十二センチの板に、使徒を写す——ヴァン・ダイクに倣う
縦十二センチほどの小さな板が九枚。館の記録は、いずれも「〜に倣う」とする。原画があり、版画があり、その版画を見て板に描いた誰かがいる。四つの段階をたどりながら、複製という仕事の輪郭を確かめる。誰が描いたか分からないまま残る絵の、扱い方も考える。

縦十二センチの板に、老人がいる
一枚の小さな板絵から始めたい。

縦12.2センチ、横10.6センチ。
手のひらに載る大きさである。
暗い背景の中に、老人の上半身がある。
髪は白く、額が広い。
顎の髭も白く、豊かに広がる。
顔はやや右を向き、目は下へ落ちる。
両手で、開いた書物を支えている。
書物の紙は白く、画面の中で最も明るい。
衣は暗い青と褐色で、肩に布がかかる。
右手の指が、頁を押さえている。
九枚が、同じ大きさ
この一枚には、八枚の仲間がある。
いずれも、縦12.2センチ、横10.6センチ。
寸法が、完全に一致している。
技法も同じで、板に油彩である。
制作年も、いずれも一六六〇年以降とされる。
つまり、最初から九枚一組として作られている。
主題は、キリストの使徒たちである。
一人ずつ、上半身を描く。
そして、それぞれに持ち物が添えられる。
「〜に倣う」という記録
館の記録で、まず目を引くのは作者名である。
アンソニー・ヴァン・ダイクに倣う、とある。
つまり、ヴァン・ダイク本人の作ではない。
その作品をもとに、別の誰かが描いたものである。
誰が描いたかは、記録されていない。
美術館では、こうした表記が使われる。
本人の作、工房の作、追随者の作、そして倣った作。
制作の関わり方に応じて、書き分けられている。
四つの段階
もう少し詳しく整理しておきたい。
本人の作は、その画家自身が描いたもの。
工房の作は、弟子が描き、本人が監督したもの。
追随者の作は、様式を受け継いだ別人の作。
そして倣った作は、特定の原画をもとに写したもの。
今回の九枚は、最後にあたる。
もとになった絵が、どこかに存在する。
その絵を見て、あるいは版画を見て、写したことになる。
記録の書き方が、伝えること
作者名の欄に「〜に倣う」と書くこと。
これは、情報を減らす表記ではない。
むしろ、分かっていることを正確に伝える表記である。
本人の作だと断定しない。
同時に、無関係とも言わない。
原画との関係だけを示す。
分かっていることと、分かっていないことを分ける。
美術館の記録は、その線引きの集積である。
当サイトも、その線引きをそのまま引き継ぐ。
原画は、どこにあるか
ヴァン・ダイクは、使徒を描いた連作を残している。
一人ずつ、胸から上を描いた一群である。
制作は、一六二〇年前後とされる。
画家がまだ二十歳そこそこの時期である。
その連作は、複数の版が知られている。
各地の美術館に、同じ主題の絵が散っている。
どれが原画で、どれが写しか。
この問題は、長く議論されてきた。
版画を経由する
写す方法は、原画を直接見るだけではない。
版画を経由することもある。
十七世紀には、有名な絵が版画に写された。
版画は安く、広く流通する。
それを見て、油彩で描き直す。
すると、色は写した人が決めることになる。
版画には色がないからである。
九枚の色が原画と一致するかは、分からない。
縮めるということ
もう一つ、重要な点がある。
原画は、これより大きい。
胸から上の人物を描くなら、ふつうは五十センチ前後の画面になる。
それを、十二センチに縮めている。
縮めれば、筆を細くしなければならない。
そして、細部を省く必要が出る。
髭の一本ずつは描けない。
数本の線で、束として示すことになる。
九枚の筆致が粗く見えるのは、そのためでもある。
十字の柱を持つ人
二枚目を見たい。

