はがき大の、旅の記録——ジョージ・エルバート・バー
縦8.7センチ、横25.1センチ。名刺を三枚並べたほどの紙に、朝の山並みが三層の色で置かれている。版画家バーがヨーロッパを回った四年間の記録を、手のひらに載る九点でたどる。完成作として作られていないのに、そのまま作品として通用する。

手のひらに載る風景
まず、寸法を確かめてほしい。

紙の大きさは、縦8.7センチ、横25.1センチ。
名刺を三枚横に並べたくらいの帯である。
その細長い紙に、風景が描かれている。
上のほうに、淡い灰色の空がある。
その下に、青紫の山並みが横たわる。
さらに手前は、薄い水色の面である。湖か、霞んだ土地だろう。
色は三層だけである。灰、青紫、水色。
筆は数えるほどしか置かれていない。
それでも、朝の空気が伝わってくる。
小さいことの意味
なぜ、これほど小さいのか。
答えは単純である。持ち歩くためである。
旅行中に描く水彩は、道具を持って歩かねばならない。
紙、絵具、水、筆。
紙が大きければ、板も要る。風で飛ばないよう押さえも要る。
小さければ、帳面ごと鞄に入る。
立ったまま、膝の上でも描ける。
つまりこの寸法は、旅の条件から決まっている。
もう一つ、実務的な理由もある。
小さければ、乾くのが速い。
水彩は乾かないと次の層が置けない。
大きな紙では、乾くのを待つ時間が長くなる。
小さな紙なら、数分で次に進める。
旅の途中で、天気の変わらないうちに描き終えられる。
九点が残った経路
これらの水彩が、どうやって美術館に入ったのかも書いておきたい。
記録によれば、収蔵の登録番号は同じ系統でそろっている。
つまり、まとまった一群として受け入れられている。
画家の遺族や、まとめて所蔵していた人から寄贈されたのだろう。
こうした習作の類は、散逸しやすい。
一枚ずつ売られれば、行方が分からなくなる。
まとめて残ったからこそ、旅程が復元できる。
九点を並べて年代順に読めるのは、その保存のおかげである。
当サイトが同じ画家の作をまとめて扱えるのも、同じ理由による。
画家について
ジョージ・エルバート・バーについて、記録から書く。
1859年に生まれ、1939年に没したアメリカの画家である。
版画家として知られ、とくに銅版画の作例が多い。
今回の九点は、いずれもヨーロッパ旅行中の水彩である。
制作年は、1896年から1900年に集中している。
つまり、三十代の後半から四十歳ごろの数年間である。
同じ時期の水彩が、まとまってスミソニアン協会に収蔵されている。
九点はその一部にすぎない。
当サイトが公開している同画家の作も、大半がこの一群である。
つまり、この人の版画のほうは、まだ扱えていない。
版画を主とする画家を、水彩だけで紹介することになる。
その偏りは、あらかじめ断っておきたい。
もっとも、水彩だけでも見えるものは多い。
線の引き方、色の置き方、対象の選び方。
版画に向かう目が、そこにすでに現れている。
旅先で描くということ
旅先の写生には、独特の条件がある。
まず、時間が限られる。次の街へ移動しなければならない。
次に、天候を選べない。晴れを待つ余裕がない。
そして、同じ場所に二度は行けないことも多い。
つまり、一度きりの機会をその場で捉えるしかない。
この条件は、絵の描き方を決める。
迷わず、速く、要点だけを取る。
九点に共通する簡潔さは、そこから来ている。
記録された旅程
九点の題を並べると、旅の道筋が見えてくる。
まず、1896年のイタリア北部。
1898年には、スイスとイタリアの湖水地方。
1899年には、ウェールズ。
1900年には、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア。
つまり数年をかけて、ヨーロッパ各地を回っている。
これは、当時のアメリカの画家によくある行程である。
修業と取材を兼ねた長期の旅である。
帳面としての水彩
こうした小さな水彩は、写生帳の一枚に近い。
その場で色を記録し、後の制作に使う。
版画家であれば、なおさらである。
銅版画は、画室で時間をかけて作る。
現場では作れない。だから、記録を持ち帰る必要がある。
当サイトでも
スケッチブックの中で、
この役割を扱った。
ただし、これらの水彩は帳面から切り離されている。
一枚ずつ独立した作品として、収蔵されている。
水彩という材料
水彩の性質についても、整理しておきたい。
顔料を、水に溶ける糊で練った絵具である。
紙に塗ると、水が乾いて顔料が定着する。
絵具の層は薄く、下の紙の色が透ける。
だから、白い紙に描くと画面が明るくなる。
一方、失敗すると直しにくい。
塗った色を削り取るのは難しく、上から白で隠すこともできない。
つまり、一度置いた色は基本的に残る。
その一発勝負の性格が、旅の記録と相性がよい。
考える時間がないほうが、かえって迷いが出ない。
帳面の紙
九点の紙の寸法は、よく似ている。
横が20センチから25センチ、縦が9センチから15センチ。
つまり、同じ帳面から切り出された可能性が高い。
一冊の帳面を持ち歩き、片面ずつ使っていく。
見開きで使えば、横に長い画面になる。
最初の一枚が縦8.7センチと極端に細長いのも、
帳面の一部を使ったためかもしれない。
紙の形は、道具の形で決まっている。
そして紙の形が、構図の形を決める。
横長の紙からは、横長の風景が生まれる。
雨の湖
二点目は、天候が主題である。

