同じ年に、二通りの行がある——マンスフィールド・コレクション、1936年
購入が七十四点、寄贈が二十七点。同じ年に、同じ人の集めたものが買われもし、贈られもした。掛軸四十一点、版画二十五点、刀の鍔八点。一つの名前が三つの番号体系にまたがる索引になっている。墨だけの絵に階調表を添えて撮る、記録用の撮影についても書きたい。

同じ年に、二通りの行がある
前の回で読んだ形と、よく似た行がある。
ハワード・マンスフィールド・コレクション、購入、ロジャーズ基金、一九三六年。
コレクションの名。
購入という語。
そして、基金の名。
前の回の一九一一年の行と、構造が同じである。
そして、同じ一九三六年に、もう一つの行がある。
ハワード・マンスフィールド・コレクション、ハワード・マンスフィールドによる寄贈、一九三六年。
こちらは購入ではない。
本人からの寄贈である。
当サイトで公開している分では、購入が七十四点、寄贈が二十七点。
合わせて百点を超える。
同じ年に、同じ人の集めたものが、買われもし、贈られもした。
今回は、その百点の内訳と、九点の中身を見たい。

一頭の虎が、体を左へ向けて歩いている。
そして、顔だけがこちらを向く。
目は丸く、瞳が中央にある。
耳は小さく、頭の横に付く。
口は閉じ、鼻の下に髭が広がる。
毛は一本ずつ描かれている。
黄褐色の地に、黒い縞。
縞は背から腹へ回り込む。
前脚は太く、爪が見える。
尾は後ろへ伸び、先が上がる。
背景は何もない。
絹の地がそのまま残る。
右上に、落款と印。
岸という一族
九点の作者名を見ると、最初の三点が同じ系統に属する。
いずれも、岸の字で始まる名を持つ。
三点目については、館の記録が読みをローマ字で記すだけである。
漢字が確認できないので、当サイトでは片仮名にとどめた。
館の記録は、それぞれの生没年をこう書く。
一七四九年から一八三八年。
一七九八年から一八五二年。
一八〇五年から一八五九年。
年代がずれながら、重なっている。
同じ家か、同じ流派である。
日本の画家には、師の名の一字を受け継ぐ習慣があった。
弟子や養子が、その字を名に入れる。
この流派では、岸の字を名の頭に置き、ガンと読ませた。
だから、名前だけで系統が見えることがある。
第十四回で読んだ刀装具の作者にも、同じ仕組みがあった。
集める人は、しばしばこの単位でそろえる。
一人の作を追うのではなく、系統を追う。
三点が連続した番号を持っていることも、それを裏づける。
三六・一〇〇の一一、一三、一四。
間に一点挟まっているが、ほぼ続き番号である。
登録のときに、まとめて扱われている。
虎を描くということ
一点目の主題について、少し書いておきたい。
日本には、虎が生息していない。
だから、画家は実物を見ていない。
見たのは、毛皮と、輸入された絵と、書物の記述である。
そのため、日本の虎の絵には、独特の癖が現れる。
顔が猫に近い。
胴が長い。
縞の入り方が実際と違う。
九点の一点目を見ると、顔がこちらを向き、目が大きく丸い。
体つきは、実物よりやや細い。
一方で、毛の描写はきわめて丁寧である。
一本ずつ、方向を変えて描かれている。
これは、毛皮を見て描いた成果だろう。
見たものは正確に、見ていないものは想像で。
その差が、一枚の絵の中に同居している。
館の記録は、こうしたことを書かない。
題も、虎、とだけである。
分野が、二つに分かれている
百五点の内訳を見たい。
部門で分けると、東洋美術が八十三点、武具が二十二点である。
種別で分けると、掛軸が四十一点、版画が二十五点。
刀の鍔が八点、絵入本が六点、小柄が四点。
屏風が二点、脇差の刀身と拵えが二点。
つまり、この人は絵と版画と刀装具を集めていた。
分野が二つの部門にまたがっている。
第九回で読んだ寄贈も、館の分類を横切っていた。
こちらも同じである。
集める人は、館の部門の区切りに従わない。
日本の美術、という一つのくくりで見ていたのだろう。
館が受け入れると、東洋美術の部門と武具の部門に分かれる。
同じ人の集めたものが、別々の棚に置かれる。
番号は、分かれる
番号も、部門ごとに分かれている。
掛軸と絵は、三六・一〇〇で始まる番号。
版画は、日本の版画を示す通し番号。
刀装具は、また別の番号である。
第四回でも書いたが、番号の体系は部門ごとに違う。
だから、同じ受け入れでも、番号は連続しない。
出所の行だけが、それらを結び付けている。
一つの名前が、複数の番号体系にまたがる索引になっている。
濃淡だけの風景

