自画像だけ、なぜ目が合うのか——ジロデ・フィスハー・ラビーユ=ギアールほか九点
大きさの幅が、極端である
九点の寸法を並べたい。
いちばん小さい一点から見る。

この種の小さな肖像には、持ち歩くという用途があった。
自分の顔をこの大きさで残す理由は、いくつか考えられる。
家族に渡すため。
離れて暮らす相手に送るため。
あるいは、腕前を見せる見本として。
館の記録は、そのどれとも書いていない。
書いてあるのは、材料と寸法と、受け入れの年である。
縦6センチ、横5センチである。
切手を四枚並べたくらいの大きさだ。
楕円の画面が、金の縁に収められている。
上に吊り環がついている。
描かれているのは、黒い上着の若い男である。
首に白い布を高く巻く。
巻き毛が耳を隠す。
背景は灰色がかった緑である。
この大きさで、瞳と、その中の光の点まで描かれている。
支持体は象牙である。
薄く削った象牙板に、水彩で描く。
象牙は表面が滑らかで、絵具をはじく。
だから、点を重ねるようにして色を置く。
近くで見ると、細かい点の集まりに見えるはずである。
第十六回で、細密画の見方を扱った。
小さい絵は、近づかないと始まらない。

館の記録は、二人の弟子の名と生没年を題に入れている。
一人は1761年生まれ、もう一人は1765年生まれである。
そして、後者は1788年に亡くなっている。
この絵が描かれた三年後である。
題の括弧に入った数字が、そのことを示す。
記録は、そこまでしか書かない。
こちらは、縦210.8センチである。
人の背丈より高い。
先の象牙の一点と比べると、縦の長さが三十五倍になる。
同じ「自画像」という語が、この幅を覆っている。
画面の中身も、規模が違う。
画架の前に、女性が椅子に掛けている。
左手にパレットと絵筆の束を持つ。
右手に一本の筆を握る。
大きく張り出した青いドレスを着て、羽根飾りのついた帽子をかぶる。
そして、その後ろに二人の女性が立つ。
一人は身を乗り出して画面をのぞく。
もう一人は、その肩の向こうから見ている。
館の記録は、二人の名と生没年を題に入れている。
弟子だと記されている。
つまりこれは、自分ひとりの絵ではない。
教える立場にある人として、自分を描いている。
画架は、こちらに背を向けて立つ。
だから、描かれている絵は見えない。
見えるのは、描いている姿だけである。
道具が写ると、職業が写る
九点のうち、絵の道具が写るのは二点である。
一つは今の一点。
もう一つは、写真である。

ダゲレオタイプは、銀を張った銅板に像を作る技法である。
板を磨き、薬で感光させ、光を当てる。
そのあと、水銀の蒸気で像を出す。
紙の写真と違い、陰画を作らない。
板そのものが一点の像になる。
だから、複製ができない。
そして、この技法には一つの性質がある。
出来上がった像は、左右が反転している。
鏡に映った姿が、そのまま板に残る。
つまり、この自画像は二重の意味で鏡像である。
鏡を使わずに撮っても、像は反転する。
九点のうち、反転が確実に起きているのは、この一点だけである。
金属の板に直接像が焼き付けられている。
角の丸い長方形が、金色の縁に囲まれる。
写っているのは、椅子に掛けた男である。
髭をたくわえ、こちらを見る。
左に、木の画架らしいものが立つ。
背景には、棚と、道具のようなものが並ぶ。
足元に、水煙草の器が置かれている。
厚い外套のようなものを着ている。
館の記録によれば、この人は肖像画家だという。
そして、この写真は画室の宣伝として作られた可能性があると書く。
絵より安く肖像を求める客に、写真を売ったのではないかという。
これは館の見解である。
こちらで確かめられるのは、道具に囲まれて座っている、ということだ。
写真の自画像には、絵にない手順がある。
自分でしかけて、自分でその前に座る。
そして、写る時間だけ動かずにいる。
この時期の感光板は、長い時間の露光を要した。
だから、写された人は動けない。
顔つきが硬くなるのは、そのためでもある。
扮装した自分

この一点だけ、当サイトの記録に寸法の出所が違う。
館の記録では、縦91.5センチ、横61.5センチである。
九点のなかでは、二番目に大きい。
暗い背景の前に、男が立つ。
全身が入っている。
九点で、全身が描かれるのはこの一点だけである。
衣は、赤と金の模様が織り出された長い上着。
その上に、黒い外套を肩から掛ける。
腰に帯を締め、そこに手を置く。
髪は肩まで伸び、髭がある。
顔はこちらを向き、目が合う。
題によれば、これは劇の登場人物の扮装である。
つまり、自分でありながら、自分ではない姿を描いている。
自画像には、この種のものが少なくない。
作った人の顔を使いながら、別の役を演じさせる。
そのとき、自画像は肖像から離れていく。
誰かを記録するためではなく、何かを演じるための絵になる。