カミーユ・ピサロの代表作と特徴——農村と都市をどう描き分けたのか
カミーユ・ピサロの代表作と特徴を、当サイトで公開中の五点から読み解きます。パリの大通り、冬の河岸、窓辺の農婦、画家の庭、そしてセザンヌの肖像。農村から都市へ移りながら変わらなかった絵の組み立てをたどる。

カミーユ・ピサロの代表作
人の集まるパリの大通りを、高い窓から見下ろした一群の絵である。
カミーユ・ピサロは、晩年に都市の連作を描いた。当サイトの在庫でも、その一点がいちばん人目を引く。

《イタリア人大通り、朝、陽光》は、パリの大通りを高い窓から見下ろした絵である。
空は描かれていない。画面の上の端まで、五、六階建ての石の建物が横に連なる。
大通りは画面を斜めに横切り、並木が二列に続く。枝先は淡い橙と桃色の細かな筆でけむって見える。
車道には馬車が入り乱れる。中ほどを緑の車体の二階建て乗合馬車が走り、屋根の上の席まで人で埋まる。
幌つきの辻馬車や、白い馬の引く車も見える。右の端には、丸屋根の小さな建物が立つ。
歩道の人は、一人ずつが小さな縦の点である。顔は描かれず、黒い外套と帽子だけが置かれる。
路面は灰と薄桃色で明るく、木の影が斜めに落ちる。日ざしの向きは、その影で分かる。
近くで見ると、絵具は短い筆の跡の集まりにすぎない。離れると、それが人混みと朝の光に変わる。
館の記録では、右下に署名と「97」の年記がある。
この絵はどこから描かれたか
パリのホテルの一室の窓からである。1897年の2月8日から4月25日まで、ピサロはグラン・オテル・ド・リュシーに泊まった。
ティッセン=ボルネミッサ美術館(マドリード)の解説では、宿はモンマルトル大通りとイタリア人大通りの両方に面していた。ここで描いた油彩は十六点である。
ロンドン・ナショナル・ギャラリーの解説では、そのうちモンマルトル大通りの眺めが十四点ある。残る二点が、イタリア人大通りを描いたものになる。
この絵は、その二点のうちの一つである。館の記録では、ピサロは同じ年の5月11日に、この絵を画商デュラン=リュエルへ売った。
翌1898年には、同じ画商の画廊で開かれたピサロ展に並んでいる。
同じ窓から、時刻と天気だけを変えて描き分けた。通りの地図を作るより、光の移り変わりを追うための連作である。
ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある《夜のモンマルトル大通り》も、この窓からの一点である。同館は、ピサロが描いたただ一つの夜景だとしている。
晩年の都市の絵はなぜ高い窓から描かれたのか
目の病が始まりである。1893年の春、ピサロは片目の膿瘍の治療のため、パリに留まって毎日通院した。
ティッセン=ボルネミッサ美術館の解説によれば、医師は通りの風と埃に目をさらさないよう勧めた。そこで駅の近くのホテルに部屋を借り、窓から街を描き始めた。
同じ形の連作は、その後十一回に及ぶ。ルーアン、ディエップ、ル・アーヴル、そして何度ものパリである。
1893年から亡くなる1903年までに、都市を描いた油彩は三百点を超える。画商デュラン=リュエルが連作をまとめて買い取ったことも、この仕事を支えた。
見下ろす視点は、好みであると同時に、晩年の仕事の条件でもあった。

《ルーヴル、午後、雨》も、高い場所から川を見下ろした一点である。
左手前は雨に濡れた河岸で、傘をさした人が数人歩く。敷石には、空の明るさが桃色と灰色で映り込む。
川には荷を積んだ艀と、煙を上げる小さな蒸気船が浮かぶ。奥に橋が架かり、その先にルーヴルの長い建物が続く。
館の記録では、翌1901年の5月に、これもデュラン=リュエルが画家から買い取っている。
ピサロの絵の特徴はどこにあるか
人や建物より先に、天気と時刻が決まっていることである。
題にも、それが表れている。《朝、陽光》や《午後、雨》のように、光の状態が題の一部になる。