縦長の掛軸である。
表装は、明るい青の裂である。
その中央に、細長い画面。
上部に、樹木が茂る。
葉は細かい点の集まりで表される。
その下に、岩の塊。
岩の隙間に、小さな建物が見える。
板葺きの屋根と、柱。
その脇に、輪のようなものが描かれる。
水車である。
下のほうに、水の流れと石。
さらに下は、霞で消える。
墨の濃淡が中心で、色はごく薄い。
何も描かれていない上半分

この一点は、余白が多い。
画面の下から三分の一のあたりに、橋が横に架かる。
欄干の柱が、等間隔に並ぶ。
橋板の線が、細かく引かれている。
橋の下は、何も描かれていない。
水面のはずだが、白いままである。
そして、橋の上も、ほとんど空白である。
右上に、ごく淡い丸い形。
月である。
輪郭が曖昧で、にじんでいる。
左下に、小さな落款と印。
画面の九割が、紙の白のままである。
撮影の階調表
この一点の画像には、変わったものが写っている。
画面の左側に、細長い帯がある。
黒から白へ、段階的に明るさが変わる目盛りである。
撮影のときに、階調を確認するために置く。
第七回で見た色見本の帯と、目的は同じである。
この一点は墨だけの絵である。
だから、色ではなく明暗の再現が問題になる。
淡い墨がきちんと写るかどうか。
その確認のために、白から黒までの段階を一緒に撮る。
作品の性質に応じて、撮影の道具が選ばれている。
記録のための撮影は、そこまで考えられている。

横長の画面が、掛軸に仕立てられている。
中央に、馬が一頭。
その背に、黒い衣の人物が乗る。
頭は剃られている。
そして、馬の進行方向とは逆を向いて座っている。
顔は右、馬の頭は左である。
馬の前に、もう一人。
縞の着物を着て、手綱を引いている。
こちらは裸足である。
左の余白に、文字が四行ほど。
墨だけで描かれ、色はない。
線が太く、簡素である。
後ろ向きに乗るという行為に、由来のある逸話がある。
京の方角に背を向けないため、と伝えられる。
館の記録は、その説明を書いていない。
題に、そのまま状況が書かれているだけである。

こちらも横長の画面である。
二人の人物がいる。
左の一人は、身をかがめる。
黒い上衣に、赤い袴。
顔は前を向き、目を見開いている。
背に、大きな箱のようなものを負う。
右の一人は、立っている。
淡い緑の上衣に、縞の下衣。
右手を高く上げ、大きな傘を差し掛けている。
傘は平たく、竹の骨が見える。
背景は無地である。
舞台の一場面を描いたものだろう。
掛軸が四十一点、版画が二十五点
内訳の数字を、もう少し見たい。
掛軸が四十一点で、版画が二十五点である。
掛軸のほうが多い。
これは、少し意外である。
十九世紀末から二十世紀初めのアメリカで、日本美術の収集といえば版画が中心だった。
安く、数が多く、運びやすい。
第五回でも書いたとおりである。
一方、掛軸は高い。
一点ずつ手で描かれている。
表装があるので、扱いも難しい。
その掛軸のほうが多いということは、この収集が版画から始まって奥へ進んだことを示しているのかもしれない。
版画で日本の絵に親しみ、やがて肉筆へ移る。
そういう順序は、当時の収集家によく見られる。
もっとも、これは推測である。
館の記録には、集めた順序は書かれていない。
分かるのは、最終的な内訳だけである。
そして、刀装具が二十二点混じっている。
絵とはまったく別の分野である。
日本の工芸を広く見ていたのだろう。
横長の画面が、二点ある
九点のうち、二点は横長の画面である。
三十八・三掛ける五十五・一センチ。
三十一・八掛ける四十二・七センチ。
いずれも、縦長の掛軸に仕立てられている。
つまり、絵は横長なのに、掛けると縦長になる。
上下に表装の裂が広く取られる。
第十七回でも、同じ形を見た。
画帖の一葉や扇を、掛軸に仕立て直す。
もとの形と、いまの形が違う。
この二点も、もとは別の形だった可能性がある。
画帖の一葉か、襖絵の一部か、あるいは最初から横長の一枚か。
館の記録は、そこを書かない。
技法の欄に、掛軸とあるだけである。
そして、寸法の欄の三段書きが、その事情を間接に示している。
画面が三十八センチなのに、表装込みで百二十三センチになる。
三倍以上である。
余った部分は、すべて表装である。
雪の中を歩く