湖である。手前に水面が広がる。
その水面に、小舟が一艘浮かんでいる。
舟には人が乗り、屋根のようなものが掛かる。
奥には、山影が薄く見える。
空は灰色で、下のほうがぼやけている。
雨が降っている、と分かる描き方である。
輪郭が全体に緩く、色がにじんでいる。
水彩で雨を描くのは、実は理にかなっている。
紙が濡れているあいだに色を置けば、自然ににじむ。
濡れた紙に描く
水彩には、二つの描き方がある。
乾いた紙に描くと、輪郭がはっきり出る。
濡れた紙に描くと、色が広がってにじむ。
この一枚では、後者が使われている。
空も、山も、水面も、境目が溶けている。
はっきりしているのは、小舟だけである。
舟だけを、紙が乾いてから描き足したのだろう。
にじみと輪郭を、意図的に使い分けている。
湖水地方という行き先
この一枚が描かれた土地についても触れておきたい。
イタリア北部の湖は、十九世紀の旅行者に人気の目的地だった。
鉄道が通り、宿が整い、外国人が多く訪れた。
つまり、観光地としてすでに確立していた場所である。
画家がそこへ行くのも、自然な選択だった。
見どころが分かっており、描く場所を探す手間が少ない。
一方で、すでに多くの絵が描かれた場所でもある。
同じ景色を、何十人もの画家が描いている。
その中で自分の一枚を作るには、条件を選ぶしかない。
この画家が選んだのは、雨の日である。
晴れた湖なら、絵葉書と変わらない。
雨なら、その日その時間の絵になる。
沈む日
三点目は、色が濃い。

空だけの絵である。
紙の上半分に、雲の塊が描かれている。
紫、青、赤紫が重なり、下端が金色に光る。
その下に、水平線らしき線がある。
線の下は、ほとんど白い紙のままである。
つまり、地上は描かれていない。
空の色だけが記録されている。
空を、色だけで記録する
これは、明らかに記録のための絵である。
夕方の空の色は、数分で変わる。
形を描いている余裕はない。
だから、色の配置だけを素早く置く。
紫の上に赤、その下に金色。
順番と位置が分かれば、後で再現できる。
つまりこの紙は、色の見本帳に近い。
にもかかわらず、絵として見ても美しい。
記録が、そのまま作品になっている例である。
空だけを描く
空だけの絵は、風景画としては特異である。
地面がないので、遠近の手がかりが乏しい。
雲の大きさも、比べる対象がなければ分からない。
つまり、規模の感覚が失われる。
その結果、画面が抽象に近づく。
色の面の重なりとして見えてくる。
十九世紀には、雲だけを繰り返し描いた画家もいた。
当サイトでも
コンスタブルの空で、
その試みを扱った。
空の観察は、風景画にとって基礎の訓練でもある。
その訓練の一枚が、こうして残っている。
砂丘の絵
四点目は、地面が主題である。

