後頭部に、誰かの手が置かれている——アウワーテル、バウツほか絵画の断片
手の持ち主は、そこにいない。板がその手前で断たれているからである。切れた光輪、不定形の輪郭、断たれた丘。分類の欄の「断片」という語より、画面に残った一本の手のほうが直接に語る。番号が付いた瞬間に、断片は一件になる。そこに無いものを一緒に見る方法を考えたい。

分類の欄に、「絵画の断片」とある
メトロポリタン美術館の分類には、こういう種別がある。
「絵画、断片」。
絵画ではなく、絵画の断片。
もとは大きな絵だった。
その一部だけが残っている。
そして、その一部に番号が付き、一件として公開されている。
今回は、この種別を持つ七点と、他の館の二点を並べたい。
断片とは何か。
どこまでが断片で、どこからが作品なのか。
九点を見ていくと、その線引きが見えてくる。

まず、この一点である。
寸法は、縦九・八センチ、横八・九センチ。
手のひらに乗る大きさである。
画面には、男性の頭部がある。
禿げ上がった額、深い皺、伏し目がちの目。
首元に、青い襟が見える。
そして、画面の左上に別のものが写っている。
指である。
誰かの手が、この人物の後頭部に置かれている。
その手の持ち主は、ここにいない。
板が、その手前で断たれている。

こちらも、同じ構造をしている。
画面には、男性の上半身がある。
青い衣に、褐色の肩掛け。
手を胸の前で合わせている。
背後に、赤い垂れ幕。
そして、右上に手がある。
男性の肩に、誰かの手が置かれている。
その腕は、画面の外へ続いている。
腕の主は、ここにいない。
手だけが残る
この二点は、同じ場面の型を示している。
寄進者と、その守護聖人。
祭壇画には、注文した人が描き込まれることがある。
小さく、隅のほうに、跪いた姿で。
そして、その人の肩や頭に、聖人が手を置く。
聖人が寄進者を神へ取り次ぐ、という意味である。
大きな祭壇画が切られたとき、寄進者の部分だけが切り出された。
そのとき、聖人の手だけが一緒に残った。
つまり、この手は失われた聖人の痕跡である。
館の題は、そのことを踏まえている。
《聖人に導かれる寄進者》。
聖人は写っていないのに、題には入っている。
画面に無いものが、題に書かれている。
これは、前の回に見た「三枚続の左の一枚」と同じ構造である。
失われたものを、記録が指している。
縁を、切り詰める理由
なぜ、絵は切られるのか。
理由はいくつかある。
一つは、傷みである。
板の縁が割れたり、絵具が剥がれたりする。
傷んだ部分を切り落とせば、残りは見られる。
もう一つは、大きさである。
大きな祭壇画は、家に飾れない。
小さく切れば、飾れる。
そしてもう一つ、部分のほうが売れる場合がある。
人物の顔だけなら、肖像として通る。

題が《聖母の頭部》である。
頭部だけ、と題が言っている。
画面には、若い女性の顔がある。
正面をやや外れた向き。
伏せた目、閉じた口。
頭に、白い薄布をかぶっている。
肩のあたりに、赤い衣と、褐色の布。
そして、頭のうしろに淡い金の輪がある。
光輪である。
これがあるから、聖母だと分かる。
もとの絵には、抱かれた子どもがいたかもしれない。
まわりに聖人が並んでいたかもしれない。
いまは、顔だけである。
不定形、という寸法

寸法の欄に「不定形」という語がある。
四角くない、という意味である。
画像を見ると、板の輪郭が人物の形に沿っている。
頭の上が丸く、肩のあたりで斜めに落ち、下は直線に近い。
つまり、人物のまわりを切り抜いている。
画面には、青い衣の女性がいる。
顔は細長く、目が大きい。
胸の前に、小さな人物がいる。
赤と白の衣を着た子どもである。
背景は、金である。
金の上に、細い線で模様が引かれている。
もとは、もっと大きな板だっただろう。
まわりに、他の人物や、装飾があったはずである。
それを切り落とし、二人だけを残した。
前の回に見たホイッスラーの帖でも、はさみで切られた紙があった。
そこでは、切ることで大きさが決まっていた。
ここでも同じである。
切った人が、この作品の輪郭を決めている。
縁を、足す
切るのとは逆に、足す例もある。

