このフェルメールは、フェルメールか——ワシントンの六枚が示す「帰属」という判断
何が「足りない」と判断されたのか
出てきたのは、奇妙な食い違いだった。この絵を描いた人物は、フェルメールの特徴的なやり方を知っている。しかし、それを実行する腕が伴っていない。
たとえば、白い絵具の粒である。フェルメールは、光がにじんで見える場所を選んでこれを打つ。
パンの表面、真鍮の縁、濡れた唇。焦点の合っていないレンズを覗いたときのような、光の粒立ちを再現するための手段である。
《フルートを持つ女》では、その粒の置き方が均質になっている。どこも同じ調子で並び、面の説明になっていない。
技法だけを覚えて、なぜそこに置くのかを理解していない。調査はそう判断したことになる。
道具立ての一致も、この判断を支えている。壁掛けも、獅子の頭の椅子も、フェルメールの真作に繰り返し出てくる品である。
たとえば《手紙を書く女》の右手前にも、同じ獅子の頭が見えている。

これらは想像で描ける品ではない。実物を前に置ける者でなければ難しい、という理屈になる。
もっとも、真作を横に置いて写した可能性が消えるわけではない。決定的な一発ではなく、状況証拠を積み上げた判断だと理解しておきたい。
逆に言えば、この絵が長くフェルメール本人の作とされてきたのにも理由がある。大きさも、板という支持体も、道具立ても、隣の《赤い帽子の娘》とそっくりなのである。
対になる小品として扱うのが自然だった。目で見るかぎり、それを疑う手がかりは乏しい。
そしてここには小さくない含みがある。フェルメールが弟子や助手を抱えていたことを示す当時の文書は、いまのところ見つかっていない。
つまりこの再帰属は、「工房があったはずだ」という新しい像を、絵の側から引き出したことになる。館がこれを重い発見として扱ったのも、そのためだろう。
1925年ごろの「フェルメール」
六点のうち二点は、もっと極端な位置にいる。《微笑む娘》と《レースを編む女》。制作年は、どちらも1925年ごろと記録されている。

十七世紀の画家の作品として館に入り、いまは模倣者の作として記録されている。四百年の隔たりを、記録が一行で埋めている。
1920年代に、この二点が市場に現れた。当時としては大発見である。実業家アンドルー・メロンが手に入れ、1937年に館の所蔵となった。当然、フェルメールとして。
前の節で見たとおり、この時期は「新しいフェルメール」が期待されていた。期待のあるところに、供給が生まれる。
絵具は年代を語る
決め手になったのは、絵具だった。合成ウルトラマリンと、クロム酸鉛。
前者は十九世紀に工業的に作られるようになった青であり、後者は1811年以降に登場した黄である。
十七世紀のデルフトには、どちらも存在しない。様式の議論をいくら重ねても、この一点で決着がつく。
描いたのは、オランダの修復家テオ・ファン・ワインハールデンだったと考えられている。古い絵を直す仕事は、古い絵の作り方を内側から知る仕事でもある。
同じ時代のオランダには、もっと有名な例がある。ハン・ファン・メーヘレンである。
彼が描いた《エマオの晩餐》は、1937年に「新発見のフェルメール」として世に出て、翌年ロッテルダムの美術館が巨額で購入した。当時の一流の目が、そろって本物と認めている。
発覚のきっかけは絵の出来ではなかった。戦後の1945年、ナチス高官へ絵を売った罪で捕らえられた彼が、あれは自分が描いたものだと主張したのである。
裁判では、実際に同じ手口で一枚描かせて確かめた。1947年に有罪となり、その年の暮れに彼は世を去っている。
この一件が示すのは、目利きの限界というより、期待の強さである。「あるはずのフェルメール」を求める空気が、判断を引き寄せていた。
いま見ると、ファン・メーヘレンの絵はフェルメールにあまり似ていない。人物の顔立ちが、どうしても1930年代のものに見える。
しかし当時の専門家には見えなかった。同じ時代の空気のなかにいる者は、その時代の癖に気づけない。
これは今日の私たちにも当てはまる。いま「本物らしい」と感じている感覚も、百年後には時代の産物として見えるだろう。
贋作は、どこで手間をかけるか
ファン・メーヘレンの手口は、贋作という仕事の性格をよく示している。
彼が力を注いだのは、絵の出来ばえよりも「四百年ぶんの時間」の再現だった。
古い絵を安く買い、表面を削って地の層だけを残す。そこに描けば、支持体と下地は本物の年代になる。
絵具には樹脂を混ぜ、加熱して硬化させた。油絵具は数十年かけて固まるが、そのままでは溶剤で簡単に溶けてしまい、若い絵だとすぐ露見する。
さらに、乾いた画面を巻いてひび割れを作り、その割れ目にインクや埃を刷り込む。古い絵の亀裂には汚れが溜まっている——その見え方まで作り込んでいる。
主題の選び方も計算されていた。彼が描いたのは、記録に名前だけが残る「失われたフェルメール」に対応しそうな宗教画である。
つまり、専門家が期待していた空白に、ちょうど収まる形の絵を用意した。「本物らしさ」ではなく「あるはずの一枚らしさ」を狙ったわけである。
こうして並べると、贋作とは絵を作る仕事ではなく、物語と物証を作る仕事だと分かる。
見抜く側が絵の様式だけを見ていたら、勝負にならない。科学調査が判断の中心に入ってきた理由が、ここにもある。
隣にいた画家たち
もうひとつ、忘れてはいけない事情がある。当時のデルフトには、似た絵を描く画家が現に大勢いたということだ。

デ・ホーホはフェルメールと同時代にデルフトで活動した画家である。室内と中庭、静かな人物、遠くまで抜ける戸口。主題も構図もよく似ている。
十九世紀から二十世紀にかけて、デ・ホーホの作品がフェルメールとして売られた例は少なくない。署名を書き換えられたものもある。
彼らは互いに影響しあっていたはずで、どちらが先かも簡単には決められない。同じ街の空気を吸っていた画家たちである。
だから帰属の問題は、「本物か偽物か」より「誰の手か」という問題であることのほうが多い。そして後者は、ずっと難しい。
デ・ホーホの絵を見ていると、そのことがよく分かる。床の敷石は正確な遠近法で奥へ走り、戸口の向こうにもう一つの明るさがある。
フェルメールの室内が「一室の空気」を描くのに対し、こちらは「家の奥行き」を描いている。目的が少し違う。
この違いは、並べて初めて見えてくる程度のものである。一枚だけ壁に掛かっていたら、多くの人は区別しないだろう。
帰属を判断する人たちは、その「並べて初めて見える差」を、日々の仕事として蓄積している。