自画像だけ、なぜ目が合うのか——ジロデ・フィスハー・ラビーユ=ギアールほか九点
前の回で、肖像の目が合うのは九点中五点だった。自画像では、合わないのが一点しかない。理由は鏡にある。鏡を見て描けば、必ず自分と目が合う。九点で、その仕組みと大きさの幅を測りたい。写真の一点も並ぶ。九点のうち、老年の自画像は一つもなかった。

鏡の中の自分と、目が合っている
褐色がかった紙に、若い男が描かれている。
つばの広い帽子をかぶる。
帽子の下から、巻き毛が左右にはみ出す。
首には、細かい襞のある布が巻かれている。
上着の襟が、肩のあたりで大きく開く。
顔はやや斜めを向く。
だが、目はまっすぐこちらへ来る。
強い目つきである。
見られているというより、こちらを見定めている感じがする。

館の記録は、技法を細かく書いている。
黒チョークで描き、こすってぼかす。
その上に、白い不透明水彩を少しだけ置く。
明るいところを起こすためである。
紙と台紙の寸法が、まったく同じに書かれている。
紙の裏に、同じ大きさの紙が貼られているらしい。
薄い紙を補強するときの、よくある処置である。
館の記録によれば、これは二十代の作である。
賞を受けてイタリアに滞在していたころに描いたという。
そして館は、同じ時期に自分の姿を何度も描いたと書く。
これらは館の見解である。
こちらで確かめられるのは、画面の中身までだ。
紙は縦21.6センチ、横17.5センチ。
手のひらより少し大きいくらいである。
前の回で、肖像の視線を数えた。
視線の話では、目が合うのは九点中五点だった。
今回は、自分で自分を描いた九点を並べる。
そして、数えて驚いた。
目が合わないのは、九点のうち一点だけだった。
八点は、まっすぐこちらを見ている。
なぜ、自画像だけこうなるのか。
鏡を見れば、必ず目が合う
理由は、たぶん単純である。
自分の顔を描くには、鏡が要る。
鏡を見ながら描くとき、描く人は自分と目を合わせる。
目を合わせなければ、目が見えないからだ。
だから、描かれた顔は正面を向く。
そして、その正面は、鏡の前に立った本人へ向いている。
絵になったとき、その視線は見る側へ移る。
つまり、自画像の目が合うのは、作り方の結果である。
意図というより、手順の副産物に近い。

技法の欄に、二つの語が並んでいる。
エッチングと、エングレーヴィングである。
エッチングは、薬で金属を腐食させて溝を作る。
エングレーヴィングは、刃物で直接彫る。
腐食の線はやわらかく、彫った線は硬い。
一枚の版で、両方を使うことがある。
輪郭を彫り、陰を腐食で作る、といった具合である。
この一点でも、線の性格が場所によって違って見える。
顔のまわりは細く均一で、背景は太く規則的である。
黒い帽子をかぶった若い男である。
つばが広く、頭の上が平らに近い。
帽子の下から、髪が肩まで垂れる。
白い襟が、胸の前で二つに割れる。
外套の前を、右手で軽く押さえている。
背景は、斜めの線を並べて作られている。
線の間隔で、明るさが変わる。
顔はこちらを向き、目が合う。
画面の下には、文字が刷られている。
作者の名と、制作の年が読める。
ここで一つ、面倒な問題が出る。
版画は、刷ると左右が反転する。
版に描いた向きと、紙に出る向きは逆になる。
鏡を見て版に描けば、鏡の像がさらに反転する。
つまり、刷り上がりは実物と同じ向きに戻る。
逆に、鏡の像をそのまま出したければ、版では裏返して描く必要がある。
どちらを選んだかは、画像からは分からない。
館の記録も、そこには触れていない。
分かるのは、こちらを向いた顔がある、ということだけである。

版画には、途中の段階を刷って確かめる習慣がある。
線を足すたびに、一枚刷って様子を見る。
その途中の刷りが、そのまま残ることがある。
この一点も、そうした段階の一枚かもしれない。
ただし、館の記録はそこに触れていない。
書かれているのは、技法と、受け入れの基金だけである。
だから、途中なのか、これで完成なのかは決められない。
九点でいちばん、紙が空いている一点である。
上のほうに、頭部だけが刻まれている。
巻き毛が広がり、口髭と顎髭がある。
顔はやや左を向き、目はこちらへ来る。
首から下は、線が数本あるだけだ。
肩の位置が、かすかに分かる程度である。
紙の下半分は、まったくの白である。
館の記録には、寸法が入っていない。
紙の大きさも、版の大きさも書かれていない。
技法だけが「エッチング」と記される。
これは珍しい。
九点のうち、寸法欄が空なのは、この一点だけである。
第十三回で、記録の欄の書かれ方を並べた。
書かれない欄があると、比べることができなくなる。
ここでも、大きさの比較からこの一点は外れる。
目を合わせない、ただ一点

黒い髪が、頭の上で大きく膨らむ。
濃い髭が、顎と口のまわりを覆う。
黒っぽい上着を着ている。
背景は、暗い茶と緑が混ざった面である。
そして、目が下を向いている。
こちらを見ていない。
九点で唯一、視線が外れる一点である。
館の記録は、この点について書いている。
同じ作者の別の自画像と比べる書き方をしている。
そちらは明るい色で、目もこちらを向くという。
こちらは色が沈み、目が下を向く。
館は、そこに気分の違いを読んでいる。
これは館の見解である。
こちらで言えるのは、視線が下がっている、という事実までだ。
ただ、作り方から考えると、少し不思議ではある。
鏡を見ずに、目を伏せた自分は描けない。
伏せた瞬間、鏡の中の顔は見えなくなる。
だから、この一点は記憶か、別の下絵から起こしたのかもしれない。
あるいは、目だけをあとで描き変えたのかもしれない。
どちらかは分からない。
分かるのは、鏡をそのまま写した絵ではない、ということである。