縦長の掛軸である。
表装が凝っている。
濃紺の地に、金の文様が入る一文字。
その内側に、縞の裂。
画面には、女性が一人立つ。
大きな笠をかぶっている。
平たく、円錐に近い形である。
顔は、笠の陰でほとんど見えない。
衣は青みがかった灰色。
裾から、赤い下衣が覗く。
足もとは白い足袋。
背に、細い棒のようなものが斜めに見える。
上部には、雪をかぶった松の枝。
白い部分は、絹の地を残したものである。
背景は淡く、雪が降る空気を表す。

縦長の画面である。
下半分に、女性が座っている。
赤い衣に、黒い帯。
膝の上に、細長い棹を持つ。
三味線である。
胴は右手のあたりに置かれる。
顔は左を向き、うつむき加減。
髪は結い上げ、櫛が挿さる。
その背後に、板の縁と柱。
建物の中にいることが分かる。
上半分には、風景が広がる。
低い丘と、家並みと、水。
遠くは霞んでいる。
室内と屋外が、一つの画面に収まる。
高い場所から外を見ている構図である。
剣を持つ姿

表装は、水色の地に花の文様である。
画面の中央に、赤い箱が置かれる。
その上に、人が一人立つ。
体を大きくひねっている。
右腕を高く上げ、剣をまっすぐ立てて持つ。
剣は細く、まっすぐである。
左腕は下がり、袖が流れる。
衣は淡く、裾が広がる。
顔は上を向く。
髪は乱れ、後ろへ流れる。
足は箱の上で交差する。
箱の下は、緑の草地。
その下に、水が描かれる。
動きの一瞬を止めた構図である。

