腕は、距離を決めている——デューラー・応為・ロダンほか九点
体のない一本の腕、削られる関羽の腕、腹の上で組まれたバルザックの腕。腕の九点を数えると、腕が写るのは六点で、形まで見えるのは三点だけだった。残りは袖に隠れ、二点は紋章と武器という同じ綴りの語で紛れこんでいた。

青い紙に、腕が一本だけある
青灰色の紙である。
ヴェネツィアで作られた紙だという。
寸法は34.4×26.7センチ。
そこに、腕が一本描かれている。
左の腕である。
肩のあたりで、線が消える。
体は、描かれていない。
腕は、上へ向かって曲がる。
肘は、画面の左下にある。
前腕が、右上へ伸びる。
手首で、内側へひねる。
手のひらは、上を向く。
その手に、丸いものがある。
親指と四本の指で、軽く支えている。
握ってはいない。
載せている、というほうが近い。
丸いものは、りんごである。
輪郭だけで、模様はない。
腕の上側には、白が置かれる。
下側は、灰色に沈む。
肘の外側が、いちばん明るい。
筋の起伏が、そこでわかる。

館の説明は、この紙の役割を書いている。
マドリードのプラド美術館に、等身大の板絵がある。
アダムとイヴの二枚である。
その準備として残る唯一の素描が、これだという。
紙にも、来歴がある。
画家は一五〇六年から翌年の冬をヴェネツィアで過ごした。
そこで、青い紙を使いはじめた。
明暗の研究に向く紙である。
館はさらに、手段の少なさを指摘する。
黒と灰色の墨、少しの淡彩、少しの白。
それだけで、体全体の均衡を示している。
体を描かずに、体を示している。
九点の最初に、これを置く理由はそこにある。
腕は、体の釣り合いを一本で背負える。
顔にはできないことである。
顔だけを描けば、それは肖像になる。
腕だけを描いても、誰の腕かは問われない。
問われるのは、その腕が何を持っているかである。
ここでは、りんごを持っている。
だから、この腕はイヴの腕と呼ばれる。
持ち物が、人物を決めている。
腕を、削っている
掛軸である。
絵の部分は140.2×68.3センチ。
人の背丈ほどの大きさがある。
画面の右に、男が座る。
衣は、緑と朱で厚く塗られる。
髭が長く、胸まで届く。
その左腕が、前へ出されている。
袖はまくり上げられている。
腕は、肘から先が剥き出しである。
赤い色が、腕の上に広がる。
血である。
腕の横に、医師が屈む。
手に、細い道具を持つ。
刃先を、腕に当てている。
医師の後ろに、盆を持つ者がいる。
盆の上に、布と器がある。
左手前には、二人が座る。
碁盤か将棋盤らしい台がある。
男は、そちらを見ている。
腕のほうを、見ていない。
背後の者たちは、顔を背けている。

館の説明は、場面の出どころを書く。
十四世紀の中国の小説『三国志演義』である。
三世紀の武将、関羽が骨を削られている。
矢傷から入った毒を取るためである。
館は、この描き方を扇情的だと評する。
従者たちは血を見て縮み上がっている。
しかし関羽自身は、盤上から目を離さない。
館はまた、この画家の立場にも触れる。
女性として、当時は例外的な存在だった。
それでも才を発揮できたのは、協働があったからだという。
ここで腕は、痛みの置き場である。
顔ではなく、腕が痛みを引き受ける。
顔は、痛くないことを示す役に回る。
一つの体で、役が二つに分かれている。
腕は、切り離しやすい部分でもある。
袖をまくれば、そこだけが露出する。
顔や胴は、そう簡単には出せない。
だから、医術の場面では腕がよく出てくる。
血を取るのも、薬を入れるのも、腕である。
体の入口として、腕が選ばれてきた。
腕を組んで、立つ
錦絵である。
32.1×14.6センチの、縦長の紙。
男が一人、立っている。
歌舞伎の役者である。
衣は、幾重にも重なる。
外側は、赤と白の大きな文様。
内側に、緑と黄の衣が見える。
裾は、足元で広がる。
足は裸足で、爪先が見える。
顔は、やや斜めを向く。
眉が太く、口は引き結ばれる。
髷は小さく結われる。
そして、両腕を胸の前で組む。
左腕が上、右腕が下である。
袖が重なり、手は見えない。
腕の形も、袖に隠れる。
見えるのは、組んだという結果だけである。
背景は、黄色一色である。

