Open Access が配ったのは、画像ではなく確実性だった
誰が費用を払っているのか
無償で配られている画像にも、作るための費用はかかっている。この点も見ておきたい。
作品を一点撮影するには、専門の撮影者、照明、色管理、そして作品の移動が必要になる。データの保存と配信にも費用が続く。
数十万点となれば、何年もかかる事業である。実際、公開に踏み切った館の多くは、その前に長い期間をかけて撮影を進めてきた。
この費用は、館の予算や寄付、財団の助成でまかなわれている。つまり誰かが先に払っている。
利用する側は、そのことを忘れないほうがよい。自由に使えることと、ただで湧いてくることは違う。
当サイトが出典を必ず明記しているのは、義務だからではない。CC0 は表示を求めていないが、それでも書く。
どこの館が公開したのかを示すことは、その費用を負担した側への最低限の礼儀だと考えている。
そして館にとっても、名前が出ることには意味がある。使われていることが見えれば、次の予算を取る理由になる。
何を記録しているのか
具体的に何を残しているのかも、書いておきたい。透明にしておくべき部分だと考えている。
作品を一点取り込むたびに、当サイトは次のものを保存している。
- 提供元の名称と、その作品ページの URL
- 提供元が返した権利表示の文言(そのままの形で)
- 確認した日付
- 取得した画像の種類と寸法
大事なのは二番目である。「CC0 だった」という要約ではなく、相手が出した表記そのものを残す。
要約してしまうと、後から検証できなくなる。表記が変わったときにも、いつの時点の記録かが分からなくなる。
そして三番目の日付も外せない。権利の状態は変わりうるからだ。
実際、館が方針を変更したり、特定の作品を公開対象から外したりすることはある。そのとき必要になるのは、「いつの時点で、どう表示されていたか」という記録である。
面倒に見えるかもしれないが、これは信用の話である。館が引き受けた確実性を、そのまま次へ渡すために必要な手続きだと考えている。
札の種類を見分ける
利用条件の表示にはいくつか種類がある。混同されやすいので、整理しておきたい。
まず CC0 である。権利を可能なかぎり放棄する、という宣言。表示義務もなく、事実上いちばん自由な札である。
次に CC BY。使ってよいが、出典を表示すること、という条件がつく。館の名前を出す必要がある。
そして「パブリックドメイン・マーク」。これは宣言ではなく、既に権利が切れている状態を示す表示である。
似ているようで性格が違う。CC0 は「権利があるかもしれないが放棄する」、パブリックドメイン・マークは「もともと権利がない」という主張になる。
利用者から見れば、どちらも自由に使える。ただし、後者は各国の法解釈しだいで揺れる余地が残る。
前の節で書いたとおり、法解釈は国ごとに割れている。館があえて CC0 を選ぶのは、その揺れを引き受ける表明でもある。
札の文言を読む習慣は、身につけておいて損がない。二行の違いが、使える範囲を大きく変える。
次の論点は、画像の質になる
権利の話が片づくと、次に問題になるのは画像そのものの質である。ここはまだ発展途上に見える。
同じ CC0 でも、館によって公開される画像の大きさはまったく違う。長辺で数千ピクセルの館もあれば、千ピクセル台の館もある。
色の正確さも館ごとに差がある。撮影時の照明や色管理の方針が違うためで、同じ作品の画像が別々の館から出てくれば、色が一致しないこともありうる。
見比べる立場からすると、これは意外に効く。前のコラムで「三枚の《寝室》の褪せ方は違う」と書いたが、画像の色が違えば、その比較すら怪しくなる。
この点で参考になるのが、画像の配信方式を揃える取り組みである。国際的な規格に沿って画像を公開すれば、拡大や切り出しを同じ手順で扱える。
権利の次は品質、その次はおそらく相互運用性。Open Access の議論は、そういう順で成熟していくのだろう。
当サイトでも、いまは配信用の画像を保存しているが、原本の高解像度データをどう扱うかは今後の課題である。