髭の濃い男が、右を向いている。
髪は乱れ、額に皺が寄る。
赤い衣を肩にかける。
右腕を上げ、太い木の棒を抱える。
その棒は、画面の右上へ斜めに伸びる。
指が、木肌をつかんでいる。
背景は暗い褐色で、何も描かれない。
顔と手と赤い衣だけが明るい。
持ち物で、誰かを示す
使徒の絵には、決まりがある。
一人ずつ、持ち物が定められている。
書物、剣、鍵、杯、斧、十字の形。
その持ち物で、誰かが分かる。
顔立ちで見分けるのではない。
つまり、寓意の絵と同じ仕組みである。
当サイトの
九人の女神でも、同じ考え方を扱った。
見る人が、その約束を知っている前提で成り立つ。
杯を持つ若者
三枚目は、九枚の中で最も若い顔である。

若い男が、左を向いている。
髪は長く、肩まで垂れる。
髭はない。
赤い衣が、体の大部分を覆う。
右手を上げ、指を軽く曲げる。
左手には、金色の杯を持つ。
杯からは、細い何かが立ち上がる。
顔は柔らかく、頬に丸みがある。
九枚の中で、これだけが若者である。
年齢の描き分け
九枚を並べると、年齢が散らばっている。
白髪の老人が三人。
髭の濃い壮年が四人。
髭のない若者が一人。
そして、その中間が一人。
これは、意図された配分である。
同じ顔が並べば、見分けがつかなくなる。
だから、年齢を変える。
持ち物と年齢の両方で、九人を区別している。
十二人ではなく、九人
使徒は、ふつう十二人で数えられる。
しかし、ここにあるのは九人である。
さらに、九人の中には福音書記者も含まれている。
つまり、厳密な十二使徒の組ではない。
もとの連作が何人組だったのか。
そして、この九枚がその全部なのか。
館の記録からは分からない。
三枚が失われた可能性もある。
はじめから九枚だった可能性もある。
数が合わないときは、合わないと書いておく。
板に描く小品
九枚の支持体は、木の板である。
画布ではない。
小さな絵では、板のほうが扱いやすい。
表面が硬く、細かい筆が乗る。
そして、反りにくい。
十二センチの板なら、木の動きも小さい。
北方の伝統では、板絵が長く使われた。
九枚も、その伝統の中にある。
手に、刃物を持つ人
四枚目は、持ち物が小さい。

白髪の男が、うつむいている。
顔は正面をやや外し、目を伏せる。
髭は白く、短く刈られている。
肩から胸へ、白っぽい布がかかる。
その下は、赤紫の衣である。
右手は下に置かれ、細長い物を握る。
刃物のように見える。
背景は暗く、上のほうがわずかに明るい。
暗い背景を、どう塗るか
九枚の背景は、いずれも暗い褐色である。
しかし、完全に平らではない。
人物の輪郭の周りだけ、わずかに明るい。
そこから外へ、少しずつ暗くなる。
つまり、人物の後ろに光の余韻を置いている。
こうすると、輪郭が背景から浮き上がる。
線で縁取るより、自然に見える。
十七世紀の肖像画で、広く使われた方法である。
腕を組む人
五枚目は、姿勢が違う。

男が、右を向いて座る。
顔は横顔に近い。
髪は短く、額が禿げ上がる。
髭は濃く、顎を覆う。
胸の前で、両腕を組んでいる。
手は組んだ腕の上に置かれる。
衣は青と褐色で、肩に布がかかる。
九枚の中で、持ち物が見えない唯一の一枚である。
持ち物のない一枚
なぜ、この一枚だけ持ち物がないのか。
いくつか考えられる。
原画にもなかった可能性。
写す際に省かれた可能性。
あるいは、画面の外にある可能性。
十二センチの画面では、大きな道具は入らない。
だから、省くという判断もあり得る。
館の記録には、その説明がない。
見えているのは、組んだ腕だけである。
杖を持つ人
六枚目は、道具が縦に入る。

