自画像だけ、なぜ目が合うのか——ジロデ・フィスハー・ラビーユ=ギアールほか九点

出所の行に、大きな名前がある。
二十世紀前半に集められた一括の一部として、館に入った。
その一括は、館そのものの土台になった収集である。
第十八回で、その経路を扱った。
最後の一点は、いちばん普通の作りである。
暗い背景に、半身の男が浮かぶ。
黒い上着に、白いシャツ。
首に黒い布を巻く。
髪は短く、額が広い。
顔はやや右を向き、目はこちらへ来る。
道具も、扮装も、弟子もいない。
顔だけで成り立っている。
前の回で並べた肖像と、見分けがつかない。
自画像であることは、題を読まなければ分からない。
これが、自画像の大部分の姿だと思う。
作った人と描かれた人が同じ、というだけの違いである。
背景を、どう処理しているか
九点の背景を数えた。
暗い一色で塗るものが四点である。
ハーディング、ギヨマン、ハーター、そして象牙の一点。
線で作るものが一点。
フィスハーの版画である。
紙をそのまま残すものが二点。
ジロデの素描と、ヴァン・ダイクの版画。
室内を描き込むものが二点。
弟子のいる大画面と、画室の写真である。
つまり、七点は背景を作っていない。
顔と上半身だけで成立させている。
前の二回でも、同じ傾向が出ていた。
横顔の話でも、背景を作らない例が半分近くあった。
人の顔を主題にするとき、背景は邪魔になりやすい。
暗く塗るか、紙のまま残すか。
そのどちらかで済ませる例が多い。
例外は、道具や人を写し込む二点である。
そちらでは、背景そのものが情報になっている。
画架があれば、絵を描く人だと分かる。
弟子が立っていれば、教える人だと分かる。
背景を描くのは、顔以外のことを言いたいときである。
九点を並べて、数えられたこと
目が合うものが八点、合わないものが一点。
前の回の肖像は、五点と四点だった。
自画像だけが、片側に大きく寄っている。
大きさを数えた。
縦6センチから210.8センチまで、三十五倍の幅がある。
材料を数えた。
布が四点、紙が二点、象牙が一点、金属板が一点。
一点は、記録に材料の寸法がない。
道具が写るものは二点。
扮装したものが一点。
全身が入るものが一点。
残る六点は、顔と上半身だけである。
自画像は、いつ描かれるか
九点の制作年と、作った人の生年を突き合わせた。
分かる範囲で、描いたときの年齢を出せる。
ジロデは1767年生まれで、1790年ごろの作。
二十三歳前後である。
フィスハーは1629年ごろ生まれで、1649年の作。
二十歳前後になる。
ヴァン・ダイクは1599年生まれで、1645年の作とされる。
ただし、この人は1641年に亡くなっている。
つまり、年の記録と生没年が合わない。
版が刷られた年か、版が作られた年か。
どちらを書いているかで、意味が変わる。
館の記録は、そこを区別していない。
ギヨマンは1841年生まれ、1872年ごろの作。
三十代前半である。
コルディエやドラールも、同じくらいの年齢で撮っている。
九点のうち、老年の自画像は一つもない。
これは偶然かもしれない。
だが、若いうちの自画像が多く残るのには理由も考えられる。
修業の時期は、人を雇って写す金がない。
そういう説明を聞くことがある。
ただし、これは伝聞である。
九点の記録には、そうした事情は何も書かれていない。
分かるのは、九点のうち六点が三十代までの作らしい、ということだけだ。
自分を描くことは、記録に残る
自画像は、記録の上でも特別な扱いを受ける。
作者の欄と、描かれた人の欄が一致するからである。
館の記録は、ふつう描かれた人の欄を持たない。
持つのは、題の中だけである。
「誰それの肖像」と書けば、そこに人名が入る。
自画像の場合、その人名は作者と同じになる。
だから、題は「自画像」の一語で済む。
九点のうち、七点の題が「自画像」だけだった。
残る二点は、状況が加わる。
一つは「帽子をかぶった自画像」。
もう一つは「画室での自画像」。
そして「扮装をした自画像」が一点。
いずれも、自分を描いた点は同じである。
違うのは、どんな状況に置いたかだけだ。
題の長さが、そのまま画面の情報量に対応している。
短い題の七点は、顔と上半身しかない。
長い題の二点は、帽子や画室が加わる。
これは、記録の書き方の問題でもある。
画面に何かがあれば、題に書く。
なければ、書かない。
題は、画面の要約として働いている。
記録に書かれていないこと
自画像であることは、たいてい題に書かれる。
九点とも、題に「自画像」の語が入る。
これは、ほかの主題と違うところである。
顔の向きも、視線も、記録には載らない。
だが「自分を描いた」という一点だけは、必ず記録される。
なぜかといえば、それが作者の欄と重なるからだ。
作者の欄と、描かれた人の欄が同じになる。
記録の側から見ると、そこが例外なのである。
そして、鏡があったかどうかは、どの記録にも書かれていない。
鏡を使ったに違いない、とこちらが考えているだけである。
第十九回で、鏡そのものを描いた絵は別に扱う予定である。
描いた人が誰かは、記録の中心にある。
描かれた人が誰かは、そのついでに残る。
次の回は、髪と頭を見る。
結い方と被り物で、人の見え方がどう変わるかを数えたい。










