美術史・技法

「倣う」は、創造である——文徴明・唐寅・董其昌の明代書画

董其昌——「倣」の理論家

舞台は蘇州から、同じ長江下流の松江(しょうこう)へ移る。

董其昌(とうきしょう、1555〜1636)。

明末の高級官僚であり、当代一流の書家であり、画家である。

大収集家、鑑定家としても知られた。

古画の名品を実際に手に取り、目を鍛えた人である。

そして「倣」という作法を、理論にまで高めた人物である。

倣古山水図帖
董其昌《倣古山水図帖》1630年。八葉の冊。紙に墨。各葉縦24.4センチ、横16センチ。メトロポリタン美術館蔵。董其昌《倣古山水図帖》メトロポリタン美術館蔵

1630年の冊である。題はそのまま、古人に倣う山水の帖。

八つの葉で、過去の巨匠たちの様式を一葉ずつ演じ分けている。

所蔵館の記録によれば、「巌居高士」などの自題が添えられている。

乾いた筆で山と樹が組み立てられ、葉をめくるごとに骨格が変わる。

これは写生ではない。

目の前の山ではなく、記憶の中の古画を描いているのである。

いわば筆による美術史の講義であり、同時に自作の見本帖でもある。

しかも、どの葉も元の絵の複製にはなっていない。

様式の骨格だけを取り出し、あとは自分の筆で押し通す。

倣うことと、自分を消すことは別なのだと、この冊は示している。

倪瓚に倣う、と宣言する

倪瓚に倣う山水
董其昌《倪瓚に倣う山水》1622〜25年ごろ。掛軸。紙に墨。縦115.6センチ、横45.7センチ。メトロポリタン美術館蔵。董其昌《倪瓚に倣う山水》メトロポリタン美術館蔵

倪瓚(1301〜1374)は元代の画家である。

手前にまばらな樹を置き、広い水面を隔てて遠い岸を望む。

人影のない、乾いて澄みきった構図。それが倪瓚の様式である。

後世の文人たちは、この孤高の画風を敬愛してやまなかった。

倪瓚に倣うことは、その清らかさに連なるという表明でもある。

董其昌はその骨組みを借り、自分の筆致で組み直した。

倪瓚らしさは残り、しかし線の性格は董其昌のものになっている。

軸には別紙の題跋(だいばつ)が添う。

絵をめぐる後人の言葉もまた、作品の一部として伝えられていく。

繻子の上の、潤んだ点

米芾様式の山水
董其昌《米芾様式の山水》1611年・1612年の年記。手巻。繻子に墨。縦25.9センチ、横219.1センチ。メトロポリタン美術館蔵。董其昌《米芾様式の山水》メトロポリタン美術館蔵

この手巻の手本は米芾。宋代の書家であり画家である。

横に寝かせた墨の点を幾重にも重ね、雲のかかる山を作る。

その独特の様式を、董其昌は繻子(しゅす)の上で試みた。

繻子とはつやのある絹織物、いわゆるサテンである。

なめらかな布の上で、墨は紙とは違う潤み方をする。

点はにじみ、輪郭は溶け、山はいっそう雨を含んだように見える。

素材の選択そのものが、様式の解釈になっているのである。

古い様式と、新しい素材。「倣」は実験の場でもあった。

董其昌はさらに、画の歴史全体を二つの系譜に整理した。

職業画家の系譜を北宗、文人の系譜を南宗と呼び、南宗を正統とした。

禅宗に南北の二派があることに、なぞらえた命名と伝えられる。

技巧を磨く職業画家より、胸中を写す文人が上である。

そう宣言する、はなはだ党派的な理論でもあった。

だがこの南北二宗の図式は、以後の東アジアの絵画観を長く決定づける。

どの古人に倣うかが、画家の立場の表明になったのである。

青と緑の山に、隠れる

青緑山水の中の隠者
陳洪綬《青緑山水の中の隠者》1633年。掛軸。絹に墨と彩色。縦235.6センチ、横77.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。陳洪綬《青緑山水の中の隠者》メトロポリタン美術館蔵

最後は陳洪綬(ちんこうじゅ、1599〜1652)。

明という王朝が滅びへ向かう時代を生きた画家である。

この絵の1633年から十年あまりで、明は実際に滅びることになる。

縦235.6センチの大幅。見上げるほどの掛軸である。

ここまで見てきた墨の絵とは、まるで表情が違う。

絹の上に、鉱物顔料の青と緑が濃く塗り重ねられている。

青緑山水(せいりょくさんすい)という、唐代にさかのぼる古風な様式である。

岩山は装飾的にうねり、そのふもとに白衣の人物が小さく立つ。

俗世を離れた隠者の姿である。

岩の輪郭はどこか硬く、雲の形は図案のように様式化されている。

洗練を知る画家が、あえて素朴に、あえて古めかしく描いている。

わざと古拙に、わざと時代がかって描く。復古趣味の演技である。

これもまた「倣」の一つの形と言ってよい。

特定の一人にではなく、遠い古代の絵画そのものに倣うのである。

崩れていく現在から、絵の中の古代へ身を隠す。

明末に至って、「倣」は切実な避難所の色を帯びたのだろう。

見立て——古い歌を、自分の声で

ここまでを、一つの比喩でまとめてみたい。

「倣」は、ジャズの演奏に似ている。

ジャズの奏者は、誰もが知る古い定番曲を繰り返し演奏する。

曲は借り物でも、演奏はその人のものである。

むしろ同じ曲だからこそ、解釈の違いが際立って聞こえる。

新しい曲を書くことだけが、創造なのではない。

文人画の「倣」も同じである。

倪瓚という曲があり、米芾という曲がある。

それをどう弾くかに、画家の学識と人柄が現れる。

聴き手の側にも、教養が要る。

元の曲を知らなければ、崩し方の妙は聴き取れない。

文人画も同じで、倪瓚を知る目にだけ、董其昌の解釈が見える。

描き手と見る手が、同じ古典を共有している。

「倣」は、その信頼の上に成り立つ遊びだった。

だから「倣」は模倣ではなく、解釈なのである。

冒頭で触れた臨書の発想が、ここで一本につながる。

古人の字をなぞっても、線は必ず自分のものになってしまう。

その「なってしまう」部分にこそ、価値が置かれたのだ。

引き取り——印は、まだ増え続けている

この考え方は、海を渡った。

江戸時代の日本では、南宗画の理念が南画として受け継がれる。

日本の文人たちもまた、倪瓚に倣い、米芾に倣って描いた。

その展開は日本の文人画で書いた。

最初の巻に戻ろう。文徴明の《東の林の夏ごもり》である。

あの赤い印の列は、「倣」と同じことを別の形で語っている。

絵は一人では完結しない。

過去から受け取り、自分の解釈を加え、次の手へ渡す。

歴代の収集家が印を押し重ねたように、である。

「倣」もまた、様式の上に押された印のようなものだった。

倪瓚の構図の上に、董其昌という印が押される。

いま、巻は海の向こうの美術館にあり、紙の上の印はもう増えない。

だが画面の前に立ち止まり、この林を読む人は今も絶えない。

見えない鑑蔵印は、五百年を越えて、まだ増え続けている。

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