画家を知る

遠近法を、浮世絵に入れる——歌川豊春の浮絵

夜の芝居町。道の両側の軒の線を延ばすと、画面の中央で一点に交わる。十八世紀の江戸で摺られた版画に消失点がある。歌川派の祖・豊春が、浮絵と俯瞰と柱絵と肉筆を、どう使い分けたのかを六点でたどる。遠近法は、道具の一つとして扱われていた。

芝居町顔見世の浮絵
歌川豊春《芝居町顔見世の浮絵》メトロポリタン美術館蔵

道が、奥へ吸い込まれていく

一枚の版画から始めたい。

芝居町顔見世の浮絵
歌川豊春《芝居町顔見世の浮絵》1780年ごろ。木版多色摺(錦絵)、横大判。縦25.4センチ、横37.5センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川豊春《芝居町顔見世の浮絵》メトロポリタン美術館蔵

夜の町である。空が黒く塗りつぶされている。

画面の左右に、建物が向かい合って立つ。

芝居小屋である。看板が掲げられ、櫓が組まれている。

そのあいだを、一本の道がまっすぐ奥へ伸びる。

道の両側にひしめく人の頭が、奥へ行くほど小さくなる。

建物の軒の線も、奥へ向かって傾いている。

左の軒は右下がりに、右の軒は左下がりに。

その二本を延ばすと、画面の中央あたりで交わる。

一点に、すべての線が集まっている。

いわゆる消失点である。

十八世紀の江戸で摺られた版画に、それがある。

浮絵という呼び名

この種の絵を、浮絵と呼ぶ。

画面が浮き上がって見える、という意味だとされる。

奥行きが強く出るので、そう呼ばれたのだろう。

浮絵そのものは、豊春より前からあった。

十八世紀の前半、すでに劇場内部を奥行きつきで描いた版画がある。

当サイトでも奥村政信の紙の形で少し触れた。

ただ、初期の浮絵は線の集まり方が不安定である。

奥へ行くはずの線が、途中で角度を変える。

床の升目が、手前と奥で釣り合わない。

見よう見まねで組み立てた、という印象が残る。

豊春の浮絵は、そこが違う。

線の集まりに、迷いがない。

誰が、どこで学んだか

歌川豊春について、記録から分かることを書いておく。

生没年は1735年から1814年とされる。

歌川派の祖と位置づけられる絵師である。

つまり豊国も広重も国芳も、この人の系譜の先にいる。

ただし豊春自身の修業については、確かなことが少ない。

誰に学び、いつ江戸に出たかは、伝えによって食い違う。

遠近法をどこで覚えたかも、断定はできない。

考えられる経路は、いくつかある。

一つは、輸入された西洋の版画である。

長崎を通じて、風景や室内を描いた銅版画が入っていた。

もう一つは、中国経由の版画である。

蘇州で摺られた版画には、西洋風の奥行きを取り入れたものがあった。

これらが江戸まで届き、絵師の目に触れた可能性は高い。

さらに、覗き眼鏡という装置もあった。

レンズを通して絵を覗き、奥行きを強く感じさせる見世物である。

浮絵は、この装置で見るために作られたとも言われる。

ただし、豊春の作がその用途を前提にしていたかは分からない。

いずれにせよ、彼は仕組みの側を理解した。

見よう見まねではなく、線を引く規則として使っている。

顔見世の夜

この一枚が何を描いているかも、確かめておきたい。

題にある堺町と葺屋町は、江戸の芝居小屋が集まっていた区域である。

顔見世とは、一年の興行の始まりを告げる催しを指す。

新しい顔ぶれを客に見せる、という意味だとされる。

冬の初めに行われ、町は人で埋まった。

画面の黒い空は、その夜であることを示している。

軒には提灯が下がり、明かりが列をなす。

道を埋める人々は、ほとんどが後ろ姿か横顔である。

顔は小さく、表情までは描き分けられていない。

代わりに、着物の色が細かく摺り分けられている。

赤、藍、黄、白。点のような色が、道いっぱいに散る。

この色の粒が、群衆の密度をつくっている。

芝居小屋の建物は、左右で少し高さが違う。

