同じ像が、何度も生まれる——フレデリック・レミントン
同じ題の像が三つある。1899年鋳造、1910年鋳造、そして作者の没後1918年の鋳造。彫刻は複製できる。絵とは決定的に違うその性質を、レミントンの九点から考える。作られた時と、この個体が生まれた時は違う。複製できることは、力でもある。

同じ像が、三つある
まず、三つのブロンズを並べて見たい。
どれも同じ題である。そして、どれも同じ原型から生まれている。

馬が後肢で立ち上がっている。
前肢は宙にあり、首を大きくねじっている。
その背に、男が乗っている。
片手で手綱をつかみ、もう一方の手を高く上げている。
上げた手には、鞭のようなものを握る。
体は反り返り、脚は鐙を蹴っている。
台座は楕円形で、地面が波打つように造形されている。
高さ60センチ。台に載せて飾る大きさである。
家の玄関や書斎に置くことを想定した寸法だろう。
公共の広場に立てる記念像とは、はっきり性格が違う。
二つ目

同じ構図である。跳ね上がる馬と、しがみつく男。
しかし、寸法が違う。高さ81.9センチ。
先ほどの像より、二十センチ以上高い。
そして、細部も違う。
馬のたてがみの流れ方、男の外套の襞。
記録によれば、1909年に原型が改訂されている。
つまり、同じ主題を作り直したうえで鋳造されている。
三つ目

三つ目である。高さ57.8センチ。
最初の像とほぼ同じ大きさに戻っている。
そして鋳造は1918年。作者の没後である。
記録によれば、レミントンは1909年に没している。
つまりこの像は、本人が見ていない。
三つを並べる意味
なぜ、同じ題の像を三つも取り上げるのか。
一つには、比較ができるからである。
同じ原型から出た像が、どう違うかを確かめられる。
もう一つは、彫刻という媒体の性格を示すためである。
絵なら、同じ作品が三つ並ぶことはまずない。
彫刻では、それが普通に起きる。
美術館の収蔵品を検索すると、同じ題の像が各地に散らばっている。
どれも本物であり、どれも唯一ではない。
この状態を、どう受け止めるか。
九点のうち三点をこの主題に充てたのは、その問いのためである。
主題そのもの
像の内容についても書いておきたい。
題にある語は、荒馬を乗りこなす者を指す。
馬を調教する作業であり、同時に見世物でもあった。
十九世紀末には、こうした技を見せる興行が各地を回っていた。
つまりこの像は、労働の記録であると同時に、芸の記録でもある。
跳ね上がる馬と、しがみつく人。
その一瞬が、繰り返し複製されて広まった。
鋳造という技術
ここで、ブロンズの作り方を確認しておきたい。
まず、粘土や蝋で原型を作る。
その原型から、型を取る。
型に溶かした青銅を流し込み、冷やして取り出す。
型が壊れなければ、同じ像を何度でも作れる。
つまり、彫刻は複製できる。
絵画とは、ここが決定的に違う。
一点しかない絵と、何十点も作れる像。
同じ「作品」という言葉でも、性質がまったく違う。
いくつまで作るのか
では、いくつ作るのが正しいのか。
これは、いまも議論のある問題である。
作者が生きているあいだは、本人が数を決められる。
没後は、遺族や権利者の判断になる。
この《ブロンコ・バスター》も、多数が鋳造されたと伝えられる。
生前の鋳造と、没後の鋳造が混在している。
美術館の記録が、原型の年と鋳造の年を分けて書くのは、そのためである。
「1895年、1918年鋳造」という表記には、意味がある。
作られた時と、この個体が生まれた時が違う。
当サイトでも、この表記をそのまま採用している。
蝋型と砂型
鋳造の方法にも、いくつか種類がある。
一つは、蝋で作った原型を型の中で溶かし出す方法である。
細かい造形が写せるので、複雑な形に向いている。
もう一つは、砂を固めて型を作る方法である。
作業が速く、費用が安い。ただし細部の再現は劣る。
同じ原型でも、どちらで鋳るかで仕上がりが変わる。
十九世紀末のアメリカでは、両方の工房が営業していた。
作者がどこに発注したかで、像の質が違ってくる。
つまり、彫刻には作者以外の手が必ず入る。
鋳造所の職人の腕が、そのまま作品の質になる。
これは、版画で摺師の腕が問われるのと同じ構造である。
当サイトでも
歌川豊春の記事で、
版画の分業について触れた。
台座の造形
三つの像の台座にも、目を向けたい。
いずれも、単なる平らな板ではない。
地面の起伏が造形され、草や石が表されている。
台座は、像を立たせるための構造物である。
同時に、場面の一部でもある。
起伏があることで、馬が「地面の上」にいることが分かる。
平らな台に載せると、標本のように見えてしまう。
小さな部分だが、印象を大きく左右する。
三つの違いを見る
三つの像を、もう一度比べてみたい。
まず、大きさが違う。60センチ、81.9センチ、57.8センチ。
次に、表面の色が違う。
一つ目は褐色を帯び、二つ目は黒に近く、三つ目は灰色がかっている。
これは、古色の付け方による違いである。
鋳造したままの青銅は、明るい金色をしている。
そこに薬品や熱を加え、表面を変色させる。
その処理で、褐色にも黒にも緑にもできる。
つまり、同じ型でも仕上げで印象が変わる。
誰の判断か
古色の付け方は、誰が決めるのか。
作者が指示することもあれば、鋳造所が決めることもある。
没後の鋳造なら、当然、作者の意思は入らない。
そう考えると、三つの像は「同じ作品」と言えるのだろうか。
原型は同じである。しかし、寸法も表面も違う。
しかも一つは、作者の没後に作られている。
当方には、この問いに答える資格がない。
美術館の記録が三点とも同じ作者名で登録している以上、
当サイトもそれに従って扱っている。
ただし、鋳造年の違いは必ず明記することにしている。
動きを、止める
三つの像に共通する構図についても書いておきたい。
馬が後肢で立ち、前肢が宙にある。
この姿勢は、一瞬しか続かない。
次の瞬間には、前肢が地面に降りるか、馬が倒れる。
つまり、彫刻としては不安定な形である。
物理的にも難しい。後肢二本だけで全体を支えることになる。
そのため、尾を台座に接続して支えとする工夫が見られる。
この解決は、馬の彫刻で古くから使われてきた。
止まらない動きを、止まった形にする。
その矛盾を解くのが、この種の彫刻の技術である。
群像のブロンズ
四点目は、人物が増える。

