尾形光琳《八橋図》の解説——金地の燕子花はどこで見られるのか
尾形光琳《八橋図》の解説です。金地に燕子花と板橋だけを置いた六曲一双の屏風を、画面と館の記録から読み解きます。八橋とはどこの景色か、いまはどこで見られるか、北斎が描いた同じ画題とどこが違うのかまで扱う。

《八橋図》には何が描かれているか
金色の地に、青紫の燕子花の群れと、灰色の板橋だけが描かれている。
尾形光琳の《八橋図》は、六曲一双の屏風である。画面いっぱいに金箔が貼られ、その上に花と橋が置かれる。

橋は画面の左下から右上へ、折れ線を描いて渡る。まっすぐには架からず、何度も角度を変えて折れる。
板は灰色で、木目が細い線で引かれている。橋の折れ目の下には、杭を井桁に組んだ短い脚がのぞく。水面は描かれていない。
燕子花は橋の左右に群れる。花は青と青紫の濃淡で塗り分けられ、葉は緑の細長い帯として立ち上がる。
花の一つひとつに輪郭線はない。色の面が、そのまま花の形になっている。
地面も水も草地も描かれていない。金の地が、そのまま花と橋の立つ場所になる。
その金の地をよく見ると、四角い継ぎ目が格子のように走っている。金箔は薄く小さな正方形で、少しずつ重ねて貼る。重なった縁が、細い線になって残るのである。近づけば継ぎ目の格子が見え、離れれば一枚の光る面に見える。
奥行きを作る仕掛けもない。手前の花も遠くの花も、ほぼ同じ大きさで並ぶ。
花の群れは、大きく三つか四つのかたまりに分かれて立つ。かたまりとかたまりのあいだには、金の地がそのまま残る。
花のない空白が、画面の呼吸になっている。花を隙間なく敷きつめれば、模様になって橋が沈む。
葉は一本ずつ向きが違う。斜めに交差する葉と、まっすぐ立つ葉が混ざる。
花の高さもそろっていない。高く抜ける花と、葉に埋もれる花が交互に来る。
右の端に、小さな落款と印が見える。館の記録では、この屏風は一双、つまり二隻ひと組である。
制作の時期は、館の記録で1709年以降とされる。署名には「法橋」の位が入っており、光琳がこの位を朝廷から受けたのは1701年である。館の解説によれば、光琳は江戸での仕事が思うようにいかず、1709年の初めに京都へ戻った。1711年には京都に新しい家を建てている。屏風はこの時期の作と考えられている。
光琳は1658年、京都の呉服商、雁金屋に生まれ、1716年に没した。晩年の数年の仕事ということになる。
橋はなぜ折れ曲がっているのか
八橋という場所の橋が、もともと折れた形に架かっていたからである。
八橋は三河国、いまの愛知県東部にあった地名である。橋の名が、そのまま画題の名になっている。
この地名を知らしめたのは『伊勢物語』の第九段である。都を離れて東へ下る男が、八橋に行き着く。川が蜘蛛の脚のように八方へ分かれ、橋を八つ渡してあるので八橋という、と物語は説明する。
男はそこで燕子花を見て、「かきつばた」の五文字を各句の頭に置いた歌を詠む。「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」である。歌は、着なれた唐衣のように慣れ親しんだ妻を都に残し、はるばる来た旅を思う、という意味である。物語では、これを聞いた一行がみな涙を落とす。
光琳の屏風は、この場面から旅の男たちを消し、花と橋だけを残した絵と読める。
描かれた花は菖蒲か燕子花か
燕子花である。歌の各句の頭を拾うと「かきつばた」になるので、八橋の花は燕子花と決まる。メトロポリタン美術館の英語の題は、この花をアヤメの仲間をまとめて指す語で呼んでいる。そのため訳し方によっては菖蒲やあやめと書かれることがあるが、物語に沿えば燕子花である。
燕子花は水辺や湿地に育つ。八橋の川が八方へ分かれる湿った土地だったことと、花の性質は合っている。画面に水は描かれていないが、花の種類そのものが水辺を示している。
北斎は八橋をどう描いたか
同じ場所を、光琳より百年あまりあとの浮世絵師が描いている。

