アメリカは磁器を作れるか——タッカーとセンチュリー・ヴァース
「白い金」と呼ばれた磁器の国産化に、19世紀のアメリカは二度挑んだ。フィラデルフィアのタッカー工場の12年と、建国百年博覧会に立ったセンチュリー・ヴァース。九点の器から、産業の面子と自己表現をめぐる百年の物語を読む。

花瓶に、国の百年が彫り込まれている
一つの花瓶から始めたい。

高さ56.5センチ。両腕で抱えるほどの、白い大花瓶である。
磁器ならではの、なめらかで硬質な白い肌をしている。
口縁は大きく開き、脚部はどっしりと張る。
古代の壺を思わせる、格式ばった姿である。
一目で、日用の器ではないと分かる。
これは飾るため、示すための花瓶である。
胴の正面には、青い菱形の区画が設けられている。
その中に、白い横顔が浮き彫りで表されている。初代大統領ジョージ・ワシントンの肖像である。
青い地に白いレリーフを浮かべる手法は、古代のカメオを思わせる。
皇帝や神々を刻んできた形式に、建国の父の横顔が収まっている。
左右の把手に目を移すと、動物の頭が付いている。バイソン、すなわちアメリカ野牛の頭である。
うつむき加減の顔と、たてがみの毛並みまで細かく造形されている。
欧州の花瓶なら、獅子や山羊の頭が付く場所だろう。
そこに、北米の平原を駆ける野牛が据えられた。
旧大陸の紋章ではなく、新大陸の野生である。
胴の下部には、浅浮き彫りの帯がぐるりと巡っている。
そこに表されるのは、神話でも聖書でもない。
電信を打つ場面。機関車が走る場面。
建国からの百年に生まれた、発明と進歩の場面である。
場面は一こまずつ区切られ、絵巻のように続いていく。
祝典のための器に、労働と機械の場面が刻まれている。
それ自体が、この国の自画像だったのだろう。
この花瓶は「センチュリー・ヴァース」、百年の花瓶と呼ばれる。
1876年、フィラデルフィアで開かれた建国百年の博覧会のために作られた。
手がけたのは、ブルックリンの磁器工場ユニオン・ポーセリン・ワークス。
原型を作ったのは、同社の造形主任を務めた彫刻家カール・ミュラーである。
器の設計を、絵付師ではなく彫刻家が担った。
この花瓶の主役が、色ではなく形であることを示している。
国の百年の歴史を、一つの花瓶に彫り込む。
それが、この器に課された役割だった。
会場でこの花瓶を見上げた観客は、何を思っただろう。
問い——なぜ、器に国家の誇りが宿るのか
ここで問いを立てたい。
なぜ花瓶や皿に、国産であることの誇りが刻まれたのか。
記念碑や絵画に国家の威信が託されるのは分かる。
だが、これは本来、水を入れ、花を挿すための道具である。
食卓や客間で、日々の暮らしにふれる道具である。
しかも建国百年の祝典に、一国が誇りとして掲げたのは磁器だった。
大砲でも機関車でもなく、白い焼物である。
そこには、それだけの理由があったはずである。
磁器は、この国が長く作れなかったものだった。
作れなかったものを、作れるようになった。
その事実こそが、展示の主題だったと考えられる。
答えの鍵は、磁器という素材の来歴にある。
少し回り道をして、その来歴をたどりたい。
白い金——磁器という難物
磁器は、カオリンと呼ばれる白い土を主原料とする焼物である。
高温で焼き締めると、白く、硬く、光を透かす器になる。
薄く作った器を光にかざせば、向こうがほのかに透ける。
爪で弾けば、金属のような澄んだ音がする。
土の色が残る普通の陶器とは、まるで別物の質感である。
その白さは、絵付の色を最も美しく見せる地でもあった。
紙のように白い地は、金彩も青も引き立てる。
この技術を最初に完成させたのは中国だった。
欧州は長いあいだ、船で運ばれてくる中国磁器を珍重した。
茶や絹とともに、磁器は東洋貿易の花形だった。
王侯は宮殿の一室を磁器で埋め、富を誇った。
磁器の間と呼ばれる部屋が、各地の宮殿に作られたのである。
その白さは金銀に匹敵する富の象徴だった。磁器が「白い金」と呼ばれたゆえんである。
各国の宮廷は、製法の解明に躍起になった。
錬金術師に研究させた宮廷もあったと伝えられる。
金を作る技術の代わりに、白い金の製法が見つかった。
欧州で焼成に成功したのは、18世紀初めのことである。ドイツのマイセン窯が最初とされる。
製法は国家の機密として、厳重に守られたと伝えられる。
それでも職人の移動とともに、技術は少しずつ広まった。
やがてボウやチェルシーなど、イギリスの窯も続いた。
18世紀半ばには、欧州各地に磁器の窯が立ち並んだ。
それでも18世紀のあいだ、磁器を量産できたのは中国と欧州の一部だけだった。
では、大西洋の向こうはどうか。
独立したばかりのアメリカに、本格的な磁器の窯はなかった。
陶器を焼く職人はいた。だが磁器は、次元の違う技術だった。
カオリンは、どこにでもある土ではない。
産地を探すことから、磁器作りは始まる。
土が見つかっても、窯の温度と焼き方はまた別の壁である。
磁器作りは、当時の最先端の化学工業だった。
食卓の白い器は、ほぼすべてが海の向こうから来た。
独立後に中国との直接貿易が始まると、東洋の磁器も大量に流れ込んだ。
新大陸の港に、旧世界の白い器が積み上がる。
独立を祝う食卓も、輸入の器で整えられていたのである。
18世紀にも国産化の小さな試みはあったが、長続きしなかったと伝えられる。
白い金は、新大陸にはまだ遠い技術だった。
磁器を自国で焼けるかどうか。
それは器の問題であると同時に、産業国家としての面子の問題だった。
19世紀のアメリカは、この難物に二度、本気で挑むことになる。
一度目は、輸入品に追いつくために。
二度目は、自分の物語を焼くためにである。
フィラデルフィア、1826年——最初の成功
最初の挑戦者は、フィラデルフィアに現れた。
商人の家に生まれたウィリアム・エリス・タッカーである。
タッカーは1826年、自前の窯で磁器の製造を始めた。
輸入品があふれる港町で、あえて国産に賭けたのである。
原料となる白い土も、国内で探し出さねばならなかった。
窯の温度、土の配合、釉薬の調子。
頼れる先例のないまま、試行錯誤が続いたと考えられる。
職人も、欧州からの移民に頼るほかなかっただろう。
やがて工場は、販売に足る品質の磁器を焼き上げる。
商業的に成功した最初の国産磁器は、この工場の製品だとされる。
欧州から半世紀遅れの、ようやくの一歩だった。