馬が二頭、並んで走っている。
その背に、それぞれ人が乗る。
右の人物は、体を左へ倒し、落ちかけている。
左の人物が、その体を腕で支えている。
二頭の馬は脚を伸ばし、全速力で駆けている。
台座には、地面の起伏が造形されている。
つまり、走りながら仲間を支える場面である。
題にある「相棒」は、負傷した同僚を指す。
二頭を並べる難しさ
馬二頭を並べた群像は、技術的に難しい。
まず、脚の数が八本になる。
その配置を間違えると、走っているように見えない。
次に、支えの問題がある。
宙に浮いた脚が多いほど、構造が弱くなる。
この像では、四本の脚が地面に接している。
残りは宙にあるが、二頭が寄り添うことで互いを支えている。
構図と構造が、同時に解決されている。
記録としての彫刻
ここで、この画家の立場について書いておきたい。
フレデリック・レミントンは、1861年に生まれ、1909年に没した。
はじめは雑誌の挿絵画家として仕事をしたと伝えられる。
アメリカ西部の光景を描き、それが広く印刷された。
つまり彼の絵は、複製されて全国に届いた。
のちに彫刻を手がけ、そちらでも成功した。
彫刻もまた、複製できる媒体である。
挿絵と彫刻。彼の仕事は、どちらも複製を前提としている。
誰が、何を見せたか
同時に、注意すべきこともある。
彼が描いた西部は、実際の西部そのものではない。
すでに変化しつつある土地を、ある型に沿って描いている。
騎兵、カウボーイ、先住民の戦士。
いずれも、東部の読者が「西部」と聞いて思い浮かべる像である。
その像を作ったのが、こうした挿絵と彫刻でもあった。
当サイトでは
記録としての絵の限界で、
同じ問題を扱っている。
見せる側の枠組みは、必ず絵に入り込む。
西部が、終わったあとで
もう一つ、時期の問題もある。
彼が活動したのは、十九世紀の末から二十世紀の初めである。
その時期、いわゆる西部の開拓は、すでに終わりに近づいていた。
鉄道が通り、町ができ、境界の線は消えつつあった。
つまり彼が描いたのは、過ぎ去りつつある光景である。
現在の記録ではなく、失われる直前の記憶に近い。
そういう主題は、いつの時代でもよく売れる。
失われるものへの郷愁は、強い需要を生む。
九点の主題が、騎兵とカウボーイと戦士に集中しているのも、
その需要と無関係ではないだろう。
馬という主題
九点のうち、馬が出てこないものは一点もない。
騎兵の隊列、跳ねる馬、走る二頭、混戦の四頭。
そして舟の絵にすら、馬はいないが動きがある。
馬は、動きを描くのに最も適した主題である。
四本の脚の配置で、速度も歩様も表せる。
十九世紀後半には、走る馬の連続写真も公開された。
それによって、画家たちは馬の脚の実際の動きを知った。
当サイトでも
ドガの動きで、
その影響に触れている。
レミントンの馬の脚も、その知識の後にある。
先住民を主題とした一点
五点目については、慎重に書きたい。