男が正面を向き、こちらを見ている。
髪は縮れ、額の上で盛り上がる。
髭は茶色で、頬から顎へ広がる。
黄土色の衣を着る。
右手を上げ、細長い杖を握る。
杖は、画面の右端を縦に貫く。
背景は暗く、左上がわずかに明るい。
九枚の中で、視線がまっすぐこちらへ向く数少ない一枚である。
視線の向き
九枚の視線を確かめておきたい。
こちらを見ているのは、二枚だけである。
残りは、伏し目か、横を見ている。
つまり、多くは見る人と目を合わせない。
これは、宗教画の作法に沿う。
聖人は、こちらを見つめるより、内へ向かう。
肖像画なら、目が合うほうが好まれる。
同じ胸像の形式でも、目的が違えば視線が変わる。
手を、どう描くか
九枚のうち、手が見えるのは七枚である。
いずれも、顔と同じくらい丁寧に描かれている。
指の関節、爪の形、握りの角度。
三センチに満たない手に、それが入っている。
手は、持ち物とつながる部分である。
だから、省けない。
杖を握る手、書物を支える手、腕を組む手。
動作の種類が、手の形で決まる。
顔と手だけを描き込み、衣は大まかに塗る。
その配分は、大きな肖像画と同じである。
帽子をかぶる人
七枚目は、頭に物がある。

白髪の男が、上を向いている。
つばの広い黒い帽子をかぶる。
顔は右上へ向き、目もそちらを見る。
髭は白く、豊かである。
黄土色の布を肩にかける。
胸の前で、両手を重ねる。
背後には、木の枠のようなものが斜めに走る。
暗い画面の中で、顔と手が明るい。
上を見る、という所作
この一枚の視線は、上へ向かう。
宗教画では、しばしば使われる所作である。
天からの啓示を受ける姿を示す。
あるいは、祈りの姿勢である。
顔をわずかに傾け、目を上げる。
それだけで、意味が変わる。
九枚のうち、上を向くのはこの一枚だけである。
九人の姿勢を、意識的に散らしていることが分かる。
板の縁を見る
九枚の画像を見ると、縁の様子が分かる。
四辺が、まっすぐ切られている。
そして、絵具が縁のぎりぎりまで塗られている。
つまり、あとから切り詰めた形跡は少ない。
もとからこの大きさで描かれたのだろう。
小さな板を九枚用意し、順に描いていく。
工房の仕事としては、効率がよい。
同じ大きさなら、額も揃えられる。
光は、どこから来るか
九枚の光の向きを確かめたい。
いずれも、左上から光が差している。
顔の左側が明るく、右側に影が落ちる。
九枚とも同じである。
これは、並べて飾ることを前提にしている。
光の向きがばらばらだと、並べたときに落ち着かない。
一列に掛けたとき、同じ方向から照らされているように見える。
組物では、こうした統一が要る。
原画の段階で、すでに決まっていたのだろう。
九枚を、どう飾ったか
九枚は、どのように使われたのか。
考えられるのは、並べて掛けることである。
三枚ずつ三段に組めば、正方形に近い形になる。
あるいは、横一列に九枚。
いずれにせよ、まとめて飾る前提だろう。
小さな板絵を並べる飾り方は、当時よく行われた。
書斎や小礼拝堂の壁に、額を並べる。
一枚ずつでは意味をなさない絵である。
斜めの棒を持つ人
八枚目は、暗い一枚である。

男が、右を向いている。
髪は乱れ、髭は濃い。
顔の上半分に光が当たり、下は影になる。
衣は褐色で、背景と近い色である。
左手を胸の前に置く。
その手のそばに、木の棒が斜めに立つ。
背景は暗く、輪郭が溶けかけている。
九枚の中で、最も明暗の差が大きい。
暗い絵が、暗くなる
この一枚が暗いのには、二つの理由がある。
一つは、もともとの明暗の設定である。
もう一つは、経年の変化である。
油彩の暗部は、時間とともに沈む。
上塗りの保護層が黄変し、下の色を覆う。
さらに、絵具の層自体も透明度を増す。
すると、下地の暗い色が透けてくる。
つまり、いま見えている暗さは、当初より濃い。
十字を背負う人
九枚目は、道具が大きい。