櫓の位置も、左右で対称にはなっていない。

厳密な図面ではなく、実景に寄せた構図なのだろう。

とはいえ、通りの奥行きの取り方は正確である。

人の頭の大きさが、奥へ行くほど一定の割合で小さくなる。

規則を守りながら、細部は自由に置いている。

摺物としての条件

もう一つ、版画であることの条件も見ておきたい。

この作は横大判と記録されている。

縦25.4センチ、横37.5センチ。手に持てる大きさである。

版画は、同じ絵を何枚も摺る。

一点物の絵と違い、値段が下がり、買い手が増える。

つまり浮絵は、実験であると同時に商品だった。

珍しい奥行きが、売り物になったということでもある。

新しい見え方は、それ自体が娯楽になる。

覗き眼鏡の見世物が成り立っていたのも、同じ理由だろう。

奥行きは、当時の江戸で「面白いもの」だった。

いま私たちが立体映像を面白がるのと、そう変わらない。

誰が買ったのか

この版画を買ったのは、どんな人だったのだろう。

浮世絵の値段は、当時の記録から大まかに推し量られている。

一枚が、そば一杯から数杯ぶんという説がよく引かれる。

高価な美術品ではなく、日常の買い物に近い。

つまり買い手は、町の人である。

芝居を見に行く人、行けない人、行った帰りの人。

顔見世の絵なら、行った人が土産に買ったかもしれない。

行けなかった人が、雰囲気を味わうために買ったかもしれない。

どちらにせよ、絵は町の中で消費された。

そして多くは、傷み、色があせ、捨てられた。

いま残っているのは、たまたま保存された一部である。

この一枚も、二十世紀の初めに美術館へ入っている。

記録では1914年の受け入れとされる。

町の消耗品が、海を渡って収蔵品になった。

そこにも、時間の妙な作用がある。

消失点を、どこに置くか

消失点の位置にも、絵師の判断がある。

芝居町の絵では、消失点は画面の中央やや上に置かれている。

見る人の目の高さが、通りを歩く人の頭の高さと近い。

つまり、群衆の中に立っている感じになる。

もし消失点をもっと高く置けば、見おろす形になる。

低く置けば、しゃがんだ視点になる。

豊春が選んだのは、人の目の高さである。

これは、絵の中に入りやすい高さでもある。

奥行きの強さと、入りやすさ。

その二つが両立するように、位置が決められている。

偶然そうなった、とは考えにくい。

同じ絵師の別の浮絵でも、視点はおおむね人の高さにある。

規則を知っているだけでなく、効き目も知っていた。

そう見るのが自然だろう。

橋を、真横から見る

もう一枚、別の浮絵を見てみたい。

江戸中洲新大橋
歌川豊春《江戸中洲新大橋》1780年ごろ。木版、紙本着色。縦26.7センチ、横38.4センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川豊春《江戸中洲新大橋》メトロポリタン美術館蔵

川である。手前に水面が広がる。

中央やや右に、長い橋が架かる。

橋は画面を横切り、右奥へ抜けていく。

水面には舟が浮かぶ。屋根つきの舟、荷を積んだ舟、渡し舟。

対岸には家並みが続き、その向こうに低い山がかすむ。

手前の岸には、人が歩いている。

さて、ここでの遠近法の使い方は、先ほどと違う。

芝居町の絵では、消失点が画面のほぼ中央にあった。

この絵では、視線が斜めに入っている。

橋は正面ではなく、角度をつけて置かれている。

だから橋脚は、奥へ行くほど詰まって見える。

同じ規則を、別の角度に当てはめたわけである。

規則を理解している者にしか、これはできない。

高いところから、見おろす

三枚目は、また違う。

江戸八景之図
歌川豊春《江戸八景之図》1780年ごろ。木版、紙本着色。縦24.0センチ、横37.5センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川豊春《江戸八景之図》メトロポリタン美術館蔵

