美術史・技法

宮廷肖像は誰に宛てて描かれたのか——37ミリの顔が語ること

宛先のある絵

ここに、風景画との根本的な違いがある。

風景画には、特定の宛先がない。誰が見ても同じ景色として成立する。買い手を選ぶことはあっても、「この人に見せるための絵」ではない。

肖像は違う。必ず誰かに向けて描かれる。相手の顔が分かるように、あるいは自分の格が伝わるように、宛先を想定して作られる。

だから宮廷肖像を見るときは、「誰が描かれているか」と同時に「誰に向けて描かれたか」を考えると、画面の作りが読みやすくなる。

なぜ手が描かれていないのか。なぜ背景が無地なのか。なぜ衣装だけ丁寧なのか。多くは、宛先から逆算して説明がつく。

美しいかどうかを先に問うと、この種の絵は評価しにくい。よそよそしい、硬い、表情がない。だがそれは、目的に対しては正しい作りなのである。

同じことは、現代の写真にも言える。証明写真と、家族に送る写真と、広告に使う写真。同じ顔でも、宛先が違えば撮り方が変わる。

四百年前の宮廷が抱えていた課題は、そう遠いものではない。誰にどう見せるかという問題は、顔の画像がある限りついて回る。

もっとも、宛先が記録に残っている作品ばかりではない。ここで述べたのは、画面の作りから読み取れる範囲の話である。

宛先が自分しかいない顔

比較のために、正反対の肖像を見ておきたい。自画像である。

Self-Portrait
レンブラント・ファン・レイン《自画像》1659年。黒い帽子、深く刻まれた皺、暗がりに沈む手。装身具も紋章も、示すべき身分も描かれていない。レンブラント・ファン・レイン《Self-Portrait》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵(CC0)

宮廷肖像との違いは、ほとんどすべての点に及ぶ。背景は無地だが、その無地は格を示すためではない。

衣装は簡素で、身分を語る記号がない。手は暗がりに埋もれ、何かを持ってもいない。

そして顔である。皺は隠されず、目の下のたるみも、赤らんだ鼻も、そのまま置かれている。

宮廷肖像なら、これらは削られる情報である。「格を落とさない仕上がり」という要求に、まるで合っていない。

なぜ削らないのか。宛先が違うからである。この絵は誰かに送るためのものではない。

自画像は、注文のない肖像である。相手の期待に合わせる必要がないぶん、何を描いてもよい。

だからこそ、この種の絵では画家の判断がむき出しになる。何を残し、何を捨てるかを、自分で決めるしかない。

宮廷肖像を見たあとにこれを見ると、その自由さが際立つ。同じ「顔の絵」でありながら、まったく別の制度の中にある。

肖像が語らないこと

読み取れるものを数えてきたが、語られないものにも目を向けたい。ここに、この種の絵の限界がある。

まず、体調である。宮廷の記録には、病がちだった、痩せていた、といった記述が残ることがある。しかし肖像はそれを写さない。

次に、年齢の進行である。公式の顔は、しばしば実年齢より若く保たれる。何年か前の型がそのまま使われることもあった。

そして、当人の意思である。この絵の中の人が、描かれることをどう思っていたかは分からない。

シャルル9世の肖像を思い出したい。十歳で王位に就き、宗教対立のただ中で二十代の若さで没した人物である。

その内面は、絵からは読めない。読めるのは、王家がどう見せたかったかだけである。

だから宮廷肖像を見るときには、「これは本人ではなく、本人の公式な姿である」と念を押しておくのがよい。

言い換えれば、肖像は自己申告書に近い。書かれていることは正しいかもしれないが、書かれていないことのほうが多い。

顔写真は、いまも文書である

ところで、私たちも顔の画像を実務に使い続けている。

免許証、旅券、社員証、そして各種の申請書類。そこに貼られる顔写真は、鑑賞のためのものではない。本人であることを示す文書の一部である。

規格も細かく決まっている。無帽、正面、無背景、六か月以内。個性を出す余地はほとんどない。宮廷肖像の王の顔が整えられていたのと、事情はよく似ている。

四百年前の宮廷肖像は、その遠い先祖にあたる。だから彼らの顔が少しよそよそしく見えるのは、当然のことなのである。

そのうえで、実務から切り離して見ると、また違って見えてくる。

用が済んだ道具は、しばしば別のものになる。古い地図が読み物になり、古い時刻表が資料になるのと同じことだ。

四百年前に交渉のために描かれた顔も、いまはただの顔として見ることができる。それは、この絵にとって二度目の人生のようなものである。

誰の顔かも分からなくなる

最後に、二度目の人生の別の面にも触れておきたい。名前が失われた顔のことである。

当サイトが扱う十六世紀の肖像には、《ある男の肖像》《ある女性の肖像》とだけ記録されたものが少なくない。

顔は残っているのに、誰であるかが分からない。実務の道具としては、機能を完全に失った状態である。

身分を示すために描かれた記号——綬や毛皮や紋章——が、いまでは持ち主を特定する手がかりとして使われる。役割が逆転している。

そして名前がないままでも、絵としては見られてしまう。私たちは、その人が誰かを知らずに、顔だけを眺めている。

これは肖像画にとって、少し残酷な状態かもしれない。伝えるべき相手も、伝えるべき内容も、もう存在しない。

それでも顔は残る。四百年前の誰かが、こういう顔をして、こういう衣装を着ていたという事実だけが、板の上に留まっている。

宮廷肖像を見る楽しみの半分は、そこにあると思う。目的を失った道具が、目的から自由になっている。

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