三角形である。
裾が左右へ長く伸びる。
そして、その山が赤い。
朱色に近い赤で、一面に塗られている。
頂上のあたりだけが白い。
白い部分は、下へ向かって細く枝分かれする。
雪の残った筋である。
山の裾は、濃い青緑。
そこに、細かい点が無数に打たれている。
樹林である。
空は青い。
上が濃く、下へ行くほど淡い。
その空に、白い雲が横に並ぶ。
細長い形が、規則正しく重なる。
遠いのに、いちばん濃い
この一点では、山がいちばん遠くにある。
しかし、いちばん色が濃い。
前の二点とは、正反対である。
空気による遠近の約束を、完全に破っている。
そして、それが成立している。
理由は二つ考えられる。
一つは、朝夕の短い時間には、山が実際に赤く見えることである。
低い角度の日が当たると、そうなる。
もう一つは、この絵が空気の遠近を目的としていないことである。
山の形と色を、記号として見せている。
第十七回で扱った、揃物の一枚である。
同じ山を、三十六の場所から描いた組の一つ。
つまり、この山が主題である。
主題を薄く描く理由はない。
雲の形が、規則正しい
空の雲についても書いておきたい。
細長い形が、横に並んでいる。
そして、その並び方が規則的である。
長さと間隔が、ほぼ揃っている。
実際の雲は、こうはならない。
これは、版木を彫る都合でもある。
白い雲は、版木を彫り残して作る。
規則的な形のほうが、彫りやすく、刷りやすい。
そして、規則的な形は模様として働く。
空が、山と対比される面になる。
第一回で読んだ広重の版画でも、雲が横に薄く刷られていた。
版画の空は、たいてい模様になっている。

同じく版画だが、性格が違う。
画面が、雪で埋まっている。
左上から右下へ、急な斜面が下る。
白い面が、大きく広がる。
その斜面に、黒い松が点々と生える。
枝に雪が積もり、上が白い。
中央下に、道がある。
雪に埋もれた細い筋である。
そこを、人が二人歩いている。
一人は笠をかぶり、荷を担ぐ。
もう一人は、その後ろにいる。
いずれも、五ミリほどである。
画面の右上に、また斜面。
奥の山は、薄い灰色で、輪郭だけが見える。
上端に、赤みを帯びた帯。
白は、紙の色である
この一点で、雪はほとんど刷られていない。
紙の色がそのまま雪になっている。
第五回でも同じことを書いた。
木版画では、白は刷らない部分である。
そして、雪の絵ではその白が画面の大半を占める。
刷る手間が減る、という利点もある。
しかし、それだけではない。
紙の白は、絵具の白より明るい。
絵具を塗ると、どうしても濁る。
紙のままなら、最も明るい。
だから、雪や光を表すには紙が最適である。
そして、遠い山は薄い灰色で刷られている。
雪の白より暗い。
つまり、この絵では手前が白く、奥が灰色である。
明暗の関係が、ふつうと逆になっている。

横長の画面である。
上半分が空、下半分が地面である。
境目のあたりに、山が横たわる。
なだらかな台形で、幅が広い。
色は淡い青灰色。
頂上のあたりに、白い部分がある。
雪だろう。
そして、輪郭がぼやけている。
空との境が、はっきり決まらない。
手前は、暗い褐色の面である。
町らしい建物が、細かく描き込まれている。
しかし、色は一様に暗い。
左下に、手書きの文字と日付らしいもの。
空は、上が青く、下が白い。
分類の欄が、素描になっている
この一点の記録には、食い違いがある。
技法の欄には、板に油彩とある。
一方、分類の欄は素描となっている。
油彩で描かれたものを、素描の部門で扱っている。
これは、誤りとは限らない。
現地で急いで描いた下絵は、油彩でも素描として扱うことがある。
第十七回でも、本画のための頁を何度か読んだ。
完成品か、その前段階かで、部門が変わる。
そして、この一点には日付が書き込まれている。
現地で描いた記録である可能性が高い。
館の記録は、その事情を説明しない。
二つの欄が、食い違ったまま並んでいる。
山を、縦に積む

