海の底に線を敷く——ロバート・チャールズ・ダドリーの大西洋横断ケーブル
写真がすでにあった1866年、大西洋海底電信の事業は画家を船に乗せた。陸揚げ、接続、失われた線の探索、返信を待つ夜。六点の油彩は成功だけを描かない。事業の当事者が生涯の終わりに公共の館へ託した記録画を読む。

岸へ、綱を引き上げる
一枚の絵から始めたい。

海辺である。右手前から左奥へ、岩がちの浜が伸びる。
その浜に、人が並んでいる。数十人はいる。
みな同じ方向を向き、同じものを持っている。
一本の綱である。海のほうから伸びてきて、人の列を通って陸へ上がる。
綱は太い。両手で抱えるほどの太さに描かれている。
人々は肩に担ぎ、腰を落とし、足を踏んばっている。
水際の何人かは、膝まで海に入っている。
沖に目をやると、船が浮かんでいる。帆柱が三本、細く立つ。
空は明るい。雲は薄く、日は高い。おだやかな昼である。
岩肌は褐色に、海は淡い青緑に塗られている。
絵として見れば、静かな海景画に近い。荒天でも戦闘でもない。
しかしここで起きているのは、単なる荷揚げではない。
この綱の中身は、電線である。
そしてこの電線は、海の底を通って、大西洋の反対側までつながっている。
記録として描かれた絵
メトロポリタン美術館の記録によれば、作者はロバート・チャールズ・ダドリー。
制作は1866年。油彩・画布。縦57.2センチ、横83.8センチ。
同館には、同じ主題の絵が全部で六点ある。寸法もほぼそろっている。
そして六点すべてが、同じ人物からの寄贈である。
記録に載るクレジットは「サイラス・W・フィールドの寄贈、1892年」。
フィールドは、この海底電信事業を推し進めた実業家である。
つまり事業の当事者が絵を持ち、後年、美術館へ渡した。
ここで一つ、問いが立つ。
なぜ絵なのか。
1866年といえば、写真はすでに広く使われている。
肖像写真の館は各都市にあり、戦場の写真も撮られていた。
事業の記録なら、写真のほうが速く、安く、争いにくいはずである。
それでもフィールドは、画家を船に乗せた。
理由を、絵の側から考えてみたい。
写真にできなかったこと
当時の写真には、はっきりした制約があった。
露光に時間がかかる。動くものは写らない。
揺れる船の上では、なおさら難しい。
夜も撮れない。曇天の海も苦しい。
一方、この六点が描いているのは、まさに動きと天候である。
綱を担ぐ人の腰、波、雲、灯りの反射。
どれも、当時の写真が最も苦手とする対象だった。
もう一つ、絵にしかできないことがある。
全体を一枚に収める、という仕事である。
大西洋の海底電信は、三千キロを超える長さの事業だった。
現場は船上と海底と両岸に散らばり、期間は年をまたぐ。
写真は、その断片しか写せない。
絵なら、要点を選び、構図に組み立て、一枚の場面にできる。
言いかえれば、これらは記録であると同時に、要約である。
記録画がどこまで記録たりうるかは、当サイトでも
カトリンの例で一度考えた。
ダドリーの六点は、その問いの別の形だと言ってよい。