寸法の欄が、二段になっている。
継ぎ足した板を含めた寸法と、描かれた面の寸法。
差は、縦で〇・九センチ、横で〇・九センチ。
一センチ足らずである。
つまり、縁にごく細い板が足されている。
なぜ足すのか。
額に収めるためだろう。
あるいは、切られた縁を補うためかもしれない。
画面には、若い女性がいる。
金の髪、深い緑の衣。
首元に、白い襟。
胸に、赤い印のようなものがある。
右手に、緑の棕櫚の枝を持っている。
背後は、暗い。
前の回に見たバロンツィオの板にも、継ぎ足しの記録があった。
断片には、切ることと足すことの両方が起きる。
光輪だけが、切れている

題に「おそらく」が入っている。
誰の像かが、確定していない。
画面には、髭のある男性がいる。
赤い衣に、緑の裏地の外套。
両手で、厚い本を持っている。
その本は、開かれている。
そして、頭のうしろに金の光輪がある。
背景も金である。
光輪の縁が、画面の上で切れている。
つまり、板の上部が切られている。
もとは、光輪の全体が入っていたはずである。
上を切ったせいで、光輪が断たれた。
この切れ方は、断片であることの明確な証拠である。
光輪を切る絵師はいない。

こちらは、人物ではなく場面の断片である。
雪の丘が、画面を斜めに横切っている。
その上を、一群の人物が右から左へ進んでいる。
馬に乗る人、歩く人、荷を運ぶ人。
犬が数匹、先を走っている。
上に、青い空と、白い星。
空を、鳥が横切っている。
丘の向こうに、赤い壁の町が見える。
寸法は、縦二一・六センチ、横二九・八センチ。
小さい。
この画面の下に、続きがあったと考えられている。
旅の行き着く先の場面である。
上下に切られた、その上半分だけがここにある。
五つの寄贈と、五つの名
九点の出所の行を並べると、いずれも個人の名が入っている。
レーマン氏の遺贈。アルトマン氏の遺贈。フリードサム氏の遺贈。
モルガン氏の寄贈。グリッグス氏の遺贈。シュトラウス氏の寄贈。
アーノルド氏の遺贈。ゲティ氏とハッチンソン氏の寄贈。
館が購入したものは、九点のなかに一つもない。
すべて寄贈か遺贈である。
これは、断片という性格と関係があるかもしれない。
館が予算を使って買うのは、たいてい完全な作品である。
断片は、個人の蒐集のなかにあり、その蒐集ごと館へ移る。
もっとも、これは九点だけからの印象である。
館全体の傾向とは限らない。
そして、寄贈者の名は作品と関係がない。
描いた人でも、描かれた人でもない。
館へ渡す道筋に関わった人である。
前の回にも同じことを書いた。
出所の行は、作品の記録であると同時に、人の記録でもある。
断片を見るとは、そこに無いものを一緒に見ることである。
断片を、どう見せるか
当サイトは、九点をそれぞれ一件として公開している。
そして画像は、断片そのものを写している。
まわりに、失われた部分は写らない。
当然である。
無いものは写せない。
そのぶん、記述で補うしかない。
分類の欄の「断片」という語。
題に入った「聖人に導かれる」という一句。
寸法の欄の「不定形」や「継ぎ足した板を含めて」という断り。
これらを読めば、画像に写っていないものが分かる。
そして、画面のなかにも手がかりがある。
置かれた手。切れた光輪。断たれた丘。
見ることと読むことを合わせれば、断片は断片として読める。
一件という単位のなかに、失われた全体が影として含まれている。
全体は、どこにあるのか
九点のいずれについても、もとの全体がどこにあるかは書かれていない。
失われたのか、別の場所にあるのか。
分からない。
分かっていれば、記録に書かれるだろう。
前の回に見た祭壇画の板では、連作の名が記録に残っていた。
「サン・ラザロ祭壇画の四枚の板」。
そこまで分かっている例もある。
断片の場合、そこまで分からないことが多い。
切られてから長い時間がたち、経路も途切れている。
だから、種別の欄に「断片」とだけ書く。
それ以上は書けない。
書けないことを書かないのも、記録の作法である。
絵画以外の断片
断片という語は、絵画以外にも使われる。