馬が、前へ大きく跳んでいる。
四本の脚がすべて宙にある。
その背に、人が低く伏せて乗っている。
片手に槍のような長い棒を持ち、前方へ突き出す。
髪が後ろへなびき、衣が風に流れている。
馬の尾も、まっすぐ後ろへ伸びる。
台座は細長く、地面がわずかに造形されている。
題にある名は、北米の先住民の一つの集団を指す。
描かれる側の不在
この像について、書いておくべきことがある。
作者は、東部出身の白人の彫刻家である。
買い手も、多くは東部の裕福な層だった。
描かれている人物は、名前を持たない。
「シャイアンの騎手」として、集団の代表のように扱われている。
先ほどの《傷ついた相棒》では、兵士も名を持たない。
しかしそちらは、見る側と同じ立場の人物である。
こちらは、見る側とは別の集団の人物である。
その非対称は、意識しておいたほうがよい。
造形としての評価
そのうえで、造形について書きたい。
四本の脚をすべて宙に浮かせる構成は、大胆である。
支えは、馬の腹の下に付けられた台座の突起だけである。
前へ伸びる槍と、後ろへなびく尾が、水平の線を作る。
その線に、馬の胴が乗っている。
つまり、水平方向の運動が強く出る。
先ほどの《ブロンコ・バスター》は、垂直の運動だった。
同じ作者が、正反対の方向を扱っている。
大きな群像
六点目は、九点で最も複雑である。

幅119.4センチ。九点で最も大きい。
馬が四頭ほど、密集して描かれている。
その背に、人物が乗っている。
一部は落馬しかけ、体が傾いている。
腕が振り上げられ、武器らしきものが交差する。
馬の脚と首が、複雑に絡み合っている。
台座は横長で、地面の起伏が造形されている。
つまり、戦闘の場面である。
混戦を、彫刻にする
混戦の場面を彫刻にするのは、非常に難しい。
人と馬が重なり、どこに何があるか分からなくなる。
しかも、支えの問題がある。
重なった部分は、内側が見えない。
そこに構造の支柱を隠すことができる。
この像でも、馬の脚と胴が互いに支え合っている。
複雑さが、そのまま強度になっている。
見る角度によって、まったく違う像に見えるはずである。
彫刻は、絵と違って一方向から見るものではない。
挿絵としての油彩
七点目からは、絵に移る。

