葛飾北斎の代表作と特徴——なぜ同じ富士を46図も描いたのか
葛飾北斎の代表作と特徴を、当サイトで公開中の8点から読む。シカゴ美術館の記録では、70歳で始めた『富嶽三十六景』は36図ではなく46図ある。ベロ藍の青、富士の置き方、滝と橋の連作、改名の跡までを、各館の記録とあわせて順に見ていく。

葛飾北斎は1760年に生まれ、1849年に没した絵師である。シカゴ美術館もクリーヴランド美術館も、記録にこの生没年を載せている。代表作としてまず挙がるのは連作『富嶽三十六景』で、なかでも《神奈川沖浪裏》と《凱風快晴》が広く知られる。ただし北斎の仕事はそこで尽きない。摺物、花鳥、滝、橋と、手がけた題材は長い生涯のなかで何度も変わった。ここでは当サイトで公開中の8点を順に見ながら、何が代表作で、どこに北斎らしさがあるのかを整理する。

葛飾北斎の代表作
一点だけ選ぶなら《神奈川沖浪裏》である。次が《凱風快晴》、通称「赤富士」だ。どちらも『富嶽三十六景』の一図で、当サイトでも《神奈川沖浪裏》と《凱風快晴》として公開している。
この連作にはほかに《山下白雨》や《江都駿河町三井見世略図》がある。連作の外では、滝ばかりを集めた『諸国滝廻り』と、橋ばかりを集めた『諸国名橋奇覧』が代表作に数えられる。前者からは《下野黒髪山きりふりの滝》、後者からは《飛越の堺つりばし》を本稿で取り上げる。
風景版画だけが北斎ではない。花鳥を描いた小ぶりな版画では《菊に雀》が公開中である。30代の終わりに作った摺物も一枚ある。この8点を、年代順ではなく、知られている順に見ていく。
有名な二図そのものの読み方は、別のコラムで詳しく書いた。波の一図は《神奈川沖浪裏》の解説に、赤富士は《凱風快晴》の解説にある。本稿が扱うのはその外側、北斎という絵師全体の輪郭である。公開中の作品一覧は葛飾北斎の画家ページにまとめてある。
『富嶽三十六景』はいつ、誰が出したのか
シカゴ美術館の記録では、この連作が始まったのは1830年である。北斎が70歳のときにあたる。版元は西村屋与八で、同館は《神奈川沖浪裏》の摺りにその名を記録している。クリーヴランド美術館は、制作の時期を1829年から1833年のあいだと記す。館によって幅の取り方が違うので、本稿では「1830年代初め」と呼ぶ。
この連作が後に与えた影響も記録されている。シカゴ美術館は、この連作が風景版画という分野の人気を決定づけたと書く。そしてその人気は今日まで続いている、とも述べている。役者絵や美人画が中心だった版画の世界で、風景だけを売る連作が成り立つと示した仕事だった。
題は三十六景だが、図は36枚では終わらなかった。シカゴ美術館の解説は、当初の36図に北斎があとから10図を加え、全体で46図になったと書いている。連作の名はそのまま据え置かれ、枚数だけが増えた形である。『富嶽三十六景』を数えると46図ある、という食い違いはここから来る。
落款も手がかりになる。シカゴ美術館は、《神奈川沖浪裏》と《山下白雨》の落款を「北斎改め為一筆」と読み取っている。北斎を名乗っていた絵師が、為一と改めたうえで署名した、という意味になる。名を替えながら長く仕事を続けた人であることが、この一行からも分かる。この点は本稿の最後でもう一度触れる。
なぜ富士が主題になったのか
富士が選ばれたのには、当時の事情がある。シカゴ美術館の解説によれば、富士は日本でいちばん高い山で、かつては活動する火山だった。同館は、最後の大きな噴火を1707年のこととする。そして北斎の時代よりずっと前から、神の山として信仰されてきたと書く。北斎が生きたころには、各地から人が参詣に向かう目的地でもあった。
旅の側からも説明がつく。クリーヴランド美術館は、19世紀の日本の旅の案内書のほとんどに富士が出てくると書いている。地図には富士の形をした印でその位置を示し、どこから見るのが一番よいかを添えたものもあったという。つまり富士は、当時の人にとって「見に行く対象」だった。その山を46通りの見え方で揃えた連作は、旅する人の関心とよく噛み合っていたことになる。

