美術史・技法

「倣う」は、創造である——文徴明・唐寅・董其昌の明代書画

問い——なぜ「倣う」と題するのか

中国の文人画には、不思議な題の絵が多い。

「倪瓚(げいさん)に倣(なら)う」「米芾(べいふつ)の様式による」。

過去の画家に倣う、と画家みずからが題に掲げるのである。

しかも、そうした絵が二流の習作として扱われるのではない。

画家の代表作として尊ばれ、大切に伝えられてきた。

西洋の近代的な感覚なら、模倣は独創の反対語だろう。

誰も見たことのないものを作ること。

それが近代以降の西洋で、芸術家の価値の中心に置かれてきた。

その物差しで測れば、人まねを宣言した絵が名画とされるのは奇妙である。

だが中国の文人画では、事情がまるで違った。

「倣」は恥ではなく、堂々たる創造の作法だったのである。

手がかりは、書の稽古にある。

書を学ぶ人は、まず古人の名筆をなぞって書く。臨書という。

千年前の字をなぞりながら、しかし線には必ず自分が出る。

文人たちは、絵にもこれと同じ発想を持ち込んだ。

なぜそれが成立するのか。明の画家たちの実作を順に見ながら考えたい。

実在の庭を、八つの場面に

拙政園図帖
文徴明《拙政園図帖》1551年。八葉の冊。紙に墨。各葉縦26.4センチ、横27.3センチ。メトロポリタン美術館蔵。文徴明《拙政園図帖》メトロポリタン美術館蔵

文徴明が1551年に描いた冊である。八つの葉から成る。

冊とは、帳面のように仕立てて一葉ずつめくる形式である。

手巻よりさらに小さく、さらに手元に近い。

拙政園(せっせいえん)は、蘇州に実在する庭園である。

政治に拙(つたな)い者の庭、という謙遜めいた名を持つ。

役人を退いた人物が営んだ庭と伝えられる。

文徴明はこの庭の景を、一葉に一場面ずつ描いた。

竹林のあいだに小さな園亭が建ち、庭を歩く人の姿がある。

一葉は縦26.4センチ。手のひらより少し大きい程度である。

その小さな画面に、庭のひと隅の空気が閉じ込められている。

線は細く、均質で、震えない。書で鍛えられた線である。

墨の濃淡も抑えられ、声を張らない。

派手さはどこにもない。

だが隅々まで目の行き届いた、庭園そのもののような静けさがある。

実在の庭を写しながら、筆づかいは古典の教養に支えられている。

見たままを描くことと、古人に学ぶこと。

文人画では、この二つは矛盾しなかった。

松の上の、二階の書斎

高楼の住まい
文徴明《高楼の住まい》1543年。掛軸。紙に墨と彩色。縦95.3センチ、横45.7センチ。メトロポリタン美術館蔵。文徴明《高楼の住まい》メトロポリタン美術館蔵

こちらは掛軸である。1543年、文徴明七十代の筆になる。

松の木々のあいだに、二階建ての楼閣が建っている。

上の階に人が座り、静かに窓の外を眺めている。

墨を基調に、淡い彩色がひかえめに置かれている。

松の緑も、楼閣の柱も、声高には主張しない。

高い所に住まい、地上の埃から離れて書物と暮らす。

文人が思い描いた、理想の住まいの図である。

現実の文人が、皆こんな暮らしをできたわけではない。

だからこそ、この図は何度も描かれたのだろう。

こうした絵は、しばしば友人への贈り物になった。

あなたにふさわしい暮らしはこれだ、と絵で語りかけるのである。

虹の橋で、友を見送る

垂虹橋の別れ
唐寅《垂虹橋の別れ》1508年ごろ。手巻。紙に墨。縦29.7センチ、横107.6センチ。メトロポリタン美術館蔵。唐寅《垂虹橋の別れ》メトロポリタン美術館蔵

唐寅の手巻である。所蔵館の記録によれば、1508年ごろの作とされる。

垂虹橋(すいこうきょう)は、蘇州の近郊にあった長い橋である。

虹が垂れる、と名づけられた橋である。

画面には橋と舟、岸辺の柳、遠くにかすむ山が描かれる。

柳は昔から、別れの場面につきものの木である。

旅立つ友を橋のたもとまで送り、詩を交わして別れる。

その場面を絵に残し、旅立つ当人に贈る。

送別図という、当時の習慣である。

受け取った人は旅先でこの巻を開き、蘇州の友を思い出しただろう。

なお所蔵館の記録によれば、表具を含めた全長は9.5メートルに及ぶ。

画面自体は1メートルほどだから、後ろに長い紙が続いている。

別れに寄せた詩文が、そこに書き継がれていったためと考えられる。

絵が社交の言葉として働いていたことが、ここからもよく分かる。

月の下、舟の上の酔漢

葦辺の酔漁
唐寅《葦辺の酔漁》16世紀初め。掛軸。紙に墨。縦72.2センチ、横37センチ。メトロポリタン美術館蔵。唐寅《葦辺の酔漁》メトロポリタン美術館蔵

月が出ている。葦の茂る岸辺に、小さな舟が浮かぶ。

舟の上の漁師は、酔って身を横たえているらしい。

釣りの絵ではない。釣りを口実に、世を離れている人の絵である。

そして画面の上部には、大きな字で詩が書かれている。

絵の面積に迫るほどの、堂々たる書である。

絵の余白に詩を書き入れる。題詩という。

詩が絵を語り、絵が詩を映す。二つは一体である。

ここで、唐寅その人のことを書いておきたい。

唐寅は若くして科挙に挑み、抜群の成績を収めたと伝えられる。

だが試験の不正事件に巻き込まれ、官僚への道を断たれたという。

本人が不正を働いたのかどうか、確かなことは分からない。

ともかく、文人としての正規の出世は閉ざされた。

以後は蘇州で絵を売って生きた才子だった、と伝えられる。

同じ年に生まれた文徴明が、長寿と名望を得たのとは対照的である。

文人の教養を持ちながら、職業画家として生きる。

その両義の立場が、唐寅の絵に独特の陰影を与えたのだろう。

月下に酔う漁師は、世の外へ逸れた男の自画像のようにも見える。

もっとも、それは後世の目が重ねた物語かもしれない。

確かなのは、詩と書と画が一枚の上で響き合っていることである。