手前に、砂丘が広がる。
黄褐色の砂が、うねりを作っている。
砂の上には、まばらに草が生えている。
草の色は、褐色がかった緑である。
その奥に、平らな土地が続く。
さらに奥に、青灰色の山並みが横たわる。
空は薄い水色で、白い雲が浮かぶ。
九点の中で、最も描き込みが多い一枚である。
描き込みの差
九点を比べると、描き込みの量に大きな差がある。
先ほどの空の絵は、数筆で終わっている。
この砂丘の絵は、草の一株ずつまで描かれている。
この差は、時間の差だろう。
夕焼けは待ってくれないが、砂丘は動かない。
腰を落ち着けて描けば、細部まで追える。
つまり、対象の性質が絵の密度を決めている。
同じ旅で、同じ大きさの紙に描かれていても、中身が違う。
草の描き方
砂丘の絵の草を、もう少し見ておきたい。
一株ずつが、細い線の束として描かれている。
線の向きは、株ごとにばらばらである。
そのため、風に揺れているように見える。
もしすべての線を同じ方向に引けば、整った草原になる。
向きを散らすと、乱雑で自然に見える。
自然を描くには、不規則さを意図的に作る必要がある。
これは、意外に難しい仕事である。
人の手は、放っておくと同じ動きを繰り返す。
規則的にならないよう、意識して手を動かすことになる。
砂の色
砂の色にも、細かい変化がある。
日の当たる斜面は明るい黄褐色。
影になる面は、灰色を帯びた褐色。
その境目は、はっきりした線ではない。
色が少しずつ移り変わっている。
水彩でこの移行を作るには、紙が乾く前に色を重ねる。
タイミングを外すと、境目に硬い線が出てしまう。
一発勝負の材料で、これを制御するのは技術が要る。
小さな紙だからこそ、乾く時間が短く、判断も速くなる。
線だけの城
五点目は、ほとんど鉛筆である。

城が描かれている。
石造りの塔が並び、壁が横に伸びる。
その形は、鉛筆の線で描かれている。
塔の窓、狭間、壁の継ぎ目。
細かい線が、丁寧に引かれている。
色は、ごく一部にしか置かれていない。
塔の上部に薄い灰色、下部に緑がわずかに入る。
手前の水面と船は、線だけである。
線と色を、分ける
なぜ、色を全部塗らないのか。
一つには、時間の問題だろう。
建築の形を正確に写すには、線が要る。
線を引くだけで、かなりの時間がかかる。
そのうえで色を塗る余裕がなかった。
もう一つ、必要がなかった可能性もある。
石造りの城の色は、灰色である。
わざわざ塗らなくても、記憶で補える。
つまり、記録として必要な情報だけを取っている。
版画家の目
ここで、この画家の本業を思い出したい。
彼は銅版画を作る人である。
銅版画は、線で描く技法である。
針で銅板に線を刻み、そこにインクを詰めて摺る。
色はない。線と、線の密度だけである。
そう考えると、この城の絵は版画の下準備に見える。
線で形を取り、明暗を確かめる。
色は、参考程度に付けておく。
版画家の水彩は、こういう性格になりやすい。
光る水面
六点目は、光の絵である。

水面が、画面の下半分を占めている。
その水面が、白く光っている。
紙の地色が、そのまま光になっている。
中央やや右に、小舟が一艘浮かぶ。
橙色の帆を上げている。画面で最も強い色である。
その左右に、細い杭が水面から突き出している。
上半分は空で、淡い水色と黄が混ざる。
遠くに、建物の影がかすかに見える。
紙の白を使う
水彩では、白い絵具をあまり使わない。
明るい部分は、紙の白を残して表す。
塗らないことが、描くことになる。
この一枚では、水面の光の部分が塗り残されている。
その周囲に淡い色を置くことで、白が光って見える。
つまり、光は最初から紙にある。
画家がすることは、光でない部分を塗ることだけである。
この考え方は、油彩とはまったく逆である。
油彩では、明るい部分に白い絵具を厚く置く。
材料が違えば、手順も逆になる。
遺跡の並び
七点目は、都市の記録である。