館の札は「男性たち」と「役者」の二つである。
腕という札はない。
しかし題には、腕を組むという語が入る。
この姿勢が、この一枚を特定している。
役者絵は、役と型で呼び分けられる。
同じ役者の絵は、何十枚もある。
だから、姿勢が題になる。
腕を組むのは、待つ姿勢である。
あるいは、拒む姿勢である。
どちらにしても、手を使わない構えである。
手を封じることで、腕が意味を持つ。
この形は、東西を問わず使われる。
胸の前で交差させる、という動作は同じである。
ただし、どちらの腕を上にするかは決まっていない。
この一枚では、左が上である。
次の一点では、右が上になる。
その違いに、意味はなさそうである。
次の一点も、同じ姿勢を扱う。
役者絵の顔については、役者絵と顔で扱った。
腹の上で、腕が組まれる
青銅の胸像である。
高さは52.7センチ。
頭と、胸から上がある。
髪は、荒く盛り上がる。
額は広い。
眉の下が、深くくぼむ。
鼻は大きく、頬は垂れる。
口は、閉じている。
首は太く、短い。
肩は、前へ丸まる。
胸の下で、腕が組まれる。
腕は、太い。
肘から先が、腹の上に載る。
指は、彫り出されていない。
塊のまま残されている。
表面は、荒い。
指で押した跡が、そのまま残る。
台は、木である。

館の説明は、この像の経緯を書いている。
作者は一八九一年に記念像の注文を受けた。
相手は、著名な小説家である。
像は七年かけて、何度も作り直された。
天才と人柄をどう表すか、模索が続いた。
この胸像は、最初の案のための習作である。
その案では、全身が脚を開いて立つ。
そして腕を、太った腹の上で組む。
館は、この造形が当時の人を驚かせたと書く。
公共の記念像は、理想化されるものだった。
美しくない国民的英雄は、受け入れられなかった。
最終案は、さらに強く批判された。
体を、一つの塊にまで縮めたからである。
前の一点と、姿勢は同じである。
組んだ腕が、人物を定義している。
役者の場合は、役の型だった。
ここでは、性格である。
小説家は、腕を組んで何を待っていたのか。
館の記録は、そこまでは書かない。
書いてあるのは、腹が太かったことである。
そして、その太さを隠さなかったことである。
腕を組めば、腹は隠れる。
しかしこの像では、腕が腹の上に載っている。
隠すのではなく、載せている。
腕を、貸しますよ
石版画である。
図の部分は26×21.4センチ。
人が二人、立っている。
左の一人は、裸足である。
長い衣を着る。
肩から、布が垂れる。
右手に、細い棒を持つ。
顔は横向きで、無表情である。
右の一人は、太っている。
頭に、先の曲がった帽子をかぶる。
腹が、前へ出る。
衣の前を、片手で押さえる。
もう一方の腕を、横へ突き出す。
肘を曲げ、脇を開ける。
左の人物に、その腕を差し出している。
画面の下に、文字が二行ある。
館の記録では、題と同じ文である。

館の説明は、掲載先を書いている。
一八六六年九月二十二日の風刺新聞である。
連作の百八十一枚目にあたる。
つまり、その日の時事を扱った一枚である。
差し出された腕は、支えの申し出である。
つかまれば、二人は連れ立って歩く。
つかまなければ、腕は宙に浮いたままになる。
ここで腕は、承諾を待っている。
前の三点では、腕は本人のものだった。
この一点で、腕は他人へ向けられる。
差し出された腕は、半分は相手のものである。
風刺画は、この宙づりを好む。
まだ起きていないことを描けるからである。
つかむかつかまないかは、読者が決める。
新聞に載る絵は、そういう作りになる。
この一枚も、その日の時事を当てこんでいた。
いまとなっては、何を当てこんだのかはわからない。
子を、腕に抱いて売る
写真である。
図の寸法は11×7.9センチ。
手のひらに載る大きさである。
石の建物の前に、人が並ぶ。
柱と鉄柵が、背後にある。
左に、女が二人立つ。
手前の一人は、白い帽子をかぶる。
胸の前に、白い包みを抱く。
子である。
包みの中から、顔が出ている。
女の腕は、包みの下を支える。
もう一方の腕は、脇に垂れる。
その前に、大きな籠が二つ置かれる。
籠には、花が山積みである。
中央に、女が座る。
膝の上で、花を束ねている。
右に、もう一人が立つ。
手に、紙を持つ。
いちばん右に、男が立つ。