甲板の上である。
手前に人が群れている。屈み、覗きこみ、腕を伸ばしている。
その中心に、作業されている一点がある。
二本のケーブルを、つなぐ作業である。
浅い海に敷く太い線と、深海用の細い線をつなぐ工程だ。
上を見ると、帆柱と索具が高く伸びる。画面の上半分は、ほぼ索具で埋まっている。
人物は小さく、装置は大きい。
主役は人ではなく、作業そのものだと分かる描き方である。
なお、当サイトが提供元から取得できたこの画像は白黒である。
原品は油彩と記録されているので、実物には色がある。
以下、白黒の図版については、その旨をそのつど記す。
綱の中身
ここで、担がれている綱の中身を確かめておきたい。
海底電信のケーブルは、何層かの構造をしている。
いちばん内側に、細い銅の線が通る。信号が走るのはここだけである。
その周りを、ゴムに似た樹脂が包む。ガタパーチャと呼ばれる材料である。
樹脂は水を通さない。海水から銅を守る役目を負う。
さらに外側に、麻や鉄の線を巻きつける。
これは強度のための層だ。船から繰り出すとき、線は自重で切れかねない。
数千メートル下へ垂れる線は、それ自体が重い。
だから外側を鎧のように固める。
浅い海に敷く部分は、さらに太くする。
錨や漁具に引っかかる危険が高いからである。
一枚目の絵で人々が担いでいるのは、この太いほうだ。
深海用の線なら、腕で抱えるほどの太さにはならない。
つまり画面の綱の太さは、場所を語っている。
浜であること、これが陸に近い区間であることを示している。
先ほどの《接続》の絵は、太い線と細い線を継ぐ場面だった。
二枚を並べると、工程の順序が見えてくる。
画家は、どこにいたか
作者のダドリーについても、分かる範囲を書いておく。
イギリスの画家で、水彩と挿絵を手がけた人物として記録されている。
生没年は1826年から1909年とされる。
海底電信の事業には、記録係に近い立場で関わった。
同時代の刊行物に、彼の図版が用いられている。
つまり彼は、船に同乗した目撃者である。
この点は、絵の見え方を左右する。
想像で構成した歴史画とは、成り立ちが違う。
甲板の索具の描き方、装置の置かれ方、人の集まり方。
いずれも、その場を見た者の描写に見える。
もっとも、見たものだけを描いたとも限らない。
構図は整えられ、光は演出されている。
現場を知る人が、絵として組み直したもの。
そう受け取るのが、いちばん近いだろう。
一度目は、切れた
この事業には、前史がある。
大西洋を電信で結ぶ試みは、1850年代から続いていた。
1858年には一度つながり、両岸で祝賀があった。
しかしその線は、数週間で使えなくなった。
信号が弱まり、やがて途絶えたと伝えられる。
原因については当時から議論があり、いまも一つに定まってはいない。
絶縁の劣化とも、送電の扱い方とも言われる。
いずれにせよ、事業は振り出しに戻った。
再挑戦は、南北戦争をはさんで持ち越された。
そして1865年、事業は巨大な船を投入する。
グレート・イースタン号である。当時、世界最大の船だった。
もともとは旅客船として造られ、商業的には成功しなかった船である。
その巨体が、ここで初めて用途を得た。
甲板ではなく船倉にケーブルを積み、繰り出しながら西へ進む。
数千キロの線を一隻で運べる船は、ほかになかった。
だがこの年、ケーブルは途中で切れた。
海の底へ落ちた線を、船は探しにかかる。

夜である。月が雲間に出ている。
海は荒い。白い波頭が、画面の下半分で砕けている。
船は横向きに、波に耐えている。
甲板からは、太い索が海へ下りている。
先端には、鉤が付いている。海底を引っかけて探る道具である。
深さは数千メートルある。目では何も見えない。
手ごたえだけを頼りに、細い線を探す。
絵の題は《失われたケーブルの探索》。
失敗の場面である。にもかかわらず、絵になっている。
ここが、この六点の面白いところだと思う。
成功だけを描かない
事業の記録画といえば、ふつうは成功を描く。
祝典、握手、開通、旗。
ところがこの連作には、切れた線を探す夜が入っている。
しかも荒天で、月明かりで、成果は画面に写っていない。
この一枚を注文の側が受け取り、手元に置き、最後は美術館へ渡した。
そのこと自体が、事業の自己認識をよく表しているように見える。
つまり彼らは、この事業を「一発で成った偉業」とは考えていない。
失敗を含めて長い工程だった、という理解である。
もちろんこれは、絵の並びから読める推測にとどまる。
注文者の意図を直接に記した資料を、当方は確認していない。
ただ、六点の主題の選び方には、明らかな幅がある。
陸揚げ、接続、探索、待機、帰路、上陸。
祝典の場面は、この六点には含まれていない。