古代の遺跡である。
手前に、柱が数本立っている。
その根元に、崩れた石材が散らばる。
奥には、建物が並んでいる。
壁は黄褐色や桃色に塗られ、屋根が赤い。
さらに奥に、塔が立ち、鐘楼らしき形が見える。
空は淡い水色である。
線と色が、ほぼ均等に使われている。
古い都市を描く
十九世紀の画家にとって、ローマは必修の地だった。
古代の遺跡があり、その上に近世の建物が重なる。
一つの画面に、二千年が同居している。
この絵でも、崩れた柱と、いまも使われている建物が並ぶ。
当サイトでは
ユベール・ロベールの廃墟や
ギフォードのパルテノンでも、
遺跡を描いた作を扱った。
同じ場所を、時代ごとに違う画家が描いている。
橋の絵
八点目は、有名な橋である。

川に架かる橋である。
三つの弧を描くアーチが、水面の上に並ぶ。
橋の上には、建物が載っている。
窓が並び、壁が黄褐色や白に塗られている。
上部には、細い柱の並ぶ回廊のような構造が見える。
水面は淡い青で、橋の影が映る。
手前の岸には、細い線で建物が示されている。
線は精密で、色は薄い。
建築を写す
この一枚も、線が主役である。
窓の数、アーチの幅、屋根の高さ。
すべてが正確に取られている。
建築を描くとき、線の精度は情報の精度である。
一つでも窓の数を間違えれば、別の建物になる。
版画に起こすときにも、この線がそのまま生きる。
つまり、この水彩は下絵として機能する。
色は、後で参照するための覚え書きにすぎない。
街の全景
最後の一点である。

高い場所から、街を見おろしている。
画面の中央に、大きな丸屋根が見える。
その左に、四角い塔が立つ。
街全体は淡い色で、細部は簡略化されている。
奥には、青灰色の山並みが横たわる。
空は薄い青で、上部がやや濃い。
手前は白いまま残され、霞んでいる。
これも、記録としての水彩である。
九点を通して
九点を年代順に並べる。
1896年、1898年、1899年が三点、1900年が四点。
わずか四年間の記録である。
寸法は、縦8.7センチから14.8センチ。
横は、20.5センチから25.1センチ。
いずれも、手のひらに載る大きさである。
主題は、空、湖、砂丘、城、水面、遺跡、橋、街。
旅先で目にしたものが、そのまま並んでいる。
小さい記録の強さ
最後に、この九点をどう見るかを書いておきたい。
これらは、完成した作品として作られたものではない。
版画のための材料であり、旅の覚え書きである。
しかし、いま見ると、そのまま作品として通用する。
理由は、余計なものがないからだと思う。
必要な情報だけが、素早く置かれている。
空の色、水の光、石の線。
それ以上のことをしていない。
大きな絵を作るときには、そこに構成や物語が加わる。
その加算がないぶん、これらは軽く、澄んでいる。
手のひらに載る紙が、四年分の旅を運んでいる。
いま私たちが撮る写真も、同じ役割をしているのだろう。
見るときの注意
最後に、寸法について念を押しておきたい。
画面で拡大して見ると、これらは大きな絵に見える。
砂丘の草も、城の窓も、はっきり確認できる。
しかし、原品は横20センチ余りの紙である。
草の一株は、実際には数ミリしかない。
城の窓は、一ミリに満たない線である。
その細かさを、肉眼で描いている。
拡大した画像で見て「粗い」と感じたなら、それは誤りである。
原寸で見れば、驚くほど緻密なはずだ。
当サイトが寸法を必ず記すのは、この誤解を避けるためでもある。
数字を一度読んでから、もう一度図版を見てほしい。
同じ絵が、違って見えるはずである。
手のひらの上の四年間は、思ったよりずっと密度が高い。
小さい紙ほど、目を近づける必要がある。