館の説明は、同行した記者の言葉を引く。
貧しい女が、青ざめた子を腕に抱く。
そして道行く人に、慎ましい菫を差し出す。
襤褸と汚れでも消せない詩がある、と記者は書いた。
館は続けて、仕事の実態を書く。
この仕事は、親から子へ受け継がれた。
長時間働いても、収入はわずかだった。
ここでも、腕は二つの役を持つ。
一方の腕は、子を支える。
もう一方の腕は、花を差し出す。
前の一点の、差し出す腕と同じ形である。
ただし、差し出す相手が客である。
支える腕と、売る腕が、同じ体についている。
写真だから、姿勢は作られたものかもしれない。
この写真家は、市井の人を組んで撮った。
籠の位置も、立つ位置も、決めてある可能性が高い。
それでも、腕の使い方までは作りにくい。
子を抱く腕は、抱いている形にしかならない。
物売りについては、売る場面は、並べることで示されるで扱った。
腕の太さだけが、残る
金の腕輪である。
直径は7.7センチ。
輪は、閉じている。
幅は、二センチほどに見える。
外側に、色の帯が回る。
赤と青と白の、細かい粒である。
ガラスのモザイクである。
粒は、一ミリに満たない。
模様は、繰り返しである。
青い地に、白い鳥が立つ。
鳩らしい。
鳥と鳥のあいだに、赤い四角がある。
その中に、白い花が入る。
輪の縁は、金の細い粒で縁取られる。
内側は、無地の金である。

館の記録に、説明の文はない。
作者は個人ではなく、商会である。
イタリアの工房で、古代風の装身具を作った。
ここに腕は、写っていない。
あるのは、腕の太さだけである。
直径7.7センチという数字が、それにあたる。
この輪は、それより細い腕にしか通らない。
前の回の急須と、同じことが起きている。
器物の寸法が、体の寸法の写しになっている。
ただし急須は、手のひらの丸みに合わせてあった。
この輪は、通ることだけを条件にする。
合わせているのではなく、選んでいる。
輪は、通るか通らないかしかない。
途中がない道具である。
だから寸法は、一つの数字で足りる。
直径7.7センチ、それだけである。
この単純さが、装身具の記録を短くしている。
椅子の腕については、ファイフと椅子の腕で扱った。
盾の上の、腕という語
金貨である。
直径は3.8センチ。
表と裏がある。
表には、横顔がある。
男の頭部である。
髪は短く、巻いている。
首から下はない。
縁に沿って、文字が回る。
下に、年が入る。
裏には、盾がある。
盾は、四つに区切られる。
それぞれに、獣や竪琴が入る。
盾の上に、冠が載る。
冠のまわりに、飾りが広がる。
縁には、細かい粒が並ぶ。