この一枚は、ほとんど白黒で描かれている。
灰色と黒と白だけの画面である。
暗い水面に、細長い舟が浮かんでいる。
舟には三人が乗り、櫂を手にしている。
背景には、岩と樹木が黒い塊として見える。
水面には、舟と人物の影が映る。
光は上から差し、舟の縁を白く照らしている。
なぜ白黒で描くのか
理由は、印刷にある。
当時の雑誌は、白黒で印刷されていた。
原画に色があっても、印刷では灰色に変換される。
その変換で、色の関係が崩れることがある。
赤と緑は、白黒にすると同じ灰色になってしまう。
そこで、最初から灰色の階調だけで描く。
そうすれば、印刷結果を作者が制御できる。
つまりこの絵は、複製されることを前提に作られている。
原画の色を捨てて、印刷の見え方を優先している。
印刷のための絵
こうした絵を、当時は挿絵と呼んだ。
美術品としてではなく、記事の付属物として扱われた。
しかし、原画は油彩で、寸法もそれなりに大きい。
技術的には、通常の絵画と変わらない。
違うのは、目的地である。
壁ではなく、雑誌の紙面が行き先だった。
当サイトでも
ドーミエの油彩で、
印刷の仕事と絵の仕事の関係を扱った。
複製を前提とする絵は、十九世紀に大量に作られた。
色のある西部
八点目と九点目は、色がある。

明るい画面である。地面は淡い橙色をしている。
乾いた土と岩の土地である。
手前に、馬に乗った人物がいる。青い上着を着ている。
その馬は、頭を下げて立ち止まっている。
奥に、別の騎手が数名見える。
さらに岩陰に、別の人物の姿がある。
空は薄い青で、遠くに山が連なる。
影が地面に長く落ちている。

横長の画面である。
騎馬の列が、こちらへ向かって進んでくる。
先頭の数騎は大きく、後ろへ行くほど小さい。
いずれも青い上着を着ている。
地面は黄褐色で、草がまばらに生えている。
手前には、犬らしき動物が一匹いる。
空は淡く、地平線が低い。
土埃が、隊列の後ろに立ちのぼっている。
影の色
この二点で目を引くのは、影の色である。
地面に落ちた影が、青や紫で塗られている。
灰色や黒ではない。
乾いた土地では、影に空の色が回り込む。
その現象を、色で表している。
これは、同時代のフランスの絵の方法と共通する。
彼がそれをどこで学んだかは、当方には分からない。
ただ、挿絵の仕事だけをしていた人の色ではない。
晩年の色
記録によれば、彼は晩年になるほど色に関心を向けたとされる。
初期の挿絵は、印刷を前提に灰色で描かれていた。
そこから、色のある絵へ移っていく。
1907年の《南部平原にて》は、その後期にあたる。
黄褐色の地面、青い上着、紫がかった影。
色数は多くないが、関係が丁寧に組まれている。
土埃の描き方も、灰色ではなく淡い黄で表されている。
複製のための絵から、見せるための絵へ。
その移行が、九点の中に含まれている。
九点を通して
九点を年代順に並べる。
1889年、1890年、1895年原型が三点、1896年原型、1901年原型。
そして1905年原型、1907年。
制作は二十年ほどの幅に収まる。
しかし、鋳造の年は1899年から1939年より前まで広がっている。
つまり、作品が生まれた時期と、この個体が生まれた時期は違う。
彫刻を扱うときは、この二つを分けて考える必要がある。
複製される西部
最後に、複製ということについて書きたい。
挿絵は印刷され、何十万部と刷られた。
ブロンズは鋳造され、何十点と作られた。
どちらも、一点物ではない。
そして、その複製を通じて「西部」の像が広まった。
実際の土地よりも、この像のほうが強く記憶された面がある。
いま私たちが思い浮かべるカウボーイの姿も、
その系譜のどこかにつながっている。
九点を見るとき、その影響力も一緒に考えたい。
複製できることは、力である。
同じ像が三つ並んでいる事実は、そのことを静かに示している。



