ドガはなぜ、踊っていない踊り子ばかり描いたのか——動きを描く方法
階段に脚だけが見える構図から始めて、稽古場・競馬場・洗濯屋をたどる。写真が動きを止めた1878年の事件をはさみ、動作の頂点ではなく途中を選び続けた画家の方法を読む。

階段に、脚だけがある
一枚の絵の、左上の隅から始めたい。

エドガー・ドガ《ダンス教室》。1873年ごろの作である。
板張りの広い部屋に、十数人の踊り子がいる。奥では手を上げて練習し、手前では休み、右端の一人は背中を掻いている。
床には脱いだ靴が転がり、腰掛けの上にも一足置かれている。壁には鏡、右奥には別の部屋が見える。
そして左上、螺旋階段の途中に、脚だけが二本ある。降りてくる誰かの下半身である。
顔も上半身も、画面の外にある。私たちには、その人が誰かも、どんな表情かも分からない。
この処理が、この絵の性格を決めている。全体を整えて見せるのではなく、視界に入ったものだけを写した、という体裁を取っている。
枠が対象を切る構図については、浮世絵の記事で書いた。ドガはその方法を最も早く自分のものにした画家のひとりである。
ここでは、切ることが「その場に居合わせた感じ」を作っている。整えられていないことが、リアリティになっている。
素描から入った画家
この構図の切れ味を見ると、革新的な画家を想像したくなる。だが彼の出発点は、むしろ保守の側にあった。
1834年、パリの銀行家の家に生まれている。経済的な不安のない家庭で、法学を学びかけてから絵に転じた。
美術学校で学び、イタリアへ渡って古い絵を模写した。若い頃の関心は歴史画にあり、当時の正統な道を歩いている。
強い影響を受けたのは、前の世代の画家アングルだった。線による構築を重んじる立場である。
若いドガに「線を引きなさい、たくさん引きなさい」と助言した、という話が伝わっている。真偽は別として、彼の仕事はその通りになった。
生涯にわたって素描を描き続け、線で形を決めてから色を置く。印象派の仲間たちとは、ここが違う。

彼は印象派展にほぼ毎回参加しながら、印象派という呼び名を嫌ったと伝えられる。
外光の下で素早く描く仲間たちと違い、彼は室内で、記憶と素描から構成した。「自然な絵ほど作り物だ」という趣旨の言葉も残っている。
つまり彼の切られた構図は、偶然を写したものではない。偶然に見えるように、綿密に設計されたものである。
踊り子の絵は、舞台の絵ではない
ドガといえば踊り子、というほど有名な主題である。ただ、彼が描いたものをよく見ると、舞台上の華やかな場面は多くない。
この絵も稽古場である。公演ではなく、練習の時間。
姿勢を見てほしい。奥の数人は形を作っているが、手前の人物たちは休んでいる。腰掛け、背を掻き、耳飾りを直し、床を見ている。
つまり大半が、踊っていない時間である。
十九世紀のパリのオペラ座で、踊り子の多くは労働者階級の少女たちだった。幼いころから通い、長い訓練を経て舞台に立つ。
稽古は毎日、何時間も続く。舞台の数分間のために、その何百倍の時間が費やされる。
ドガが繰り返し描いたのは、その何百倍のほうだった。伸ばす、待つ、直す、休む。
華やかさを描かないという選択は、この主題では珍しい。同時代の画家たちは、もっと舞台の側を描いている。

この横長の画面も変わっている。左の大半が空いた床で、人物は右端に集まっている。
物語の中心を空にする構図である。舞台であれば、まず起きない配置だろう。
なぜ、稽古場に入れたのか
そもそも彼は、どうやってこの場所に立ち入っていたのか。
当時のパリのオペラ座には、定期会員の制度があった。年間の席を持つ会員には、舞台裏の一部へ入る特権が与えられていた。
踊り子が待機する部屋にも、こうした会員が出入りしている。ドガもその立場でこの場所を知った。
彼の絵には、しばしば黒い服の男が背景に立っている。踊り子を見に来た会員である。
この制度は、明るい話ばかりではない。踊り子の多くは貧しい家の出で、有力な後援者を得ることが生活の助けになった。
つまり稽古場は、訓練の場であると同時に、品定めの場でもあった。彼の絵の中の視線には、その構造が入り込んでいる。
先ほど「余計な意味づけをしない」と書いたが、意味づけをしないこと自体が態度でもある。批判も擁護もせず、その場の光景として置く。
現代の目から見ると、この距離の取り方は冷たく映るかもしれない。ただ、当時の絵として珍しいのは、そこを描く対象にしたこと自体である。