金の細工が、横に長く並んでいる。
同じ形の飾りが、十四ほど連なっている。
一つ一つが、渦を巻いた形をしている。
そのあいだを、細い金の輪がつないでいる。
これは、首飾りの一部である。
もとは、輪になっていた。
いま残っているのは、その一部分である。
だから、両端が断たれている。
寸法の欄には、小さな不備がある。
一一・五センチ掛ける一・六センチ、と書いたあとに、別の単位の数字が続いている。
その数字を換算すると、一一・四センチ掛ける七・六センチになる。
横は近いが、縦が合わない。
記入の誤りだろう。
館の記録には、こういう揺れが残る。
前の回にも、年の数字が一つ落ちている例を見た。
断片の裏に、断片がある

九点でいちばん変わった一件である。
まず、番号に「裏」が付いている。
紙の裏面である。
そして技法の欄に「断片」とある。
つまり、断片の裏面ということになる。
画像には、木立の風景が写っている。
大きな樹が数本、枝を広げている。
その下に、柵らしいものがある。
上に、細い文字が横に並んでいる。
題は《市庁舎》だが、画像に建物は見えない。
表の面に、市庁舎が描かれているのだろう。
裏には、樹の習作がある。
一枚の紙の、表と裏で内容が違う。
これは、前の回に見た写生帖と同じ状況である。
そして、その紙が断片である。
もとは、もっと大きな紙だった。
技法の欄の「アクアチント」は、版画の技法である。
版で摺った上に、水彩で加筆したものだろう。
上下に切られた、旅の場面
サセッタの《東方三博士の旅》について、もう少し書いておきたい。
縦二一・六センチ、横二九・八センチ。
横長である。
そして、画面の下端で丘が断ち切られている。
丘の斜面が続く途中で、板が終わっている。
上端には、空がある。
星が一つ、白く光っている。
つまり、上は自然に終わり、下は断たれている。
これは、下に続きがあったことを示す。
三博士の旅は、行き着く先がある。
その場面が、下にあったと考えられている。
一枚の板に、上下二段の場面を描く。
上に旅、下に到着。
こういう構成は、当時の板絵にある。
そして、上下に切れば、二つの場面が二枚になる。
前の回に見たプレデッラの板では、横に並んだ板が切り離されていた。
こちらは、縦に切られている。
切る方向が違うだけで、起きていることは同じである。
一つのまとまりが、複数の一件になる。
大きさの幅が、七倍以上ある
九点の面積を比べてみたい。
いちばん小さいのは、寄進者の頭部である。
縦九・八センチ、横八・九センチ。
面積にすれば、約八七平方センチ。
いちばん大きいのは、聖母子の板である。
縦七四・九センチ、横四六・四センチ。
面積は約三四七〇平方センチ。
四十倍の差がある。
同じ「絵画の断片」という種別のなかに、これだけの幅がある。
大きさは、切られ方で決まる。
頭だけを残せば小さくなり、二人ぶんを残せば大きくなる。
そして、切る側の判断は、市場の都合で決まっただろう。
顔だけのほうが売りやすい時代もあれば、場面ごとのほうが好まれた時代もある。
九点の受入年は、一九一三年から一九六五年に散らばっている。
しかし、切られた時期は、そのずっと前である。
十八世紀か、十九世紀か。
記録には書かれていない。
分かるのは、館に入った時点ですでに断片だった、ということだけである。
金の地が、切り口を目立たせる
七点のうち、三点が金の地である。
そして、金の地は切り口を目立たせる。
なぜかといえば、金箔は板の全面に貼られているからである。
切れば、金の面が断たれる。
その断面が、画面の縁に現れる。
