美術史・技法

舞台の顔は、誰のものか——写楽と勝川派の役者絵

隈取をした顔は素顔ではない。女形の顔は本人の性でもない。それでも顔だけは似ていなければならなかった。芝居小屋で売られた宣伝物としての役者絵は、型と個人をどう同居させたのか。十か月だけ現れて消えた絵師、写楽の位置もあわせて考える。

二代目中村仲蔵の惟高親王
東洲斎写楽《二代目中村仲蔵の惟高親王》メトロポリタン美術館蔵

眉が、上がりきっている

一枚の版画から始めたい。

二代目中村仲蔵の惟高親王
東洲斎写楽《二代目中村仲蔵の惟高親王》1794年。所蔵館の記録では、墨・色・白雲母を用いた木版画。上半身だけを画面いっぱいに取っている。東洲斎写楽《二代目中村仲蔵の惟高親王》メトロポリタン美術館蔵

まず、顔である。

眉は太く、外へ向かって跳ね上がっている。目は細く、白目が大きく描かれ、視線は画面の外の斜め上へ向いている。

鼻は高く、鼻筋に一本の稜線が入っている。口は結ばれ、両端がわずかに下がる。

頬から顎にかけての輪郭は、丸くふくらんでいる。

頭には赤い布を巻き、身につけているのは黒と白と桃色の太い縞の衣である。手には、巻いたものを一本、斜めに構えている。

背景は白い。ただの白ではなく、雲母の粉を撒いた地である。所蔵館の記録には「白雲母」と明記されている。

右上に「寫樂画」の落款。その下に版元の印。左上には、役者にゆかりのある文字を入れた枠がある。

上半身だけを画面いっぱいに取るこの判型を、大首絵という。

これは、何のために作られたのか

前提を確認しておきたい。

これは芝居の宣伝物であり、土産物である。

歌舞伎の興行に合わせて版元が企画し、彫って摺って、芝居小屋の周辺や絵草紙屋で売る。値段は安く、買うのは芝居を見た町人である。

つまり役者絵は、いまでいうブロマイドに近い。

観客が持ち帰りたかったのは、誰が、どの芝居で、どの役を演じたか、という情報である。

そして、その役者の顔である。

写真がない時代に、顔を持ち帰る手段はこれしかなかった。

芝居は、都市の産業だった

背景を少し補いたい。

江戸で歌舞伎の興行を許されていたのは、幕府公認の三つの芝居小屋だけである。中村座、市村座、森田座。

芝居小屋の周辺には、芝居茶屋、絵草紙屋、飲食店が集まり、ひとつの町を形成していた。

興行の年度は十一月に始まる。この月の興行を顔見世といい、翌年一年間その小屋に出る役者の顔ぶれを披露した。

役者絵は、この興行の周期に合わせて出される。所蔵館の記録に「1794年11月」「1795年4月」と月まで書かれているのは、そのためだ。

つまり一枚の役者絵には、いつの興行の、どの演目の、誰の、どの役か、という四つの情報が乗っている。

当時の観客は、それを読めた。私たちが読めなくなっているだけである。

いま美術館で役者絵を見ると、題名が異様に長いことに気づく。「二代目市川高麗蔵の屋根小僧」のような表記である。

長いのは、情報を復元しているからだ。当時なら顔と紋を見れば済んだことを、いまは文字で補うしかない。

読めなくなった記号を、言葉で置き換える。美術館の解説がやっているのは、多くの場合そういう作業である。

二代目市川高麗蔵の屋根小僧
勝川春英《二代目市川高麗蔵の屋根小僧》1794年2月。細判。破れた黒い衣を着て、笠を背負い、川べりに立つ。勝川春英《二代目市川高麗蔵の屋根小僧》メトロポリタン美術館蔵

たとえばこの一枚は、1794年2月の興行に合わせて出されている。

役は盗賊である。裾の破れた黒い衣、無精髭、鋭い目つき。背には笠を負い、素足で立っている。

背景には川と土手が薄く摺られている。舞台の書割ではなく、場面の設定を示すための背景だろう。

芝居を見た人なら、この一枚で、あの場面のあの役者だと分かる。見ていない人にも、どういう役かは伝わる。

「その人の顔」を描く、という発明

ここが重要なところである。役者絵は、最初から似顔だったわけではない。

十八世紀の半ばまで、役者絵の主流は鳥居派だった。ひょうたん足・みみず描きと呼ばれる太い線で、力強い姿を型として描く。

誰を描いても、顔はほぼ同じである。区別は紋と役柄の約束事でつけていた。

そこに変化を持ち込んだのが、勝川春章である。1760年代から、役者の顔をその人の顔として描きはじめた。

菅原伝授手習鑑
勝川春章《菅原伝授手習鑑》1776年7月。細判三枚続き。牛車の車輪を挟んで、四人の役者が別々の見得を切る。勝川春章《菅原伝授手習鑑》メトロポリタン美術館蔵

三枚続きのこの作品を見てほしい。

中央に大きな黒い車輪。その向こうに、髭を蓄えた人物が乗っている。手前には、車輪を押しとどめようとする人物。

左右の二人も、それぞれ違う姿勢で身構えている。

四人の顔は、明らかに描き分けられている。鼻の形、顎の張り、眉の角度。

この描き分けが、当時の観客にとっては新しかった。贔屓の役者を、顔で見分けられるようになったのである。

なぜ似顔が求められたのかを考えると、芝居の見方そのものが変わっていたことに行き着く。

演目の筋は、観客がすでに知っている。同じ演目が繰り返し上演されるからだ。

だから観客が見に行くのは、話ではない。誰がどう演じるかである。

同じ役を、先代はこう演じた、当代はこう演じる。その違いを比べることが、観劇の楽しみだった。

比べるためには、演者が特定できなければならない。似顔の需要は、そこから来ている。

春章は弟子を多く育て、勝川派と呼ばれる一門を作った。この記事に出てくる春好、春英も、その門下である。

若いころの葛飾北斎も、この一門で「春朗」の名を与えられ、役者絵から出発している。のちに風景で知られる画家の出発点が、芝居の宣伝物だったことになる。

似顔を追求すると、必然的にひとつの問題が出てくる。

その人に似せるほど、美しくなくなる、という問題である。

役者は商品でもある。実物より少し整えて描いてほしい、という要望は当然あっただろう。

似せることと、よく見せること。この二つの要求のあいだで、絵師たちは調整を続けていた。