船内である。天井は低く、梁が渡っている。
人が十数人、狭い部屋に詰めている。
みな立ったまま、一点を見ている。
机の上に、装置がある。灯りがその手元だけを照らす。
顔は暗い。表情は、ほとんど読めない。
床には、太いケーブルがとぐろを巻いている。
壁ぎわには器具が置かれ、右手には黒衣の人物が立つ。
題は《返信を待つ》。
海の向こうから信号が返るかどうかを、待っている場面である。
この絵に描かれているのは、動作ではなく待機だ。
事業の山場が、これほど地味な絵になっている。
暗い室内に灯りを一点だけ置く構図は、当時よく使われた型である。
ダドリーはその型を、電信室に持ちこんだことになる。
何を待っていたのか
待っていたのは、単なる合図ではない。
海底の線が生きているかどうかの確認である。
線の途中で絶縁が破れれば、信号は海へ逃げる。
送っても返らない。返らなければ、どこで壊れたかを推し量るしかない。
当時の技術者は、返ってくる信号の弱さから、故障の位置を計算した。
つまりこの部屋では、数字が読まれていたことになる。
絵の中の人々が見つめているのは、その数字だ。
そう思って見直すと、この画面の緊張が分かる。
彼らは結果を待っているのではない。
事業が生きているか死んでいるかを、測っている。
深海で、糸を釣る
前年に切れた線を探す作業についても、少し書いておきたい。
海の深さは、場所によって数千メートルに達する。
そこへ鉤の付いた索を下ろし、海底を横に引く。
線に引っかかれば、手ごたえが返る。
引き上げる途中で、また切れることもある。
記録によれば、この探索は何度も繰り返された。
一度の作業に、何日もかかっている。
《失われたケーブルの探索》の画面が夜なのは、そのためでもあるだろう。
作業は昼で終わらない。天候が許すかぎり続けられる。
海は荒く、船は流される。位置を保つだけで一仕事である。
絵は、その徒労に近い時間を選んで描いている。
そこにダドリーの判断がある、と当方は考える。
見どころのない工程を、あえて一枚に使ったのだから。
誰が船に乗っていたか
この事業に関わった人の数も、絵から推し量れる。
甲板の場面には、数十人が描かれている。
浜の場面には、それ以上がいる。
技師、船員、荷役、そして地元の住民。
線を敷くというのは、技術であると同時に労働だった。
絵の中の人々の多くは、名前が残っていない。
記録に名が残るのは、出資者と技師の側である。
このずれは、事業の記録画にほぼ必ずついてまわる。
ダドリーの絵も、そこは同じだ。
ただし彼は、労働の側をきちんと画面に置いた。
浜の一枚では、綱を担ぐ人々が主役の位置にいる。
出資者も技師も、その画面には見当たらない。
二度目は、つながった
1866年、事業は再びグレート・イースタン号で西へ向かう。
この年の線は、切れずに大西洋を渡った。
上陸地はニューファンドランド島。北米の東の端である。
さらにこの年、前年に切れた線も引き上げられ、つなぎ直された。
結果として、大西洋には二本の線が通ったことになる。

入り江である。左手に桟橋が組まれ、手前に群衆がいる。
沖には船が並ぶ。帆柱が林立している。
小舟が何艘も、岸と船のあいだを行き来する。
光は正面から来ている。逆光の海が白く光る。
人物は影として描かれ、顔は判別できない。
祝典というより、人だかりである。
そして先ほどの一枚目、《陸揚げ》につながる。
浜で綱を担いでいた人々は、この上陸の続きにいる。
六点は、そうやって互いに手をつないでいる。