高さ15.2センチのティーポットである。
白い胴に、金彩の蔓草文がのびやかに巡っている。
装飾は金一色に絞られ、白い地を広く残している。
張りのある胴、反り返る注ぎ口、高く立つ蓋のつまみ。
姿は、当時の欧州の高級食器そのものである。
底の銘を見なければ、フランス製と見分けるのは難しいだろう。
それこそが、タッカーの目指した水準だった。
輸入品と並べて遜色のない器を、より近くで作る。
この工場の商売は、そこに懸かっていた。
茶の時間は、当時の家庭の社交の中心である。
その席に国産の磁器を出せることが、売り文句になった。
白黒写真の中の、水差し

この水差しの公開画像は、白黒の記録写真である。
実物の色は、写真からは分からない。
それでも、器の姿と装飾の配置は十分に読み取れる。
古い記録写真もまた、作品の来歴の一部である。
高さ23.5センチ。ふくらんだ胴に、風景画が描かれている。
風景はセピア、すなわち褐色の単色で描かれると伝えられる。口縁の内側には黒い葉文の帯が巡る。
手描きの風景画は、タッカー工場が力を入れた装飾だった。
川と木立の眺めが、白い水差しの腹に窓のように開いている。
描かれた土地がどこなのかは、記録からは分からない。
一点ずつ筆で描くのだから、手間も費用もかかる。
それでも手描きにこだわったのは、高級品の証だったからだろう。
転写で量産される輸入陶器との、差別化でもあったと考えられる。
鷲の頭が、把手になっている