館の説明は、この金貨の性格を書く。
この王の治世に作られた五ポンド金貨は、すべて試作だった。
流通したものは、一枚もない。
一八二三年に、初めて見本の組が作られた。
その組に、五ポンドと二ポンドの試作が入った。
さて、この一点をなぜ腕の九点に入れたか。
英語の題に、腕と同じ語があるからである。
裏面は、紋章の盾と呼ばれる。
その紋章という語が、腕と同じ綴りになる。
由来は、盾に描かれた武具である。
武具を意味する語が、紋章を意味するようになった。
日本語では、まったく別の字になる。
だから機械で腕を探すと、この金貨が出てくる。
前の回の水指と、同じ仕組みである。
音や綴りの重なりが、記録を引き寄せる。
貨幣の顔については、貨幣と権力の顔で扱った。
武芸の書、という腕
書物である。
開いた状態で撮られている。
寸法は21.6×15.6センチ。
右の頁に、文字が組まれる。
上に、大きな見出しがある。
本文は、二段ではなく一段である。
最初の一字が、大きく飾られる。
左の頁は、図である。
上段に、人が二人立つ。
一人は赤い脚衣、一人は白い脚衣。
どちらも、片手に細い棒を持つ。
剣の代わりである。
下段にも、二人いる。
青と赤の脚衣を着る。
一人は、腕を高く上げる。
もう一人は、盾を構える。
足の位置が、線で示される。

この本は、剣術の教本である。
構えと足の運びが、図で示される。
館の部門は、武器武具である。
題にある腕の語も、武器の意味である。
前の金貨と、同じ語である。
ただし意味は、紋章ではなく武器そのものになる。
一つの語が、体の腕と、武器と、紋章を指す。
三つの意味が、同じ綴りに畳み込まれている。
日本語には、この畳み込みがない。
腕と武器と紋章は、別の字である。
だから訳したとき、つながりは消える。
消えたつながりが、記録の検索では残る。
こちらは毎回、そのずれを拾っている。
拾ったものを捨てるか、並べるかは、こちらが決める。
今回は、並べるほうを選んだ。
並べると、語のほうの形が見えてくるからである。
武具については、衣装としての甲冑で扱った。
数えてみると
九点を数え直す。
人の腕が画面に写っているのは、六点である。
イヴの腕、関羽、役者、バルザック、ドーミエの二人、花売り女。
写っていないのは、三点。
腕輪、金貨、武芸の書である。
写っている六点を、さらに分ける。
腕だけのものが、一点。
腕を組むものが、二点。
腕を差し出すものが、二点。
腕を治療されるものが、一点。
組む腕は、手を隠す。
差し出す腕は、手を開く。
治療される腕は、袖をまくる。
どの場合も、腕そのものより、袖の扱いが姿勢を決めている。
袖をまくれば、治療になる。
袖を重ねれば、待つ姿になる。
袖を落とせば、申し出になる。
写っていない三点は、理由が違う。
腕輪は、腕の寸法だけを残した。
金貨と書物は、綴りが同じだっただけである。
九点のうち二点は、腕とまったく関係がない。
言えることと、言えないこと
言えるのは、腕が距離を作る部分だということである。
手は、触れる。
指は、示す。
腕は、そのどちらを、どれだけ遠くで行うかを決める。
組めば、距離は零になる。
差し出せば、距離は腕の長さになる。
その長さが、そのまま申し出の大きさである。
デューラーの一枚が示したのも、これに近い。
腕は伸びて、りんごを体から離している。
体の中心から、いちばん遠い場所に果実がある。
物語の要は、そこに置かれている。
言えないことも、はっきりしている。
まず、九点のうち二点は語の偶然である。
紋章も武器も、腕とは無関係だった。
それを並べたのは、記録を機械で探した結果である。
次に、腕は袖に隠れることが多い。
今回も、袖で見えない腕が二点あった。
つまり腕の絵は、しばしば衣の絵である。
腕そのものの形が見えるのは、九点のうち三点しかない。
イヴの腕、関羽の腕、バルザックの腕である。
そのうち二点は、彫刻と素描だった。
絵の中では、腕は覆われている。
最後に、応為の一枚だけが、腕を傷として扱っていた。
残りの八点で、腕は無傷である。
無傷であることは、記録には書かれない。
書かれるのは、傷のある一点だけである。
数えられるのは、いつも例外のほうである。
無傷の腕は、腕として記録されない。
傷ついた腕だけが、腕として記録される。
同じことは、他の部分にも言えるはずである。
そう考えると、今回の九点の選び方も偏っている。
腕の語で探したから、腕が話題の絵ばかりが出た。
腕が写っているだけの絵は、何万点もある。
それらは、腕の記録を持たない。
記録のない腕のほうが、圧倒的に多い。