きわめて縦長である。
表装を含めた高さが、二メートル六十六センチ。
九点のなかで、いちばん大きい。
墨だけで描かれている。
画面の下のほうに、岩と木立。
その上に、白い霞の帯。
さらに上に、山が現れる。
角ばった塊が積み重なる。
そして、その上にまた霞。
もっと上に、また山。
最上部にも、遠い峰が見える。
つまり、山と霞が交互に積まれている。
上へ行くほど、墨が薄くなる。
薄くするのではなく、間に霞を入れる
前の何点かでは、遠い山を薄く塗っていた。
この一点でも、上の山は薄い。
しかし、方法が違う。
山と山のあいだに、白い霞を挟んでいる。
その霞が、距離を作っている。
薄くするのではなく、間を空ける。
第五回でも書いたが、これは東アジアの山水画の基本的な組み立てである。
近景、中景、遠景を、霞で区切って積む。
そして、その積み方は縦の画面に向いている。
横に広げるのではなく、上へ伸ばす。
掛軸という形式が、この構成を要求している。
技法の欄に、繻子とある。
光沢のある絹である。
墨がにじみにくく、線が硬く出る。
霞の柔らかい部分は、墨を薄めて広く塗っている。

横長の大きな板絵である。
幅が一メートル二十二センチある。
そして、山の形が異様である。
右手に、岩の塔が何本も立ち上がる。
垂直に近い崖である。
その上に、木が生えている。
崖のあいだから、白い滝が落ちる。
細く、長い。
左手にも、岩の塊。
その向こうに、遠い山と平地。
淡い青緑で描かれる。
空は、雲が厚く、光が斜めに差す。
色は、褐色と暗い緑が中心である。
実在しない山
この山は、実際の景色ではないだろう。
岩が細く高く立ちすぎている。
そして、崖の傾きが不自然である。
十六世紀から十七世紀のヨーロッパでは、こうした山が繰り返し描かれた。
想像で組み立てた風景である。
見たことのない土地の山を、話を聞いて描く。
あるいは、他の絵を写して描く。
第二回で読んだ幻想的風景と、同じ系統である。
そして、この種の絵では、遠い山が淡い青緑で描かれる。
その約束だけは守られている。
形は自由でも、色の遠近は守る。

第五回で読んだ写生帖の、別の一枚である。
画面いっぱいに、山の塊が描かれている。
輪郭が上に伸び、右へ下る。
その内側に、細かい斜線が引かれている。
斜面の陰影である。
線の向きは、斜面の傾きに沿っている。
そして、線の密度が場所によって違う。
濃いところは、影の部分である。
薄いところは、光が当たっている。
手前の低い部分には、より濃い線が寄せられる。
右下に、手書きの文字。
地名と日付らしい。
紙の左のほうは、比較的空いている。
線の向きが、斜面を作る
この一枚では、線が斜面の傾きを示している。
横に引けば、水平な面に見える。
斜めに引けば、傾いた面に見える。
そして、線を密に重ねれば、暗くなる。
この三つで、山の立体が作られる。
色を使わず、濃淡と線の向きだけで作っている。
前に見た写生帖の頁は、輪郭だけだった。
こちらは、内側まで描き込んでいる。
同じ鉛筆でも、時間をかければここまでできる。
写生帖の頁ごとの差は、そのまま滞在時間の差でもある。