画面全体が、赤みを帯びている。

紙の地色と、赤系の顔料が広く使われている。

構図は俯瞰である。高い場所から町を見おろしている。

水路が何本も走り、そのあいだに屋根が密集する。

橋が架かり、舟が行き、人が点のように散っている。

題は《江戸八景之図》。江戸の名所を八つ集めた図である。

ここでは、消失点は使われていない。

俯瞰の視点は、日本の絵巻や屏風が長く使ってきた形である。

つまり豊春は、西洋の規則に乗り換えたのではない。

主題に応じて、使う道具を選んでいる。

奥行きを見せたい町並みには、消失点を使う。

広がりを見せたい名所図には、俯瞰を使う。

二つの空間の、使い分け

この使い分けは、けっこう重要だと思う。

遠近法は、一つの立ち位置を決める方法である。

見る人の目の高さと、見る方向が固定される。

そのぶん、その場に立っている感じが強く出る。

一方、俯瞰には固定された立ち位置がない。

どこにも立っていない目が、上から全体を見る。

そのぶん、情報を多く並べられる。

名所を八つ並べるなら、こちらのほうが向いている。

豊春は、どちらが優れているかを競っていない。

必要に応じて持ち替えている。

新しい技法が入ってきたとき、こういう扱い方をする人は少ない。

たいていは、新しいほうに偏るか、拒むかのどちらかになる。

中洲という場所

《江戸中洲新大橋》の中洲についても、触れておきたい。

中洲は、隅田川に築かれた埋立地である。

十八世紀の後半に造成され、茶屋や見世物が並んだと伝えられる。

一時は江戸の盛り場の一つになった。

ただし、この土地は長くは続かなかった。

水の流れを妨げるとして、のちに取り払われている。

つまりこの絵は、短い期間だけ存在した町を描いていることになる。

版画は、そういう記録をしばしば残す。

名所図は、名所が変わればそのまま古い姿の記録になる。

もっとも、絵師がそれを意識していたかは分からない。

彼はおそらく、今いちばん人が集まる場所を描いた。

結果として、消えた場所の姿が残った。

舟と橋の描き分け

この絵の細部も見ておきたい。

水面には、いくつもの舟が浮かぶ。

屋根を掛けた舟には、人影が並んでいる。

荷を積んだ舟は、喫水が深く描かれている。

小さな渡し舟は、二、三人しか乗っていない。

舟の種類が、きちんと描き分けられている。

橋の上にも、人が点々と歩く。

橋脚は太く、水面に影を落としている。

対岸の家並みは、屋根の線だけで示される。

そして遠景の山は、ごく淡い色で刷られている。

手前は濃く、遠くは淡い。

これは遠近法とは別の、色による距離の作り方である。

一枚の中で、二つの方法が同時に働いている。

線の収束と、色の濃淡。

どちらも奥行きを作るが、由来は違う。

豊春はそれを、無理なく同居させている。

八景という枠組み

《江戸八景之図》の「八景」についても書いておく。

八景は、中国から入った枠組みである。

もとは瀟湘八景といい、一つの地域の景色を八つに数える。

夜の雨、帰る舟、寺の鐘、秋の月といった題が定型になっている。

日本でも早くから受け入れられ、近江八景が有名になった。

江戸八景は、その形式を江戸に当てはめたものである。

つまりこの絵は、輸入された枠組みの上に立っている。

遠近法も輸入、八景も輸入である。

一枚の絵の中で、二つの外来のものが働いている。

もっとも、そのどちらも、当時すでに江戸のものになっていた。

外から来たかどうかは、使う側にとって重要ではない。

役に立つかどうかだけが問題になる。

この態度は、浮世絵という媒体全体に通じている気がする。

新しい顔料が入れば使い、新しい構図が入れば試す。

売れれば残り、売れなければ消える。

その選別を、市場が担っていた。

摺りの色数

この三枚の色数も見ておきたい。

錦絵は、色ごとに版木を分けて摺る。

色が増えれば、版木も摺りの手間も増える。

つまり色数は、そのまま原価である。

芝居町の絵は、色数が多い。群衆の着物を摺り分けている。

一方《江戸八景之図》は、赤系の色が画面を支配している。

版木の数を抑えた摺りに見える。

《新大橋》は、その中間くらいだろう。

主題によって、かけられる手間が違ったのかもしれない。

あるいは、摺られた時期や版元の違いかもしれない。

当方はそこまでは確認できていない。

ただ、色数の差が画面の印象を大きく変えているのは確かである。

多色の絵はにぎやかで、単色寄りの絵は静かに見える。

縦に細長い紙で

四枚目は、極端な形をしている。

恋文を読む若衆を見下ろす美人
歌川豊春《恋文を読む若衆を見下ろす美人》1771年ごろ。木版、紙本着色。柱絵。縦66.7センチ、横10.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川豊春《恋文を読む若衆を見下ろす美人》メトロポリタン美術館蔵

縦66.7センチ、横10.8センチ。

縦横の比は、六対一を超える。

柱絵と呼ばれる形式である。

家の柱に貼るために作られた、と伝えられる。

画面の上部に、女性が立つ。身を乗り出して、下を見ている。

その視線の先、画面の下寄りに、若い男が座って文を読む。

上と下、二人のあいだに大きな距離がある。

この縦長の紙が、そのまま距離になっている。

ここに消失点はない。使いようがない。

代わりに、上下の隔たりが空間を作っている。

同じ絵師が、まったく別の方法で奥行きを扱っている。

雄鶏と雌鶏と雛
歌川豊春《雄鶏と雌鶏と雛》1770年ごろ。木版、紙本着色。縦38.4センチ、横13.0センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川豊春《雄鶏と雌鶏と雛》メトロポリタン美術館蔵

五枚目も縦長である。

台の上に雄鶏が立ち、羽と尾を大きく広げる。

台の下では、雌鶏と数羽の雛が地面をつついている。

上の一羽が黒く濃く、下の群れは淡い。

濃淡の差だけで、上下の距離が付いている。

これも遠近法ではない。日本の花鳥画が使ってきた方法である。

筆で描く仕事

最後に、版画ではないものを見ておきたい。

正月の母と子ども
歌川豊春《正月の母と子ども》18世紀。掛軸、絹本着色。縦103.5センチ、横31.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川豊春《正月の母と子ども》メトロポリタン美術館蔵

