画家を知る

黒は、面である——エドゥアール・マネ

黒は、当時の服の色である

黒い服が多い理由も押さえておきたい。

19世紀後半のヨーロッパでは、男性の正装は黒だった。

夜会服、礼服、職業服。いずれも黒か濃紺である。

女性の服にも黒が多い。喪服の期間が長く、外出着にも黒が使われた。

つまり都市の人の姿を描けば、画面は黒くなる。

この画家が黒を多用したのは、目の前の現実に従った結果でもある。

一方で、印象派の画家たちは屋外の光を主題に選んだ。

屋外では、影も色を持つ。だから黒の必要が薄くなる。

つまり黒の多さは、主題の場所の違いから来ている。

室内と夜の都市を描くか、屋外の昼を描くか。

同じ時代の画家の色の違いは、しばしば主題の場所の違いである。

舞台の黒

悲劇役者(ハムレットを演じるルヴィエール)
エドゥアール・マネ《悲劇役者(ハムレットを演じるルヴィエール)》1866年。油彩・画布。縦187.2センチ、横108.1センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。エドゥアール・マネ《悲劇役者(ハムレットを演じるルヴィエール)》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦187センチの大画面である。等身大を超える。

男が一人、立っている。

黒い上衣と黒い脚衣。肩から黒い布が垂れる。

首元には白い襟。顔は青白く、髭がある。

右手を前に出し、指を開いている。

床には剣が置かれている。柄の飾りが見える。

背景は灰褐色で、上へ向かって暗くなる。

つまりこれも空間のない画面である。

床と壁の境目がなく、人物は面の上に立っている。

黒い衣装は、輪郭の一部が背景に溶けている。

とくに肩から腕の外側は、境目が消えかかっている。

群像の中の黒

老音楽師
エドゥアール・マネ《老音楽師》1862年。油彩・画布。縦187.4センチ、横248.2センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。右下に「ed. Manet 1862」の署名と年記がある。エドゥアール・マネ《老音楽師》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

横2メートル半の大画面である。

七人が横一列に並んでいる。

中央に座る老人が、ヴァイオリンを持っている。

その左に少年が二人。白い服と黒い服である。

さらに左に、赤ん坊を抱いた女性。裸足である。

右には山高帽の男が立つ。黒い外套に身を包み、輪郭が大きい。

その隣にもう一人、黒い服の人物が画面の端で切れている。

地面は褐色。空は灰と青。

構成は横並びで、奥行きがほとんどない。

ここでも黒が効いている。

右の男の黒い外套が、画面の右端を締めている。

もし彼が明るい服なら、この構成は崩れるだろう。

黒は、画面の端に置く重石として使われている。

この一点には、もう一つの見どころがある。

人物どうしが視線を交わしていないことである。

七人はほぼ全員が正面を向き、互いを見ていない。

つまり群像でありながら、物語の関係がない。

写真の集合写真に近い構成である。

この構成も、当時は批判の対象になった。

物語を描かない絵として読まれたからである。

版画と写真の時代に

同時代の技術にも触れておきたい。

19世紀後半には、写真と写真製版が急速に普及した。

黒と白の階調で世界を写す技術である。

画家がそれを見ないわけがない。

黒を面として使う描き方は、写真の見え方と近い部分がある。

中間の階調を省き、明暗を対比させる。

ただし、影響の方向を断定するのは難しい。

写真から学んだのか、同じ時代の見方が両方に現れたのか。

本稿では、並行して起きた変化として書いておきたい。

黒でない絵も見ておく

黒の話を続ける前に、対照的な作品を見たい。

プラム・ブランデー
エドゥアール・マネ《プラム・ブランデー》1877年ごろ。油彩・画布。縦73.6センチ、横50.2センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。エドゥアール・マネ《プラム・ブランデー》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

若い女性が、大理石の卓に肘をついている。

服は桃色。袖に襞飾りがあり、胸元にレースが立つ。

頭には白い帽子。黒いリボンが巻かれている。

右手を頬に当て、左手を卓に置いている。

指のあいだに火の消えた煙草がある。

卓の上には脚付きのグラス。中に果実が入っている。

背後は赤い長椅子と、金色の枠、そして緑の格子の装飾。

明るい色が主体の画面である。

しかし黒も使われている。帽子のリボン、卓の下の陰、眉と瞳。

つまり少量の黒が、画面の焦点を作っている。

主題も見ておきたい。

題の「プラム・ブランデー」は、グラスの中の果実を指す。

女性は一人でカフェに座り、酒を前に手を止めている。

19世紀後半のパリでは、女性が一人でカフェにいることに意味があった。

働く女性、待つ女性、都市の孤独。

読み方は複数あり、断定はできない。

確かなのは、視線が交わらないことである。

彼女はこちらを見ていない。焦点は宙にある。

黒を減らしても、なくすわけではない。

材料を変えた一点

ミシェル=レヴィ夫人
エドゥアール・マネ《ミシェル=レヴィ夫人》1882年。画布にパステル。縦74.2センチ、横51センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。左下に「Manet / 1882」の署名と年記がある。エドゥアール・マネ《ミシェル=レヴィ夫人》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

これは油彩ではない。パステルである。

しかも紙ではなく、画布に描かれている。

女性が半身で描かれている。

胴着は暗い褐色で、胸元に白いレースの襞。

その下に水色の胴衣が覗く。刺繍の細い線が見える。

腕には淡い黄色の長手袋。片手に白い布を握る。

髪は黒く、額の上でまとめられ、細い帯が巻かれている。

顔は正面。頬と唇に赤みが強い。

背景は灰色で、パステルの粒が粗く残っている。

パステルは粉の絵具である。指や布で伸ばせる。

つまり境目を柔らかくするのに向いている。

晩年のこの画家は、パステルの肖像を数多く作っている。

体調の問題で長時間の制作が難しくなったためと説明されることが多い。

犬と花が、なぜ残ったのか

主題の幅について書いておきたい。

公開分には、犬の絵が二点、花の絵が数点含まれる。

いずれも小ぶりで、注文品というより手元の仕事に見える。

犬の肖像は、飼い主から頼まれることもあった。

花の小品は、贈り物や見舞いの品として作られた例が知られる。

つまり大画面の話題作の周囲に、こうした小さな仕事が並んでいる。

画家の生活は、代表作だけで成り立っているわけではない。

小品を含めて見ると、仕事の全体像が近づいてくる。