三十年前の《冬のマルヌ河畔》を見ると、やり方の芯は早くからあったと分かる。
空が画面の上半分を占め、灰色の厚い雲の切れ間から白い雲がのぞく。
褐色の丘が、左から右へゆるやかに下る。ふもとには、白い壁の家と赤い煙突の建物が建つ。
手前には冬の畑が広がり、色はほぼ緑と褐色だけである。左の道には、葉のない細い木が一列に並ぶ。
その道を、暗い色の服の人影が一つ歩く。ピサロはこの人物を大きく描かない。
天気と地形が主で、人はその中の小さな印である。
シカゴ美術館の解説では、ピサロはここで絵具を厚く置き、しばしばパレットナイフを使った。クールベにならったやり方である。
同じ解説は、師のコローの牧歌的な風景から、わざと離れた絵だと読む。そびえる木も、光る池も描かれていない。
館の記録では、この絵は1866年のサロンに出品された。文献の一覧には、その年のゾラやカスタニャリのサロン評が並ぶ。
1928年の売り立てでは、ラ・ヴァレンヌ=サン=ティレールの風景という題で出ている。マルヌ川沿いの村の名である。
暗い絵だが、暗さの中に色がある。灰色の雲にも、青と褐色が混ざる。
点描を試した時期はあるか
ある。1880年代の半ば、年下のスーラやシニャックと組み、色を小さな点に分けて置く新印象派の方法を試した。
シカゴ美術館の解説では、その試みのあと、ピサロはもとの方向の定まらない筆づかいに戻った。1893年のパリの絵は、もうその筆で描かれている。
ただ、色を並べて響かせる考えは残った。晩年の大通りの絵でも、灰色の路面に桃色と青が細かく混ざっている。
点描を確立した画家の側からは、スーラの代表作の解説で扱っている。
なぜ農村を描き、のちに都市へ移ったのか
暮らしの場が農村にあり、晩年は目の病から都市の窓辺へ仕事場を移したためである。
ティッセン=ボルネミッサ美術館の解説は、フランスの農村を系統立てて描いたただ一人の印象派の画家だと述べる。
住んだ町の畑や小さな果樹園を描き続け、批判する人からはキャベツの画家とあだ名された。
生まれは1830年、カリブ海のセント・トーマス島である。ユダヤ系の家に生まれ、家業を継がずにフランスへ渡って画家を志した。
普仏戦争の前は、パリ西郊のルーヴシエンヌに家を借りていた。1870年から71年にかけて、一家は戦争を避けてロンドン郊外へ移った。

《水晶宮》は、その避難先で描いた一点である。
左に、ガラスと鉄の巨大な建物が青白く透ける。旗が風にはためき、手前の道を馬車と家族連れが行き交う。
右には、新しい赤煉瓦の家と塀が並ぶ。シカゴ美術館の解説は、名高い建物を左へ寄せ、郊外の暮らしと同じ広さを与えた構図だと読む。
戻ったルーヴシエンヌの家は、兵の宿と馬小屋に使われていた。
アイルランド・ナショナル・ギャラリーの解説では、二十年分にあたる千点を超える絵と素描が失われた。
1872年にはポントワーズへ移った。1884年にはエラニー=シュル=エプトへ移り、1903年に亡くなるまでそこを拠点にした。
リュクサンブール美術館の展覧会解説によれば、エラニーの家はモネの援助で買い取ったものである。
当サイトの在庫を年代順に並べると、その移り方がはっきり見える。畑と農家が続き、最後に大通りが来る。

《コーヒーを飲む若い農婦》では、窓辺の若い女が椀を持つ。左手で椀を支え、右手の匙で中を混ぜる。
顔は伏せられ、目は椀へ向く。こちらを見ることはない。
壁も服も、青と灰と桃色の短い筆触の集まりである。輪郭線はなく、色の粒だけで形が立つ。
シカゴ美術館の解説では、小さな筆跡を隣り合わせに置き、ところどころに厚い絵具を重ねている。
ざらついた表面が人物と背景を一つにし、毛織の服の手ざわりまで伝える。
窓の外には緑がのぞく。室内は青く沈み、女の頬と手だけが暖かい色で残る。
館の記録では、1881年の12月にデュラン=リュエルが画家から買い、翌年の第7回印象派展に出された。
同じ館には、この絵のための大きな下絵の素描も残る。ピサロの準備素描としては、いちばん大きいものだという。
農民を主題にしながら、物語も教訓も添えられていない。ある朝の一動作が、そのまま画面になっている。

《エラニーの画家の庭》は、住まいの庭をそのまま描いている。
手前は耕された畑で、赤茶の土に若い苗が並ぶ。その右寄りで一人が身をかがめ、土に手を伸ばす。
さらに右には、枯れ枝を円錐に束ねた山が立つ。中ほどには花壇があり、桃と赤と白の花が混ざる。
奥に向日葵が咲き、柳が垂れる。左には煉瓦の塀と家の屋根が見える。空は青く、白い雲が浮かぶ。
同じ1898年の初め、ピサロはパリのホテルの窓から、オペラ大通りの連作を描いていた。
庭と大通りは、同じ目で見られている。どちらも人は小さく、光と季節が主役になる。
畑の苗の列と、大通りの並木の列は、画面での役目が同じである。どちらも視線を奥へ運ぶ。
館の記録では、この絵は画家の没後、妻ジュリーに受け継がれた。1999年には、京都市美術館と東京都美術館を巡った同館の名品展にも出品されている。
印象派展でピサロはどんな役割を果たしたか
展覧会を最初から最後まで支えた画家である。1874年から1886年までの印象派展八回すべてに出品したのは、ピサロただ一人だった。

