美術史・技法

アメリカはなぜ、荒野を歴史画の大きさで描いたのか——トマス・コール《オックスボウ》

風景は、説教でもあった

コールが本当に描きたかったものは、風景そのものではなかった可能性が高い。

ホワイト山地の峠と呼ばれる山道の眺め(クロフォード・ノッチ)
《ホワイト山地の峠と呼ばれる山道の眺め(クロフォード・ノッチ)》1839年。嵐の去った峡谷。中央に小さな家、右手前に馬を駆る人物。トマス・コール《ホワイト山地の峠と呼ばれる山道の眺め(クロフォード・ノッチ)》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

《クロフォード・ノッチ》では、巨大な山塊の谷底に、小屋がぽつんと置かれている。

人間の営みは、風景に対してあまりに小さい。この対比が、この時代の画面の基本の構えである。

彼はまた、明確な寓意画も描いた。

人生の航路——老年
《人生の航路——老年》1842年。四点組の最後の一枚。舟に乗った老人が、暗い海へ出ていく。空には光が差している。トマス・コール《人生の航路——老年》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

〈人生の航路〉は四枚組の連作で、幼年・青年・壮年・老年と、人の一生を舟の旅にたとえている。

風景の形をしているが、中身は説教である。この作品は当時の観客に非常に受けた。

コールは、開拓と伐採の進行に批判的だった。文章でも、アメリカの原生林が急速に失われることを嘆いている。

《オックスボウ》と同じ1836年、彼は「アメリカの風景についての試論」と題した文章を発表している。

そこで彼が主張したのは、およそ次のようなことである。ヨーロッパの風景は人の手が入りすぎている。アメリカにはまだ、原初の姿をとどめた自然がある。それは誇るべきものだ。しかし、斧はすでに森に入っている。

同じ時期、彼は〈帝国の推移〉という五枚組の連作にも取りかかっていた。未開の地に国家が興り、繁栄し、贅沢に堕ち、破壊され、廃墟に戻るまでを描いた作品である。

つまりコールの頭の中では、開拓の進行と文明の崩壊が地続きだった。楽観的な進歩の物語を、彼は信じていない。

彼を中心にした画家たちの一群は、のちに「ハドソン・リヴァー派」と呼ばれるようになる。ただしこれは後世の呼び名で、当時そういう団体があったわけではない。

共通していたのは、ニューヨーク州北部の川と山を描いたこと、そして風景に意味を持たせようとしたことである。

つまり《オックスボウ》の左右は、単なる対比ではない。失われつつあるものと、置き換わっていくものを並べた図である。

どちらがよいかを、絵は言い切っていない。だが画家自身が立っているのは、暗い左側の斜面である。

ナイアガラという、証明

コールが1848年に亡くなったあと、この主題を引き継いだのがフレデリック・エドウィン・チャーチだった。

チャーチは、コールが受け入れたほとんど唯一の弟子である。十代の終わりに二年ほど、キャッツキルの家に住み込んで学んだ。

ただし師と弟子では、性格がまるで違う。コールが詩的で、寓意を好んだのに対し、チャーチは徹底して観察の人だった。

雲の形、岩の層、水の落ち方。彼の素描には、地質学や気象の記録に近い精度がある。

ナイアガラ
《ナイアガラ》1857年。横229.9センチ。滝の落ち口の高さに視点が置かれ、手前に岸がない。フレデリック・エドウィン・チャーチ《ナイアガラ》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

《ナイアガラ》の異常さは、視点の位置にある。

見る者は、滝の縁の上に浮かんでいる。手前に立ち位置となる岸がない。水はいきなり画面の下端から始まり、右へ落ちていく。

滝を「絶景」として遠望する構図を、彼は捨てた。かわりに、水の量そのものを画面に載せた。

この絵はロンドンでも公開され、高く評価された。アメリカの画家が、ヨーロッパの批評家を正面から納得させた最初の例のひとつである。

背景には、当時のアメリカが抱えていた劣等感がある。

ヨーロッパには古代の遺跡があり、大聖堂があり、何百年もの絵画の歴史がある。アメリカにはそれがない。

かわりにあるのが、規模の大きな自然だった。ナイアガラは、歴史の不足を埋める国民的な資産として持ち出された。

一枚の絵を、見世物にする

チャーチはさらに大きく出た。

アンデスの心臓
《アンデスの心臓》1859年。縦168センチ、横302.9センチ。南米エクアドルの山と森。左奥に雪をいただく高峰、中央に滝、手前の道に小さな人物がいる。フレデリック・エドウィン・チャーチ《アンデスの心臓》メトロポリタン美術館蔵

《アンデスの心臓》は1859年4月27日、ニューヨークで公開された。

展示は一枚だけである。暗くした部屋の中で、この絵に照明を当て、周囲をカーテンで囲った。窓から外を見ているように見せるためである。

入場料は25セント。観客はオペラグラスを渡され、細部を覗いた。

三週間で一万二千人が訪れたと伝えられる。行列ができ、待ち時間が出た。

その後この絵は一万ドルで売れた。当時、存命のアメリカ人画家の作品としては最高額だったとされる。

なぜ南米なのか。背景には博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの著作がある。

熱帯の高山では、標高によって植生が階段状に変わる。チャーチはその知見を踏まえ、一枚の画面に複数の気候帯を積み上げた。

科学の裏づけがあり、宗教的な感情を呼び、しかも見世物として金になる。この三つが同居していた。

この見せ方には名前がある。「大画面興行」とでも訳すべき商売である。

一枚の大作を、常設の美術館ではなく、貸し会場で単独公開する。入場料を取り、解説の小冊子を売り、複製版画の予約を集める。

絵そのものが売れなくても、興行だけで利益が出る。画家は制作費を回収し、名を売り、次の注文につなげる。

十九世紀のアメリカでは、この方式が風景画の経済を支えていた。大きく描くことには、はっきりした採算上の理由があったわけだ。

観客の側から見れば、これは娯楽である。動く映像も写真の普及もまだ限られていた時代に、行ったことのない土地を「見る」ほとんど唯一の手段だった。

その位置を、のちに写真が、さらに映画が引き継いでいく。大画面の風景画が二十世紀に入って急速に古びたのは、様式の問題であると同時に、代替物が現れたからでもある。