六点のうち、これだけが大きい。
縦113.7センチ、横170.8センチ。他の五点のおよそ四倍の面積である。
画面には船が並ぶ。中央のひときわ大きい船体が、グレート・イースタン号だろう。
海は穏やかで、空は明るい。小舟が周囲に散っている。
寸法が示すのは、序列である。
この主題だけは、大きく飾ることが前提だったと考えられる。
ただし寸法の差が注文時の指定によるのかどうかは、当方では確認できていない。
一枚ごとの役割
六点を、工程の順に並べ直してみる。
接続、航海と事故、探索、待機、上陸、陸揚げ、そして帰路。
一枚ずつが、工程の一段に対応している。
風景画としての面白さより、工程の網羅が優先されている。
言いかえれば、これは事業報告書の図版に近い。
実際ダドリーは、この事業の記録出版に図版を提供した画家として知られる。
同時代の記録によれば、彼の下絵は多色石版に起こされ、事業の刊行物に用いられた。
つまり油彩の六点は、複製されて広まる図像の、もとの側にある。
そう考えると、白黒でしか見られない現状は、少し皮肉である。
もともと複製で広まった絵が、いま複製の側で色を失っている。
同じことは、当サイトが扱う多くの版画や工芸にも起きている。
アクセッション番号の読み方で触れたとおり、
記録は残っても、色や質感は取りこぼされやすい。
六点は、どこから来たか
最後に、この六点の来し方を確認しておきたい。
メトロポリタン美術館の記録では、六点とも1892年にフィールドから寄贈されている。
フィールドはこの年に没している。
事業の当事者が、生涯の終わりに、記録画を公共の館へ移した。
家に飾る絵でも、売る絵でもなく、残す絵として扱ったことになる。
寄贈の年が没年と重なるのは、偶然ではないだろう。
自分の手を離れたあとも、六点が散らばらないようにしたかった。
そう読むのが自然に思える。
実際、六点はいまも同じ館にそろっている。
線が通ったあと
線が通ったあと、何が変わったのか。
いちばん大きいのは、時間である。
それまで、大西洋を越える知らせは船で運ばれていた。
片道に十日前後かかる。往復すれば三週間近い。
電信が通ると、これが数時間から一日に縮んだ。
報せの伝わり方が変わり、価格の伝わり方も変わった。
もっとも、当初の料金は非常に高かった。
短い一文を送るだけで、当時の労働者の月収に届くほどだったと伝えられる。
つまり最初のうち、この線は誰のものでもなかった。
政府と、大きな商社と、報道機関のための線である。
一般の人が使えるようになるのは、料金が下がってからだ。
このあたりは、鉄道や郵便が広まった道筋と似ている。
新しい網は、まず高価な特権として始まる。
そのあとで、安くなり、当たり前になる。
絵の中の群衆は、その最初の段階に立ち会っている。
彼ら自身が電報を打つ日は、まだ来ていない。
大きな一枚が言うこと
《帰路につくグレート・イースタン号》に戻る。
なぜ、帰り道がいちばん大きいのだろうか。
一つの読みは、船そのものが主題だから、というものだ。
この事業は、船なしには成立しなかった。
数千キロの線を積める船が、世界に一隻しかなかったのである。
商業的に失敗した巨船が、ここで役に立った。
その船を大きく描くのは、事業の側から見れば自然だろう。
もう一つの読みもある。
帰路は、事業が終わったことを意味する。
出発でも到着でもなく、終わりを大きく描く。
連作の締めくくりとして、据わりがよい。
どちらの読みが正しいかを、当方は決めない。
決めるには、注文時の記録が要る。
ただ、この一枚が「最後に置かれる絵」の顔をしていることは確かだ。
海は穏やかで、事は済んでいる。
事業が、絵を残す
このやり方は、いまも珍しくない。
大きな事業のたびに、写真が撮られ、映像が作られ、記録が残される。
ただ、そこで残されるのはたいてい完成の瞬間だ。
切れた線を夜通し探す場面を、わざわざ絵にして持ち続ける例は、そう多くない。
六点を通して見ると、事業の輪郭がかえってよく見える。
海の底に線を敷くというのは、要するに、失敗を数えながら進む作業だった。
その数えかたが、そのまま絵の主題になっている。
いま私たちが使う通信網も、最初の一本はこの綱である。
浜で数十人が担いでいた、あの一本の綱だ。
海の底の線は、そのあと百五十年をかけて増え続けた。
いま海底には、無数の光ファイバーが走っている。
そのほとんどは、地図にも記されない。
壊れたときだけ、修理船が出て、引き上げて、つなぎ直す。
工程は、この絵の時代とほとんど変わっていない。
鉤を下ろし、手ごたえを探り、甲板でつなぐ。
百五十年たっても、海の底の線はそうやって直されている。
絵の中の人々は、その最初の一日を担いでいる。
浜に並んだ数十人の肩が、いまの網の始まりである。