北斎の青はどこから来たか
連作を並べて最初に目につくのは青である。シカゴ美術館は、その理由を顔料に求めている。当時あらたに安く手に入るようになったベルリン藍を、北斎が空と水の色として惜しみなく使った、という説明である。日本では「ベロ藍」とも呼ばれた輸入顔料だ。同館はこの青の使い方を、連作でもっとも目を引く点として挙げている。
この青は、濃淡をつけた摺りによく合う。《山下白雨》の空を見ると、上端の濃い藍から下へ向かって色がなめらかに薄れていく。版木に置く絵具の濃さを変えて摺る技法で、帯のような濃淡が一度の摺りで出る。

《山下白雨》について、クリーヴランド美術館は一つの見方を書き添えている。同じ連作の《凱風快晴》への対として作られたのだろう、というのである。晴れた山と、荒れた山。同じ形の山を違う天気で見せるための一組だった、という見立てだ。画面の下半分は黒に近い暗さで、そこへ朱色の稲妻が枝のように走る。それでいて山頂のあたりの空は晴れている。
色より先に、線
色の話が目立つが、北斎の芯は線のほうにある。シカゴ美術館ははっきりと、北斎のいちばんの強みは描線の確かさだと書いている。色については、大胆にも繊細にもなれた、という評価である。そして同館は、優れた描線と鮮やかな色の組み合わせ方のうまさが、北斎の成功を支えたと結論づける。
その見方で《山下白雨》をもう一度見ると、画面の作りが読みやすい。長くゆるやかに傾く稜線と、下半分で鋭く折れ曲がる稲妻。この二種類の線しか主役になっていない。同館はこの組み合わせを、単純でありながら力の強い画面を生んだと評している。色数ではなく、線の性質の違いで画面を割る作り方である。
富士をどこに置くか
『富嶽三十六景』の特徴は、富士が主役でありながら、毎回ちがう置かれ方をすることにある。シカゴ美術館の解説も、遠くから、あるいは近くから、さまざまな天気と季節と方角で富士が描かれると書く。《凱風快晴》や《山下白雨》では、富士が画面の大半を占める。いっぽう《神奈川沖浪裏》の富士は、波の谷の奥に小さく見えるだけだ。

《江都駿河町三井見世略図》は、その振れ幅がよく出た一図である。画面の大部分を占めるのは、江戸の呉服店の大きな瓦屋根だ。屋根の上では職人が働き、空には凧が一つ揚がっている。富士は、左右の屋根に挟まれた隙間の奥に、小さく白く見えるだけである。
つまり北斎は、富士を大きく見せる図と、暮らしの奥に富士を覗かせる図を、同じ連作のなかに並べた。山そのものを描く絵と、山が見える場所を描く絵である。この二つを行き来するところに、連作としての面白さがある。これは画面から読める構成の話で、北斎自身の言葉が残っているわけではない。
季節と時刻も振られている。クリーヴランド美術館は《凱風快晴》について、場面の季節を夏の終わりから秋の初めごろと見ている。そのころ山が赤みを帯びるからだ、という説明である。いっぽう《山下白雨》は雷雨、《神奈川沖浪裏》は波の高い海の上にあたる。同じ山を、天気と季節と立ち位置の組み合わせで振り分けていく。この割り振りこそが連作の設計だと言ってよい。
もう二つの連作——滝と橋
富士の連作の前後に、北斎は同じやり方をほかの題材へ広げた。各地の滝だけを集めた『諸国滝廻り』と、各地の橋だけを集めた『諸国名橋奇覧』である。一つの主題を決め、場所を替えて何図も作る。この作り方が、富士のときとそのまま重なる。
年代には幅がある。メトロポリタン美術館の記録では、『諸国滝廻り』の図は1827年ごろのものと1832年ごろのものに分かれる。同館が持つ《美濃ノ国養老の滝》は1827年ごろ、《下野黒髪山きりふりの滝》は1832年ごろとされている。『諸国名橋奇覧』のほうは、同館の記録ではおおむね1830年ごろで揃う。《山城あらし山渡月橋》も《周防国錦帯橋》も、その年代が付いている。富士の連作とほぼ同じ時期の仕事と見てよい。

《下野黒髪山きりふりの滝》は、縦長の画面をほとんど水が占める。落ちる水は何本もの白い筋に分かれ、途中で枝のように割れていく。水を線の束として描くやり方は、《神奈川沖浪裏》の波とよく似ている。滝壺の前には小さな人影が三つあり、崖の上にも人がいる。人を小さく置くことで、水の落差が目で測れるようになっている。