表装は、褐色の地に細かい文様が織り出されている。
上部に、金色の帯。
画面の中央に、菩薩が座る。
蓮の花の上である。
花弁は白と淡い紅で、幾重にも開く。
その下に、緑の葉。
菩薩は赤い衣をまとう。
頭は剃られている。
背後に、金の輪。
二重になっており、外側の輪が大きい。
右手は胸の前で何かを持つ。
左手は膝の上。
顔は正面をやや外し、目を細める。
九点のなかで、唯一の仏画である。
表装が、九通りある
九点のうち、表装まで写っているものが六点ある。
そして、六点とも裂が違う。
青の無地。
明るい青の裂。
濃紺に金の文様。
水色に花文。
褐色に細かい文様。
淡い色の裂。
第六回でも書いたが、表装は絵と同時に作られるとは限らない。
傷めば付け替える。
集めた人が、自分の好みで仕立て直すこともある。
つまり、いま見えている表装は、この人の手元にあったときの姿かもしれない。
そして、館に来てからも、必要があれば付け替えられる。
記録は、表装の年を書かない。
寸法の欄に、表装を含めた数字が入るだけである。
寸法欄が、三段のものと一段のもの
九点の寸法欄を見比べたい。
三段書きが四点。
一段書きが五点。
三段書きは、画面、表装込み、軸首込みの三つを書く。
一段書きは、一つの数字しか書かない。
そして、その一つが画面の寸法か、全体の寸法かは、記述からは分からない。
同じ形式の掛軸で、書き方が二通りある。
登録された時期が違うのだろう。
古い登録は簡素で、新しい登録は詳しい。
第十五回で見た兜も、寸法が一つしか書かれていなかった。
館の記録は、時期によって精度が違う。
そして、古い記録は、そのまま残される。
書き直せば読みやすいが、いつ誰が測ったかが分からなくなる。
余白という描き方
三点目の絵について、もう少し書きたい。
画面の九割が、何も描かれていない。
橋と、淡い月だけである。
これは、描き足りないのではない。
意図された構成である。
東アジアの水墨画では、余白が空気や水を表す。
描かないことで、そこに何かがあると示す。
橋の下は水である。
しかし、水面を描けば、そこに面ができてしまう。
描かなければ、霧が立ちこめているように見える。
同じことが、月にも言える。
輪郭をはっきり描けば、月は物体になる。
にじませれば、光になる。
この一点は、その二つの判断でできている。
そして、記録の欄はそれを一言も書かない。
掛軸、紙本墨画、九十七・八掛ける三十・五センチ。
材料と寸法だけである。
余白の割合は、測れば数字になるはずだが、記録の欄には入らない。
画像を見なければ分からない。
第十七回でも書いたが、記録に無い特徴は、見て補うほかない。
主題の幅
九点の主題を並べたい。
虎。
山中の水車。
月下の橋。
馬に後ろ向きに乗る僧。
狂言の役者。
雪の中を歩く女。
三味線を持つ女。
剣を持って舞う人。
菩薩。
動物、風景、逸話、芸能、風俗、宗教。
一つも重ならない。
九点を選んだのはこちらだが、選べたということは、収集の幅が広かったということである。
一つの主題に偏っていない。
第九回で読んだ収集は、特定の人物の顔に絞られていた。
第十回は、細密肖像という形式に絞られていた。
第十三回は、ガラスという材料に絞られていた。
この収集は、そのどれとも違う。
絞っているのは、日本の美術である、という一点だけである。
だから、種別も主題も年代も広がる。
そして、そういう収集は、館にとって扱いにくい。
分野ごとに分けると、まとまりが消える。
まとまりを保つと、分類が崩れる。
出所の行の先頭にコレクションの名を置く書き方は、その折衷である。
物は分けるが、名前で束ねておく。
一つの名前で、百点を数える
最後に、数え方について書いておきたい。
この回では、出所の行で作品を絞って数えた。
すると、百五点が同じ名前を持っていた。
そして、その内訳を種別と部門で分けた。
こういう読み方は、一点ずつ見ていては思いつかない。
館の記録は、一点ごとに一行を持つ。
その行を集めて数えることで、別の像が現れる。
一人の収集家が何を集めたか。
館がそれをどう分けたか。
買った分と贈られた分の割合。
いずれも、集計してはじめて見える。
第九回、第十回、第十三回でも、同じ方法を使った。
出所の行は、索引として働く。
そして、索引を集計すると、収集の形が出てくる。
一行ずつでは読めないものが、そこにある。
買うことと、贈ること
最後に、出所の行に戻りたい。
同じ年に、同じ人の集めたものが、二通りの経路で入っている。
購入が七十四点、寄贈が二十七点。
四対一に近い割合である。
前の回で読んだ例では、寄贈が六点、購入が七十五点だった。
こちらのほうが、寄贈の割合が高い。
しかし、どちらも購入が主である。
大きな収集をまるごと動かすとき、寄贈だけでは足りない。
第六回で読んだ、寄贈と購入を混ぜる形と同じである。
集めた人の側にも、館の側にも、それぞれの事情がある。
そして、記録はその割合を書かない。
一点ずつの行を数えて、はじめて割合が見える。
出所の行は、一点ずつ読むだけでは分からないことを含んでいる。
同じ行を持つ作品をすべて集めて、数えてみる。
そうすると、一つの収集の形が浮かび上がる。
次の回では、また別の一人を読みたい。
商人が集めた東洋の絵が、家族の名で館に入った例である。
そこでは、集めた本人ではなく、その妻と子の名が行に入っている。
そして、思い出に、という句が添えられる。
第七回で読んだ形式が、大きな収集の行に現れる例である。
集めた人の名は、コレクションの名として先頭に残る。
渡した人の名は、その後ろに並ぶ。
一行のなかで、二つの役割が書き分けられている。