葛飾北斎のこの版画では、湿地に細い板橋が何本も架かる。橋はやはり折れ、互いに角度を変えて交差する。
中央に大きな松が立ち、橋の上を人が荷を担いで行き交う。水は青く、岸には黄色い草地が広がる。
奥には桃色の山が横たわり、その上を淡い青の空が覆う。
画面の右上には、揃物の題と図の名を刷り込んだ枠があり、その脇に北斎の署名が入る。館の記録では、この図は諸国の名橋を集めた揃物の一枚である。
つまり北斎にとって八橋は、各地の名所のうちの一つだった。一方の光琳は、この場所だけで屏風一双を使っている。
二つの絵を並べると、光琳が何を省いたかが見えてくる。北斎は人も松も山も描き、光琳は橋と花だけを残した。
北斎の橋は、湿地を渡るための道である。光琳の橋は、金の地の上を走る灰色の帯になっている。
北斎の画面の作り方については、《神奈川沖浪裏》の解説でも触れた。同じ浮世絵の雨の描き方は、《大はしあたけの夕立》の解説で扱っている。
《八橋図》はどこで見られるか
メトロポリタン美術館である。
館の記録では、収蔵番号は53.7.1, .2、部門はアジア美術である。1953年、ルイーザ・エルドリッジ・マクバーニーの寄付金による購入で館に入った。
日本で「光琳の燕子花の屏風」といえば、東京の根津美術館にある《燕子花図》の屏風を指すことが多い。こちらは当サイトの在庫になく、図版としては扱えない。
根津美術館の《燕子花図》とどう違うのか
いちばんの違いは橋である。根津美術館の屏風には橋がなく、金地に燕子花だけが並ぶ。メトロポリタン美術館の《八橋図》は、同じ花に折れた板橋を加えている。
根津美術館の解説では、《燕子花図》は18世紀の作で、国宝に指定されている。六曲一双の屏風で、画面は各隻151.2×358.8センチである。《八橋図》の各隻163.7×352.4センチと、横幅はほぼ等しい。
同じ解説は、花を濃淡の群青で、葉を緑青で描いたと記す。さらに、一部では型紙を繰り返し使っており、それが模様のような印象を強めているという。画題が『伊勢物語』の第九段にあることも、二つの屏風に共通する。
橋を描かない根津美術館の屏風では、物語の場所を示す手がかりは花だけになる。橋を加えた《八橋図》は、見る人に八橋という地名をはっきり思い出させる。同じ画題で、物語への近づき方が違うのである。
二つは別の作品である。当サイトが画像まで出せるのは、メトロポリタン美術館の《八橋図》のほうだけである。
画面の大きさは、館の記録で各隻163.7×352.4センチである。縁まで含めると各隻179.1×371.5センチで、横は三メートル半を超える。二隻を並べれば、七メートルを超える幅になる。
屏風は折りたたんで立てる道具でもある。平らに広げた姿だけで見る絵ではない。
折り目のところで画面が前後に振れると、橋の折れ線と屏風の折れとが重なって見えるはずである。
尾形光琳はどんな画家だったのか
京都の裕福な呉服商の家に生まれ、着物の図案と同じ感覚で絵を描いた画家である。根津美術館の解説は、光琳が高級呉服商の家の出で、俵屋宗達に私淑したと記す。絵のほかに、焼き物や漆の器の意匠にも腕を振るった。

《波千鳥図の角皿》は、兄弟の合作である。クリーヴランド美術館の解説では、弟の乾山が皿の形を作り、光琳が鉄の絵具で千鳥と波を描いた。そのうえで乾山が透明な釉を掛けて焼いた。
皿の中には、渦を巻く波と、その上を飛ぶ千鳥が数羽描かれる。縁の四辺には唐草の文様がめぐる。光琳は絵のわきに署名を入れ、乾山は皿の裏に名を記した。菓子を盛る一揃いの皿の一枚だったという。館の記録では、乾山は1663年生まれで光琳の五つ下にあたり、1743年まで生きた。
光琳の図案は、没後も写されて広まった。クリーヴランド美術館には、19世紀の大坂の画家、中村芳中が光琳の絵を写して出した木版の画本二冊がある。館の解説は、芳中が光琳の図案の力を高く買っていたと記す。