掛軸である。絹に筆で描かれている。

母が幼い子を抱き、もう一人の子が寄り添う。

母の着物には、細かい模様が描き込まれている。

背景は暗く、上方に松の枝が見える。

正月の情景とされる。

版画で名を知られた絵師が、筆でも仕事をしていた。

肉筆と版下絵は、同じ人の中で両立していた。

版画は分業である。絵師が下絵を描き、彫師が彫り、摺師が摺る。

一方、掛軸は最初から最後まで絵師の手で仕上がる。

同じ人の中に、二つの作り方が共存している。

掛軸に、遠近法はない

この掛軸には、消失点がない。

背景は暗く、空間の奥行きはほとんど示されない。

人物は、平らな面の上に置かれている。

着物の模様が細かく描かれ、そこに目が留まる。

つまり見どころは、空間ではなく衣装と表情にある。

これは肉筆の美人画が長く続けてきた形式である。

浮絵で消失点を使った同じ人が、ここでは使わない。

技法は主題に従属している、と言ってよい。

そう考えると、豊春にとって遠近法は思想ではなかった。

世界の見え方を変える発明としてではなく、
道具の一つとして扱われている。

西洋では、遠近法は世界観と結びついて語られてきた。

視点を一つに定め、世界を測る方法として。

江戸の絵師は、そこまで背負わなかった。

必要なところで使い、要らないところでは置いた。

この軽さは、弱さでもあり、強さでもある。

柱絵という制約

柱絵の形についても、もう少し書いておきたい。

縦横比が六対一を超える紙は、扱いが難しい。

人を一人立たせるだけで、画面がふさがる。

風景を入れれば、細長い帯にしかならない。

だから柱絵の絵師は、必ず工夫を強いられる。

豊春の一枚は、上下に人を離すという解き方をした。

見る人の目は、上から下へ動かざるを得ない。

絵を見る時間が、紙の形によって決められている。

横長の浮絵とは、まったく逆の設計である。

浮絵では、目は奥へ引かれていく。

柱絵では、目は縦に走らされる。

同じ絵師が、紙の形に応じて視線の道筋を変えている。

制約が、かえって工夫を呼ぶ例だと言える。

六点を並べて

最後に、六点をもう一度並べてみたい。

横長の浮絵が二枚。俯瞰の名所図が一枚。

細長い柱絵が二枚。絹に描いた掛軸が一枚。

紙の形も、技法も、空間の作り方もばらばらである。

一人の絵師の仕事として見ると、幅が広い。

しかもこれは、当サイトが所蔵する分だけの話である。

実際の仕事は、もっと多様だっただろう。

派の始まりとして

豊春の名は、作品よりも系譜で知られている面がある。

歌川派は、江戸後期にもっとも大きな流派になった。

豊国が役者絵で、豊広が風景で、それぞれ道を開いた。

その先に広重がいて、
国芳がいる。

広重の風景版画には、しばしば強い奥行きがある。

手前に大きく物を置き、奥へ一気に引く構図である。

その扱いの元をたどると、浮絵の実験に行き着く、という見方がある。

ただし、豊春から広重へ直線的に受け渡されたと断じることはできない。

あいだには複数の絵師と、数十年の時間がある。

言えるのは、遠近法が江戸の絵の道具箱に入った、ということだ。

その道具を、比較的早い時期に、規則として使いこなした人がいた。

道具が増えるということ

浮絵を見ていて思うのは、道具の増え方である。

新しい技法が入っても、古い技法は消えなかった。

俯瞰も、濃淡による距離も、柱絵の上下も、そのまま残った。

そこへ消失点が一つ加わっただけである。

しかもそれは、劇場の通りや橋のような主題で使われた。

まっすぐな道があり、両側に建物が並ぶ場面。

つまり、遠近法が効く場面が選ばれている。

道具が増えれば、使いどころも選べるようになる。

豊春の六点を並べると、その選択がよく見える。

浮絵が二枚、俯瞰が一枚、縦長が二枚、肉筆が一枚。

一人の絵師の中に、これだけの空間の作り方がある。

のちに西洋の画家たちが浮世絵を見て驚いたのは、
別のコラムで書いたとおりである。

その浮世絵の側も、かつて西洋の絵を見て驚いていた。

驚きは、たいてい往復する。

芝居町の夜の絵で、道が奥へ吸い込まれていく。

その一点は、遠い場所から届いた規則の跡である。

そして同時に、江戸の夜の町の記録でもある。

規則は借り物でも、描かれた町は借り物ではない。

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