《花咲く果樹園、ルーヴシエンヌ》は、その第1回展に並んだ一点である。館の記録では、1874年の展覧会に「果樹園」の題で出品された。
左に、白い花をいっぱいにつけた木が一本立つ。その右には、まだ枝ばかりの木も混じる。
掘り返された赤褐色の土を、緑の草の細い帯が奥へ横切る。右の男は何かを抱えて歩き、左端では青い服の人がかがむ。
空は淡い青で、雲の縁が桃色を帯びる。花は、白と灰の小さな筆の点で置かれる。
館の記録では、この絵は描かれた1872年のうちに、デュラン=リュエルが画家から買い取っている。
1882年の第7回展には、ピサロは三十六点を出した。シカゴ美術館の解説では、そのうち二十七点が人物画である。
窓辺の農婦の絵は、この年に並んだ。風景の画家が、人物へ重心を移した年である。
同じ館の別の解説によれば、仲間がそれぞれの道へ散り始めたこの時期、ピサロはカイユボットとモネを説いて第7回展に加わらせた。
印象派という運動そのものについては、印象派とは何かの解説で扱っている。
セザンヌとの関係はどう残っているか
ピサロが描いた肖像の版画が、当サイトの在庫に残っている。

線だけで描かれた男が、帽子をかぶって斜めを向く。髭が濃く、目は画面の外を見る。
肩には厚い外套が掛かる。体の輪郭は少ない線で決められ、影は細い線の束で作られる。
油彩の筆触とは違い、ここでは線が形を担う。ピサロが版画も手がけたことが、この一点から分かる。
館の記録では、この一枚は1920年の第二版である。ピサロの没後に刷られたものになる。
描かれたのは、のちに近代絵画の父と呼ばれる画家である。
ニューヨーク近代美術館が2005年に開いた二人の展覧会の資料によれば、二人は1861年にパリで出会った。
1872年からは、セザンヌがピサロのそばで描くためにポントワーズへ移った。二人は1882年まで、ときに並んで同じ景色を描いた。
ピサロは、セザンヌがそこで自分の影響を受け、自分も彼の影響を受けたと語っている。影響は一方向ではなかった。
九歳年下のセザンヌは、のちに言った。ピサロが1870年ごろの描き方を続けていれば、我々の中でいちばん強かっただろう、と。
ピサロの絵はどこで見られるか
当サイトが扱えるのは、公開されている美術館の所蔵品である。
ナショナル・ギャラリー(ワシントン)にあるのは四点である。大通りの絵、画家の庭、ルーヴシエンヌの果樹園、雨のルーヴルがそろう。
館の記録では、大通りの絵は収集家チェスター・デールの旧蔵品である。1963年に遺贈され、館に入った。
《冬のマルヌ河畔》《コーヒーを飲む若い農婦》《水晶宮》はシカゴ美術館にある。《ポール・セザンヌの肖像》はクリーヴランド美術館の所蔵である。
当サイトの在庫には、このほかにもポントワーズやルーアンを描いた作品が多く並ぶ。畑、市場、川、橋が繰り返し現れる。
日本では、国立西洋美術館(東京・上野)がピサロの《収穫》を持つ。1882年の作で、カンヴァスにテンペラで描かれた横長の画面である。
館の記録では、寸法は70.3×126センチ。旧松方コレクションの一点で、松方幸次郎の遺族から1984年に寄贈された。展示されているかどうかは時期によるので、館の案内で確かめたい。
初めて見るなら、どこから見るとよいか
まず晩年の大通りの絵を見て、次に農村の絵へさかのぼるとよい。
大通りの絵は、離れて見ると人混みと光が一度に立ち上がる。そこから近づくと、筆の跡の粗さに驚く。
その目で農婦や果樹園の絵を見ると、同じ筆の置き方が、土や毛織の手ざわりを作っていると分かる。
同じ場所を何度も描くのが、この画家の仕事の形である。派手な題材を探すより、目の前の道と畑を描き続けた。
在庫を通して見ると、一点の傑作より連なりのほうが目に残る。季節と時刻を変えながら、同じ景色が何度も現れる。