第一回と第二回でも、同じ写生帖の頁を読んだ。
線がきわめて淡い。
紙の左に、岩の輪郭がある。
短い線が重なり、塊を作る。
その右に、水平の線が数本。
水面と、対岸だろう。
さらに右に、低い山の稜線が薄く伸びる。
そして、紙の下半分は白い。
右下に、小さな文字。
日付らしい。
これまで見てきた同じ帖の頁と、作りが同じである。
上に遠景、下は空白。
九点を、山の濃さで分ける
九点の山を、濃さで分けたい。
遠い山が薄いもの。
フチーノ湖、エトナ山、山岳風景、写生帖の三点。
六点である。
遠い山が濃いもの。
赤富士。
一点だけである。
そして、霞で区切って積んだもの。
中国の掛軸。
雪で明暗が反転したもの。
木曽街道の版画。
つまり、九点のうち六点は約束どおりである。
残る三点が、それぞれ別のやり方をしている。
約束を破るとき
空気による遠近は、自然の見え方に基づいている。
だから、そのとおりに描けば、それらしく見える。
しかし、そのとおりに描かない理由もある。
主題を見せたいとき。
模様として整えたいとき。
そして、別の構成の約束があるとき。
赤富士は、一つ目である。
中国の掛軸は、三つ目である。
雪の版画は、材料の都合が絡む。
九点を並べると、その使い分けが見えてくる。
自然の見え方に従うか、絵の都合を優先するか。
どちらを選んでも、絵は成立する。
そして、その選択は記録の欄には現れない。
技法の欄には、材料の名が書かれるだけである。
次の回では、木を見たい。
木は山より近く、人より大きい。
そして、画面のなかで柱の役目をする。
山の形は、四通りに分かれる
九点の山の形を並べたい。
なだらかな三角が一点。
赤富士である。
台形が一点。
エトナ山である。
塊が連なるものが四点。
フチーノ湖、写生帖の三点。
角ばった岩の塔が二点。
山岳風景と、中国の掛軸。
そして、雪に埋もれて形が見えないものが一点。
木曽街道の版画である。
形が単純なほど、記号として働きやすい。
三角形と台形は、一目でその山だと分かる。
だから、繰り返し描かれ、名所の絵になる。
一方、塊が連なる山は、どこの山か分からない。
固有の名を持たない。
風景の一部として働く。
つまり、山の形は、その山が主題かどうかを示している。
はっきりした形なら、主題である。
曖昧な形なら、背景である。
稜線の位置
九点の稜線が、画面の上から何割のところにあるかを見たい。
フチーノ湖は、上から四割。
赤富士は、上から三割。
エトナ山は、ほぼ真ん中。
木曽街道は、上から二割。
山岳風景は、上から三割。
中国の掛軸は、上から一割、四割、七割と三段ある。
写生帖の三点は、いずれも上から三割前後。
つまり、多くの絵で稜線は上から三割前後にある。
これは、偶然ではない。
稜線を高くすると、空が狭くなる。
低くすると、地面が狭くなる。
三割あたりが、空と地面の分け方として据わりがよい。
そして、中国の掛軸だけが三段に分かれている。
一つの稜線ではなく、三つある。
縦に長い画面だから、三度繰り返せる。
画面の形が、稜線の数を決めている。
そのことも、九点を並べると見えてくる。
手前に何を置くか
遠い山を描くとき、手前に何を置くかが問題になる。
九点を見ると、四通りある。
一つ目は、草地や木立を置く。
フチーノ湖と山岳風景である。
二つ目は、暗い塊を置く。
エトナ山の絵では、手前が一様に暗い褐色である。
その暗さが、遠い山の淡さを際立たせる。
三つ目は、何も置かない。
写生帖の三点は、手前が白いままである。
四つ目は、手前を主題にする。
木曽街道の版画では、手前の雪の斜面が画面の大半を占める。
遠い山は、右上に小さく見えるだけである。
手前を暗く、遠くを淡くする。
この対比が、いちばん効率のよい遠近の作り方である。
明暗の差が大きいほど、距離が開いて見える。
エトナ山の一点は、その対比だけで奥行を作っている。
手前の町の細部は、ほとんど読めない。
読めなくてよい。
暗い塊であることが、この絵の仕事だからである。
そして、その塊の上に、白い山が浮かぶ。
暗さと淡さの差が、そのまま距離になる。
山に名前があるかどうか
九点の題を見たい。
固有の山の名が入っているものが二点ある。
赤富士と、エトナ山である。
地名が入っているものが三点。
アブルッツォの山、木曽街道の宿場、そして写生帖の道。
そして、ただ山とだけ書かれたものが四点。
固有の名がある山は、形がはっきりしている。
だから、名前と形が結び付く。
逆にいえば、形がはっきりしているから名前が付いた。
そして、名前のある山は、繰り返し描かれる。
同じ形を、何度も別の角度から描く。
第十七回で扱った揃物は、まさにそれである。
一方、名前のない山は、一度きりである。
その絵のための背景として描かれ、それきりになる。
館の記録の題は、その差をそのまま写している。