同じころの水墨画に《梅》がある。館の解説では、白い梅の花は塗り残しで表された。先に木の形をざっと描き、花を置く所だけを残して絹全体に薄墨を掛けたとみられる。そのあと花びらや蕊を描き足したらしい。
折れた古い枝から、若い枝が鋭く空へ突き出す。左下には「法橋光琳」の署名と朱の印が見える。金も色も使わず、墨の濃淡と塗り残しだけで花を浮かせている。
光琳の絵はほかに何が残っているのか
板に描いた草花と、屏風の下絵が残っている。どちらもメトロポリタン美術館にあり、当サイトで画像を開ける。屏風の完成作だけでは見えない、仕事の幅と手順が分かる。
《春秋の草花》は、杉の板に描いた細長い二枚一組の絵である。館の記録では、画面は各137.2×20センチで、制作は1701年をすこし過ぎたころとされる。一枚には白い梅が枝を伸ばし、もう一枚には桔梗や薄などの秋草が下から立ち上がる。板の木目が、そのまま地の色になっている。
《松竹鶴図》は、館の記録では、下絵を貼り合わせて一双の屏風に仕立て直したものである。四曲と六曲の二隻からなり、18世紀はじめの作とされる。四曲の隻では、松の下に二羽の鶴が首を伸ばして立ち、左には細い線で水の流れが引かれる。紙の継ぎ目が、画面に格子のように見えている。
完成した屏風では、こうした下絵の線は金箔と絵具の下に隠れる。《八橋図》そのものの下絵は、当サイトの在庫には無い。
光琳の草花の絵とどこが違うのか
同じ画家の他の絵では、花の立体や葉の表裏まで描き込まれる。

《紫陽花》は縦長の掛幅である。青と白の花が房になり、緑と褐色の葉が重なる。館の記録は、この絵を「光琳に帰属」とし、光琳の手と断定していない。
絹の地は淡い茶色で、右側に広い余白が残る。茎は左下から上へ伸び、花の房が三段ほどに重なる。
ここでは葉の一枚ずつに形があり、濃淡で表と裏が描き分けられる。《八橋図》の平らな色面とは作りが違う。
落款の置き方も違う。《紫陽花》では左下にまとめて署名と朱の印が入る。
《八橋図》では右の端に小さく収まり、花の群れのわきに沈んでいる。

同じ館には、光琳の屏風がもう一点ある。《波濤図》は二曲の屏風で、金の地に墨の波が渦を巻く。波頭は指のように分かれて巻き込み、細い線が水の筋を引く。
館の記録では、制作は1704年から1709年ごろで、江戸にいた時期と重なる。《八橋図》より少し前の作である。花も橋も描かず、墨の濃淡と線だけで動きを作る。同じ金地を、静かな花の列にも荒い波にも使い分けたことが分かる。
波は濃い藍に近い墨色で塗られ、波頭だけが金の地の色を残して明るく抜ける。右上の波の上には「法橋光琳」の署名と丸い印が入る。二曲の屏風の折れ目を、大きな波がまたいで右から左へ寄せてくる。《八橋図》の橋と同じく、折れ目を越えて続く形が画面をつないでいる。

この屏風では、下半分を黒い水流が横切る。水面には金の細い線で波が引かれる。
白い菊が岸から生え、金地の上へ伸びる。花は白く丸く盛り上がり、葉は緑の小さな面が集まってできている。
金の地、黒い水、白い花という三つの色だけで画面が立つ。《八橋図》の金と青紫と緑の組み立てに近い。
ただし館の記録は、この屏風を光琳その人の作と断定していない。作者の可能性を示すにとどめている。
館の解説によれば、この屏風の署名には、弟の乾山が光琳に勧めた号が入る。この署名のある作は、重い病にあった最晩年か、没後に作られたとみる見方がある。その場合、仕事の大半は工房の手になる。金の波の規則正しさから、後の画家が光琳の図案に倣った可能性もあると館は記す。
同じ解説は、この画風を光琳の名の一字から「琳派」と呼ぶことにも触れる。花の形を思い切って整える感覚は、家業の呉服で身につけたものかもしれない、と館はみる。流れの金の波頭は、当時の小袖の文様を思わせるという。
四点を並べると、《八橋図》の特徴がはっきりする。背景を金一色にし、主題を花と橋の二つに絞った点である。
そのうえで、画面の横幅いっぱいに同じ花を繰り返す。繰り返しの中で、花の高さと向きだけが少しずつ変わる。
装飾の絵でありながら、一つとして同じ花はない。遠くから眺める絵であり、近くで見る絵でもある。
金地は、当たる光の量で見え方が変わる。強い光では白く飛び、弱い光では沈んで青紫の花が前に出る。







