同じ絵を、六十回——ヒックスの「平和の王国」
問い——なぜ、同じ絵を描き続けたのか
ここで問いを立てたい。
ヒックスは《平和の王国》を、生涯に60点前後も描いたと伝えられる。
同じ主題、ほぼ同じ配役。その反復は、晩年まで続いた。
注文で描いたものもあれば、親族や友人への贈り物もあったと伝えられる。
なぜ一人の画家が、同じ絵ばかり描き続けたのか。
飽きなかったのか。新しい主題を求めなかったのか。
生活のためなら、肖像や風景を広く手がける道もあったはずである。
だが彼は、王国へ戻り続けた。
先に見立てを言えば、こうなる。ヒックスにとって、この絵は作品ではなく説教だった。
説教は毎回、同じ聖句から始まる。しかし語り口は、その日の心持ちで変わる。
《平和の王国》も同じである。聖句は動かない。細部だけが、そのたびに動く。
動物の数が変わる。配置が変わる。顔つきが変わる。
その揺れにこそ、画家の歳月が刻まれている。
ならば、細部を見比べればよい。もう一枚の王国を並べてみる。

同じ王国に、動物が増えていく
1834年ごろの一枚である。画面はひとまわり大きい。
所蔵館の記録によれば、この絵は1834年、画家自身からペンシルベニアの知人へ贈られた。
売られたのではなく、贈られた。説教が配られるように。
実際、王国の多くは身近な人の手に渡ったと伝えられる。
売り絵として市場に出すより、届けたい相手がいた。そういう絵である。
来歴の記録は、その後この絵がひ孫の代まで同じ一族にあったことを伝えている。
贈られた説教は、家宝として受け継がれたのである。
構図の骨組みは、先の一枚と同じである。画面の手前に動物の群れ、その中に子ども。
幼子の役どころも変わらない。獣たちの間に立ち、群れを導いている。
イザヤ書の配役は、ここでも忠実に守られている。
だが、動物の数はあきらかに増えている。群れは密になり、画面は賑やかになった。
そして左奥に、小さな人の群れが描き込まれている。
大きな木のもとで、外套姿の男たちと、この土地に先に暮らしてきた人々が向かい合う。
ウィリアム・ペンの条約の場面である。
のちに詳しく見る歴史画が、ここでは切手ほどの大きさで王国の隅に置かれている。
遠景の人々は豆粒ほどである。それでも、何の場面かは伝わる。
手前には聖句の幻、奥には郷土の歴史。
一枚の画布の上で、二つの時間が同居している。
つまりこの一枚は、二つの平和を重ねている。
イザヤ書が予言する、霊的な平和。
そして、植民地ペンシルベニアで結ばれたと語り継がれる、歴史上の平和。
聖句の幻に、自分たちの歴史を接ぎ木する。説教者らしい構成である。
預言は遠い約束ではない。この土地で、一度は形になった。
小さな条約の場面は、そう語るための証しとして置かれている。
ただし、その証しがどこまで史実だったか。それはのちに問うことになる。
動物の顔が、年々険しくなる
二枚の王国を見比べると、気づくことがある。動物の表情である。
年を追うごとに、獣の顔が険しくなっていく。そういう指摘が研究にある。
目は見開かれ、口もとには緊張が走る。平和の群れに、不穏が滲んでいく。
背景として、一つの出来事を挙げたい。
1827年ごろ、クエーカー教団は深刻な内部分裂を起こした。
分裂した一方の派は、画家の親族にあたる説教者の名で呼ばれたと伝えられる。
ヒックスは、否応なく分裂の渦中に身を置くことになった。
長年、集会で顔を合わせてきた人々が、たもとを分かつ。
平和の王国を説く当人の足もとで、共同体が裂けたのである。
獅子と小羊の共存を語るそばで、人と人が争う。
これほど苦い皮肉はなかっただろう。
ヒックスはこの分裂に、深く心を痛めていたと伝えられる。
その痛みが、獣の顔に出たのだろうか。断定はできない。
しかし、同じ絵を描き続けたからこそ、変化が読み取れる。それは確かである。
説教の言葉が、日によって熱を帯び、あるいは沈むのと同じである。
絵は同じ台本を繰り返しながら、その日の声色を記録していた。
だから王国の連作は、一枚ごとの出来を競う絵ではない。
続けて見たとき、はじめて意味の立ち上がる絵である。
一枚だけなら、ただの絵である。数十枚並べば、心の記録になる。
滝の四辺を、文字が囲む
ヒックスの手わざを、別の主題でも見ておきたい。

1825年ごろの作である。ナイアガラの滝が、画面の奥で白くうねっている。
当時、この滝は新大陸の自然の驚異として広く知られていた。
版画や紀行文が、その姿を各地へ運んでいた。
縦80センチ、横96.5センチ。ヒックスとしては大きめの画面である。
目を引くのは、画面の四辺である。額縁のように、詩句が文字で描き込まれている。
絵の中に、文字の枠まで塗り込んでしまう。
看板職人の文字の腕が、ここでは堂々と表に出ている。
文字は看板さながらに、正確な間隔で並んでいる。
滝の傍らには鹿が立ち、ビーバーが姿を見せる。
見たままの写生ではない。当時流布していた版画に基づく構成と考えられる。
動物たちは、滝の驚異に野生の豊かさを添える役どころである。
図案として整えられた自然。ここでも職人の手が勝っている。
職人は、手本を正確に写す。そこに恥はない。
手本を写し、文字を添え、額まで絵にしてしまう。この律儀さがヒックスである。
そしてこの律儀さは、次に見る歴史画で、別の問題をはらむことになる。