高さ53.7センチ。工場の技術の粋を集めた大作である。
素材の欄には、磁器とともに真鍮とある。
左右の把手が、金色に輝く鷲の頭に作られているのだ。
金属の把手を別に作り、磁器の胴に取り付けている。
胴の正面には、手描きの風景画が広がる。
全体の姿は、フランスのアンピール様式の花瓶を手本にしている。
アンピール様式とは、ナポレオン時代に栄えた帝政様式のことである。
つまりこの大花瓶は、欧州の宮廷趣味の忠実な模倣である。
この種の大花瓶は、対で暖炉の上などに飾られたと考えられる。
若い共和国の客間が、帝政様式の花瓶で飾られていたのである。
把手の鷲だけが、かろうじてアメリカの国章を思わせる。
鷲は独立以来、この国の象徴として使われてきた鳥である。
国産の土で焼きながら、意匠の手本はまだ海の向こうにあった。
金のモノグラムと、白いままの蓋物

こちらは日々の食卓の器である。
白い地に金彩で、頭文字を組み合わせたモノグラムが記されている。
特注の器に自分の頭文字を入れさせる。欧州の上流階級の習慣そのままである。
フィラデルフィアの富裕な家庭が、その顧客だったと考えられる。
器は欧州風、作りは国産。
顧客はその取り合わせを喜んだのだろう。

蓋付きの深皿は、一切の装飾のない白磁である。
工場は途中で出資者を迎え、タッカー・アンド・ヘンフィル工場と名乗った時期がある。
この蓋物は、その時期の製品である。
飾りのない白い器は、日用の量産品として焼かれたと考えられる。
白磁の白さそのものが、この器の見どころである。
焼きの良し悪しが、ごまかしなく現れるからである。
華やかな特注品と、無地の日用品。
工場は、この両輪で商売を組み立てていた。
上客の特注で名を上げ、日用品で日銭を稼ぐ。
新興の窯が生き延びるための、現実的な組み立てである。
十二年で、火は消えた
だが、事業の現実は厳しかった。
磁器は焼成の温度が高く、窯の中で歪みや割れが出やすい。
設備にも燃料にも、大きな元手がかかる。
焼き損じが続けば、その損はそのまま経営を削る。
そのうえ最大の敵は、安い輸入品だった。
イギリスやフランスの窯は、大量生産の体制をすでに築いていた。
海を越えてなお、その製品は国産の器より安かったと伝えられる。
買い手にとって、器の産地は二の次である。
同じ姿なら、安いほうが選ばれるのは道理だった。
イギリスの陶器がアメリカの風景を刷った皿で市場を覆っていた時代である。
顛末は皿の上のアメリカに書いた。
タッカーは、輸入磁器への関税を求めて運動した。
国産産業の保護をめぐる論争の、まさに最前線にいたのである。
保護関税は、当時のアメリカ政治を二分する大問題だった。
一つの窯の存亡が、国の産業政策と直結していた。
創業者ウィリアム・エリス・タッカーが世を去ると、一族が経営を継いだ。
しかし苦闘は続き、工場は1838年ごろに閉鎖されたと伝えられる。
品質では、輸入品に伍する水準に達していた。
それでも、価格の壁は越えられなかった。
「最初の成功」でさえ、十二年ほどしか続かなかった。
白い金は、それほどまでに割に合わない事業だった。
それでもタッカーの器は、国産磁器の最初の証拠として残った。
半世紀後の挑戦者たちは、その先例の上に立つことになる。
1876年、百年目の博覧会
舞台は再び、フィラデルフィアである。
1876年、建国百年を記念する万国博覧会が開かれた。
アメリカで開かれた、最初の本格的な万国博覧会である。
世界各国が出品し、数多くの観客が会場を訪れたと伝えられる。
会場には巨大な機械館が建ち、蒸気機関が呼び物になったと伝えられる。
進歩と発明こそが、この博覧会の主役だった。
《センチュリー・ヴァース》の浮き彫りの帯と、主題は響き合っている。
各国の産品と並んで、国産の機械と工芸が大々的に展示された。
博覧会は、国産工芸の力を内外に示す見本市でもあったのだ。
独立百年を迎えた国が、産業国家としての成人式を挙げた。
そう言ってよい舞台である。
冒頭の《センチュリー・ヴァース》は、この舞台のために作られた。
作り手のユニオン・ポーセリン・ワークスは、ブルックリンの磁器工場である。
所蔵記録は、この工場の活動期を1863年から1922年とする。
タッカーの窯の火が消えてから、40年近くが経っていた。
その間に国は鉄道で結ばれ、南北戦争を越え、工業国へ変貌していた。
磁器を取り巻く条件も、半世紀前とは違っていた。
二度目の挑戦は、最初から性格が違った。
輸入品に似せるのではなく、この国にしかない器を焼こうとしたのである。
タッカーの時代には、まだ選べなかった道である。
エジプトの文様が、ブルックリンの土に載る