さらに、金の地には模様が打たれていることがある。
細い針で点を打ち、輪を描く。
その模様が途中で切れていれば、断片だと分かる。
ヴィヴァリーニの一点では、光輪の縁が上で切れていた。
これは、金の模様が切れている例である。
一方、暗い背景の絵では、切り口が目立たない。
バウツの一点も、モンターニャの一点も、背景が暗い。
切っても、縁が分かりにくい。
だから、こちらは分類の欄に頼るしかない。
「絵画、断片」という語がなければ、完結した小品に見える。
素材によって、断片であることの見えやすさが違う。
断片は、いつ作品になるか
九点を通して、一つの問いが浮かぶ。
断片は、いつ「作品」になるのか。
答えは単純である。
番号が付いたときである。
館が受け入れ、番号を与え、題を付ける。
その瞬間から、一件になる。
九・八センチ四方の頭部も、一件である。
首飾りの一部も、一件である。
紙の裏の樹の習作も、一件である。
大きさも、完成度も、関係がない。
そして、館は「断片」という語を分類の欄に残す。
残すことで、これが全体ではないと示す。
残さなければ、九・八センチの頭部は、そういう小さな絵に見える。
題に、疑問符が入る
九点のうち二点の題に、確からしさの表示がある。
《読書する聖人、おそらく聖マルコ》。
もう一点は、館の分類そのものに「おそらく」が入る。
断片では、誰が描かれているかの判断が難しくなる。
理由は単純である。
手がかりが切り落とされているからである。
聖人には、それぞれ決まった持ち物がある。
その持ち物が画面に残っていれば、誰かが分かる。
残っていなければ、分からない。
読書する聖人は、本を持っている。
しかし、本を持つ聖人は何人もいる。
だから「おそらく」が付く。
一方、モンターニャの一点は、聖ユスティナと断定されている。
胸に、赤い印のようなものがある。
その印が、この聖人の目印になっている。
つまり、目印が残ったかどうかで、断定できるかどうかが変わる。
切り方の偶然が、記録の確からしさを左右している。
断片という言葉を、使うかどうか
面白いのは、館によってこの語の使い方が違うことである。
メトロポリタン美術館は、分類の欄に「絵画、断片」と書く。
七点とも、この種別である。
ナショナル・ギャラリー、ワシントンでは、この種別を見かけない。
前の回に扱った祭壇画の板も、分類は「絵画」だった。
かわりに、題に位置を書き、寸法の欄に構成を書いていた。
同じ状況を、別の欄で表している。
どちらが良いということではない。
分類の欄に書けば、一覧で絞り込める。
題や寸法に書けば、より細かい情報が入る。
そして、当サイトはどちらの記録も、そのまま引き継いでいる。
書き換えて統一することもできるが、そうはしていない。
もとの記録との対応を保つためである。
前の回にも、同じ方針について書いた。
揃えると読みやすくなるが、遡れなくなる。
手が、記録より雄弁である
最後に、いちばん強い証拠について書いておきたい。
寄進者の頭に置かれた、あの手である。
分類の欄を読まなくても、あの手を見れば分かる。
これは全体ではない。
隣に、誰かがいた。
記録の語より、画面のなかの一本の手のほうが、直接に語る。
そして、その手は消せない。
切られた板に、残ってしまった。
切った人は、たぶん邪魔だと思っただろう。
それでも、寄進者の顔を残すには、手も残るしかなかった。
失われたものの痕跡が、こういう形で残ることがある。
前の回に見た三枚続では、端で切れた衣がそれだった。
祭壇画の断片では、置かれた手である。
そして、その痕跡があるかぎり、断片は断片として読める。


