番号が二つ、記録は一つ——鈴木其一、俵屋宗達ほか六曲一双の屏風
十二面を、一枚の画像で見ることはできない
一双の屏風を全部見ようとすると、問題が起きる。
横が七メートルを超える。
一枚の画像に収めれば、細部が消える。
分けて撮れば、つながりが消える。
館は、一隻ずつ撮ることを選んでいる。
そして、そのうち一隻を公開している。
つまり、私たちが見られるのは半分である。
もう半分は、記録の文字のなかにしかない。
「六曲一双」という技法の欄と、読点でつながれた二つの番号。
それが、見えていない一隻の存在を示している。
これは、ここまで何度も出てきた状況である。
十八葉の画帖で、一葉しか見えない。
二十メートルの巻子で、六十センチしか見えない。
一双の屏風で、一隻しか見えない。
一件という単位が大きいほど、見える割合は小さくなる。
そして、見えない部分の量は、記録の数字から計算できる。
計算してはじめて、何を見ていないかが分かる。
一双は、左右で違うことを描く

この一件の題は、二つの主題を並べている。
一方は、山にこもった四人の老人が宮廷に戻る話。
他方は、詩人が舟で出かける話。
館の記録は、どちらが左でどちらが右かを書いている。
つまり、一双の左右で別の物語を描いている。
これは、屏風では珍しくない。
左右で対になる主題を選ぶ。
春と秋。花と鳥。山と水。
あるいは、二つの故事。
そして、二つで一つの意味を作る。
画像に写っているのは、そのうちの一隻である。
金の地に、青い水と緑の岩。
左に、白い衣の人物が数人。
右に、建物と、緑の松。
もう一隻は写っていない。
だから、この一件の意味の半分は、画像からは見えない。
一隻しか写らない、ということ
九点すべてで、公開されている画像は一隻ぶんである。
これは、当サイトの都合ではない。
館が公開している画像が、そうなっている。
理由は想像できる。
二隻を並べて撮ると、横が七メートルを超える。
一枚の画像に収めると、細部が小さくなりすぎる。
だから、一隻ずつ撮る。
そして、代表として一隻を公開する。
前の回に見た画帖と、同じ状況である。
一件にまとめると、中身の一部しか見えない。

淡い金の地に、秋の草が描かれている。
左のほうに、大きな半円がある。
月である。
半分だけが見えている。
暗い色で塗られ、まわりの金と対比している。
そして、草は右へ向かって続く。
薄と、萩と、小さな花。
面と面の境目を越えて、草が広がっていく。
技法の欄に「銀」とある。
月は銀で摺られていた可能性がある。
銀は時間がたつと黒く変わる。
いま暗く見えるのは、そのためかもしれない。
館の記録は、そこまで書いていない。
詩の紙が、貼られている

この一隻は、作りが変わっている。
上下二段に分かれている。
上の段に、六枚の紙が横に並んでいる。
そこに、漢詩が書かれている。
下の段には、六つの楕円形の枠がある。
その中に、花と鳥が描かれている。
一つの枠に、一つの月の花鳥。
六つ並べて、六か月ぶんになる。
一双なら、十二か月がそろう。
題の《十二か月の花鳥》は、そういう意味である。
そして年の欄には、変わった書き方がある。
「十六世紀、詩の紙のうち一枚に一五五三年の年記」。
屏風全体の年は十六世紀とだけ書き、貼られた紙の一枚に年があると添えている。
紙は、後から貼られたものかもしれない。
だから、紙の年と屏風の年を分けて書いている。
一件のなかに、年の違うものが混じっている。
墨だけの一双

金地ではなく、紙の地に墨だけである。
左に、崖と木。
その枝に、猿が数匹しがみついている。
腕を伸ばし、尾を垂らしている。
右へ向かって、岩と水と霞が続く。
面の境目が、はっきり見える。
そして、絵はやはり境目をまたいでいる。
墨だけの屏風は、金地の屏風とは印象がまるで違う。
明るさが低く、余白が広い。
部屋を明るくする役には立たない。
かわりに、静かな場を作る。

こちらも墨だけである。
低い山が、横に連なっている。
手前に水面、奥に霞。
木立が点々と並び、小さな建物が見える。
前の回にも出てきた瀟湘八景が、題に入っている。
八つの景色を、六面の屏風に配している。
一双なら十二面だから、八景を余裕をもって収められる。

題が、二つの主題を並べている。
松と鷹と椿。柳と小鳥と椿。
左右で対になっている。
一方に鷹、他方に小鳥。
一方に松、他方に柳。
そして、どちらにも椿がある。
共通するものを一つ置き、対比するものを二つ置く。
一双の主題の作り方として、よくできている。
画像に写っている一隻には、松と鷹が描かれている。
太い幹が右から左へ伸び、その上に鷹が止まっている。
下に、白い花の咲く低木。