同じ1876年のジャルディニエール、すなわち鉢形の花器である。
高さ33.8センチ。据え置きの、堂々とした大鉢である。
客間に観葉植物を飾る流行が、こうした大鉢の需要を支えた。
磁器は花を挿すだけでなく、緑を受ける器にもなった。
胴には、パピルスを様式化した文様が巡っている。
古代エジプトに取材した、いわゆるエジプト趣味の意匠である。
そこに、人物を表したレリーフの帯が組み合わされる。
古代の文様と近代の浮き彫りとの、折衷の器である。
欧州の一つの様式を丸ごと写すのではない。
世界中の意匠を素材として、自由に組み合わせている。
当時の欧米では、様式を選び組み合わせる折衷主義が盛んだった。
ブルックリンの窯は、その流行の最前線に立とうとしていた。
模倣から編集へ。作り手の姿勢が変わり始めていた。
貝と亀が、磁器になる

1879年の花瓶は、さらに奇想へ踏み込む。
高さ21.9センチ。器の姿そのものが、貝と亀をかたどっている。
巻貝の殻が立ち上がって、器の口になる。
足元には亀がうずくまり、器を支えている。
花瓶と呼ぶより、磁器でできた小さな彫刻である。
造形主任に彫刻家を置いた工場らしい仕事である。
食器の型をなぞる段階は、もう過ぎている。
磁器は、何でも作れる自在な素材になりつつあった。
白い金は、もはや遠い憧れの素材ではない。
手の内で遊べる、身近な素材になっていたのである。
記念碑が、土産物になる

そして博覧会の翌1877年、《センチュリー・ヴァース》の小型版が作られた。
高さ32.4センチ。大型版の半分あまりの背丈である。
こちらには、あざやかな彩色が施されている。
バイソンの把手も、ワシントンの横顔も、そのまま縮小されている。
手に取れる寸法になっても、意匠は省略されていない。
博覧会の記念碑は、家庭の棚に置ける記念品として商品化されたのである。
国の百年を、客間に飾りたい。その需要が、確かにあった。
大型版が国家の顔なら、小型版は家庭の記念である。
一つの原型が、公と私の両方に応えた。
記念の器が売り物になるところまで、国産磁器は来ていた。
見立て——輸入代替から、自己表現へ
二つの工場を、並べて見立てたい。
半世紀を隔てた、二つの挑戦である。
タッカーは、欧州の様式を国産の土で焼いた。
目標は輸入品の置き換えである。器の姿は、あくまで欧州のままだった。
それは怠慢ではなく、当時としては当然の戦略である。
顧客が求める器の姿が、そもそも欧州風だったからだ。
ユニオンは、国産の図像を国産の土で焼いた。
ワシントンの横顔、バイソンの頭、電信と機関車。
意匠そのものが、アメリカの物語である。
半世紀のあいだに、白い金は輸入代替の器から、自己表現の器に変わった。
これは、器だけの話ではないだろう。
同じ19世紀、アメリカの画家たちは自国の山河を描き始めていた。
ハドソン・リバー派と呼ばれる風景画の一派である。
欧州の名所ではなく、足元の渓谷と森を画布に載せる。
皿の上の国産化と、絵画の国産化。
二つは並走する、同じ時代の現象だったと考えられる。
自分の土で焼き、自分の風景を描く。
若い国が、ようやく自前の表現を手に入れつつあった。
引き取り——白い器の、その先へ
《センチュリー・ヴァース》を、もう一度見てほしい。
この花瓶は、単なる技術の見本ではない。
バイソンの頭は、よく見ればどこか愛嬌がある。
国家の威信を担いながら、この花瓶は生真面目一辺倒ではない。
自国の意匠を焼けるという自信が、遊び心の余白を生んだのだろう。
模倣に必死だった時代には、生まれにくい余裕である。
この後、アメリカの窯は白さを競う磁器から離れていく。
釉薬の偶然と土の味わいを楽しむ、美術陶器の時代が来るのである。
その物語は窯に委ねる——アメリカの美術陶器に続く。
白い金を自分の手で焼けるか、という百年の問い。
その答えは、一度の成功では出なかった。挑戦の連なりが、答えになった。
二つの工場の器は、いま同じ美術館の棚に並んでいる。