《飛越の堺つりばし》は、谷に渡した吊り橋を真横から見せる。橋は中央で大きくたわみ、その上を旅人が二人渡っている。奥には濃い青の峰が立ち、足元の谷は霧に沈む。画面を横切る一本の曲線が、そのまま構図の背骨になっている。北斎が線でものを決める絵師であることが、この一図によく出ている。
富士の前の北斎——摺物と花鳥
ここまで見たのは、60代後半から70代の仕事である。北斎はそれよりずっと前から働いていた。

この横に長い一枚は1799年の作で、北斎が30代の終わりごろにあたる。クリーヴランド美術館はこれを摺物と記録している。注文を受けて私的に作られる版画のことで、多くは文や句を伴う。同館の解説によれば、この一枚にも句が摺られている。風景の連作とは題材も形も違う。
場面も具体的である。同館の解説は、ここが江戸の吉原にあった扇屋という茶屋だとする。五明楼という別の呼び名も記されている。座敷にいるのは二人の遊女で、それぞれに芸者と新造が付き添う。新造とは遊女の見習いのことだ。一同が見ているのは、まわりの田の上にのぼる秋の満月である。同館の訳した句も、座敷にいる者は皆が月の客だ、という内容になっている。
この一枚の落款も記録されている。同館はそれを「宗理改め北斎画」と読む。宗理と名乗っていた絵師が、北斎と改めて署名した、という意味だ。つまり1799年の時点では「北斎」が新しい名前だった。そして1830年代には、その北斎を「為一」へ改めている。名の変化は、作の前後関係を知る手がかりになる。
つまり若いころの北斎は、人のいる室内を細かく描く絵師でもあった。衣の模様、障子の桟、畳の縁まで線で追ってある。のちの富士や滝のような、大きく単純な形の画面とは対照的だ。

《菊に雀》は1825年ごろの作とされる。摺物の一枚から四半世紀あとにあたる。菊の花へ二羽の雀が飛びかかる、小さな一枚だ。背景は上から薄くぼかしただけで、風景も建物もない。花と鳥だけを近くから見せるこうした版画も、北斎は数多く作っている。富士の連作だけを見ていると、この仕事は視野から落ちてしまう。
北斎にも東海道の連作がある
街道の連作といえば歌川広重の名が先に出る。だが北斎も早い時期に東海道を手がけている。シカゴ美術館は、同館が持つ《小田原》と《原》を、1806年ごろの『東海道五十三次』の図と記録する。判型は中判で、大判の富士の連作より一回り小さい。いっぽうクリーヴランド美術館は、広重の同名の連作の一図を1833年としている。北斎の東海道はそれより四半世紀以上早い仕事になる。富士で風景の連作を作る前から、北斎は街道を描いていたことになる。
北斎の代表作はどこで見られるか
木版画は同じ版木から何枚も摺られる。だから一点物の絵画と違い、同じ図が各地の美術館にある。本稿で挙げた8点も、シカゴ美術館・クリーヴランド美術館・メトロポリタン美術館の3館に分かれている。いずれも各館が権利を手放して公開している画像で、当サイトはそれを使っている。
ただし、同じ図でも摺りによって色は違う。シカゴ美術館は、同館の《神奈川沖浪裏》3枚について、いずれも初期の摺りより後のものだと断り書きを付けている。版木の摩耗や絵具の調合で、空の青や波の線の出方は変わる。並べて比べるときは、どの館のどの一枚かを確かめるとよい。
日本国内の所蔵先や、いま実物が展示されているかについては、当サイトは記録を持たない。確かなことは各館の公式の案内で確かめてほしい。画像だけなら、上に挙げた8点はいずれも当サイトの作品ページで大きく見られる。
つまずきやすい三つの点
一つめは図の数である。『富嶽三十六景』という題に引かれて36図と思われがちだが、シカゴ美術館の数え方では46図ある。二つめは題名だ。「赤富士」は通称で、画面の枠に摺られた題は《凱風快晴》である。同じように「グレート・ウェーブ」の名も広く使われるが、題は《神奈川沖浪裏》にあたる。館の記録を探すときは、通称ではなく題で引くほうが早い。
三つめは画家の名前である。本稿で見たとおり、1799年の摺物の落款は「宗理改め北斎画」、1830年代の富士の連作は「北斎改め為一筆」と読まれている。どちらも同じ人の署名だ。古い本や館の記録で「宗理」や「為一」に出会っても、別人ではない。署名が違うことが、そのまま真贋の話になるわけではない。