白髪の男が、右を向いている。
橙色の衣を大きくまとう。
九枚の中で、最も明るい色である。
左肩の上に、太い木の棒が載る。
棒は、画面の左上から右下へ斜めに走る。
右手は胸の前に置かれる。
顔は横向きで、口を軽く開ける。
背景は暗い褐色である。
斜めの線が、三枚に
九枚のうち、三枚に斜めの棒が描かれている。
十字の一部を示す道具である。
いずれも、画面を斜めに横切る。
こうすると、小さな画面に動きが出る。
垂直と水平だけでは、画面が硬くなる。
斜めの線を一本入れると、印象が変わる。
持ち物が、構図の役目も担っている。
意味と機能が、ここでも重なっている。
誰が描いたか、分からない
九枚の作者は、記録されていない。
十七世紀後半のどこかで、誰かが描いた。
場所も分からない。
分かるのは、原画がヴァン・ダイクの作にもとづくことである。
そして、一六六〇年以降に描かれたことである。
なぜ一六六〇年という年が出てくるのか。
おそらく、参照した版画の刊行年か、様式の判断だろう。
館の記録に、根拠は書かれていない。
写しを、どう評価するか
写した絵に、価値はあるのか。
これは、長く議論されてきた問いである。
独創を重んじる立場からは、価値は低いとされる。
一方で、写しには別の意味がある。
まず、失われた原画を伝えることがある。
原画が失われても、写しが残っていれば形は分かる。
次に、受容の記録になる。
誰が、いつ、どこで、その絵を欲しがったか。
写しの存在が、それを示す。
名画が、広まる仕組み
十七世紀の欧州では、名画の複製が盛んに作られた。
版画、素描、油彩の写し。
そして、寸法を変えた縮小版。
これらが、市場に出回る。
原画を買えない層にも、図柄が届く。
当サイトの
原画と写しでも、この仕組みを扱った。
複製は、贋作とは違う。
原画があることを前提に、堂々と作られ、売られた。
誰が買ったか
こうした組物を買ったのは、どういう人か。
記録は残っていないが、推測はできる。
聖人像を並べて飾るのは、信仰の場である。
家庭の礼拝の場、あるいは小さな礼拝堂。
そして、書斎に飾る例もあっただろう。
十七世紀後半の低地地方や周辺では、市民の家に絵が飾られた。
大作は買えなくても、小品なら手が届く。
九枚の寸法は、その層に合っている。
縮小版という商品
九枚のような縮小版には、需要があった。
理由は、置き場所である。
大きな絵は、広い壁が要る。
小さな板絵なら、書斎の棚にも並べられる。
そして、九枚一組で買える。
大作を一点買うより、はるかに安い。
つまり、これは中間層のための商品である。
美術の受容の幅を広げた品でもある。
原画のヴァン・ダイク
原画を描いたヴァン・ダイクについても書いておきたい。
一五九九年にアントウェルペンで生まれ、一六四一年にロンドンで没した。
当サイトでは、
イタリアで、肖像の型をつくるで、その中期を扱った。
使徒の連作は、それより前の若い時期の仕事とされる。
つまり、まだ型が固まる前の作である。
顔の描き方が、後年の肖像より粗い。
その粗さが、写しにも受け継がれている。
九枚を並べる意味
一枚だけ見れば、粗い小品である。
九枚並べると、印象が変わる。
年齢、視線、持ち物、色。
すべてが少しずつ変えられている。
つまり、九枚で一つの作品である。
そして、その配分の設計は原画に由来する。
写した人は、その設計ごと受け取っている。
写しとは、構図だけでなく、組み方も受け継ぐ行為である。
額に入った状態
九枚は、いま額に入って収蔵されている。
もとの額が残っているかは、記録にない。
小さな板絵の額は、失われやすい。
飾り方が変われば、額も替えられる。
そして、九枚を別々の額に入れれば、組物の感じは薄れる。
一つの枠に九枚を並べて嵌める方式もあり得た。
いま公開されている画像は、一枚ずつである。
もとの見え方は、そこからは分からない。
並べ方を想像しながら見るしかない。
九枚を、順に見る
見方を提案して、終わりたい。
九枚の顔だけを、順に見比べてほしい。
白髪、茶の髭、髭のない若い顔。
そして、視線の向き。
伏せ、横、上、そして正面。
九人が、一人ずつ違う状態にある。
十二センチの板で、その差を作っている。
顔は三センチほどしかない。
その中で、年齢と表情と視線が描き分けられている。
粗い筆に見えて、判断は細かい。
写した人の腕は、そこに出ている。
名の残らない画家が、九枚の板に残した仕事である。
倣った絵にも、描いた手はある。
そこを見るために、九枚は並べる価値がある。



