「倣う」は、創造である——文徴明・唐寅・董其昌の明代書画
「倪瓚に倣う」と画家みずから題に掲げ、しかもその絵が名画として尊ばれる。模倣と独創の常識が逆転する明代の文人画の世界を、蘇州の文徴明・唐寅から松江の董其昌まで九点でたどる。鍵は、書の臨書と、紙に散る赤い鑑蔵印にある。

赤い印が、紙の上に散っている
一枚の絵、と言うより一巻の絵から始めたい。

横に長い紙である。画面は縦31.8センチ、横108センチ。
墨だけで、水辺の林が描かれている。彩色はない。
葉を茂らせた木々が並び、その奥に小さな屋根がのぞく。
枝葉は濃い墨で、幹は淡い墨で描き分けられている。
色がなくても、画面には夏の湿った空気がこもっている。
木陰の家で、人が暑さをやり過ごしている。夏の絵である。
題は《東の林の夏ごもり》。東の林で夏を避ける、という画題である。
描いたのは文徴明(ぶんちょうめい、1470〜1559)。
明の時代、蘇州(そしゅう)に生きた人である。
所蔵館の記録によれば、巻に添えられた書は1512年のものとされる。
だが、最初に目を引くのは絵そのものではないかもしれない。
巻の冒頭に、大ぶりの赤い印がいくつも並んで押されている。
紙の余白にも、絵のきわにも、点々と朱色が散る。
四角い印、細長い印、大小さまざまの印が重なり合う。
墨一色の静かな画面で、そこだけが鮮やかに赤い。
西洋絵画に慣れた目には、異様な光景かもしれない。
完成した絵に、他人が次々と判を押しているのだから。
これは汚れでも、落書きでもない。鑑蔵印(かんぞういん)という。
この巻を所有し、鑑賞した歴代の収集家たちが、自分の印を押した跡である。
誰の手を経てきたかという来歴は、絵の価値そのものだった。
だから印の多さは、しばしば絵の格の証しと受け取られた。
中国の書画では、これが長いあいだ当たり前の習慣だった。
よい絵ほど多くの手を渡り、多くの印を押される。
印だけではない。
巻の前後には、後世の鑑賞者が感想や考証を書き加えることもあった。
これを題跋(だいばつ)という。
西洋の油絵で言えば、額縁に歴代の持ち主が署名していくようなものだ。
画面を汚す行為ではなく、絵に敬意を払う行為だった。
赤い印は、この絵が「読まれ、所有され、伝えられてきた」痕跡である。
絵の履歴書と言ってもよい。
つまりこの紙の上には、五百年ぶんの「読まれた時間」が積もっている。
この感覚を覚えておいてほしい。
絵を過去から受け取り、しるしを加えて次へ渡すという感覚である。
それが、この記事の主題につながっていく。
手巻は、手の中で少しずつ開く
この作品は手巻(しゅかん)という形式である。
壁に掛ける絵ではない。机の上に置き、手元で見る絵である。
右端から左へ、肩幅ほどの分だけ巻きを繰り、少しずつ読み進める。
見終えた部分は左手で巻き取っていく。
目の前に開かれているのは、いつも全体の一部分だけだ。
だから手巻の鑑賞には、時間が流れる。
一望する絵ではなく、頁をめくるように読む絵である。
絵というより、絵の形をした書物に近い。
見る人数も限られる。
美術館の壁の前に並ぶ群衆ではなく、机を囲む二、三人である。
友人が集まり、茶を飲みながら、秘蔵の巻を披露する。
手巻は、そういう親密な席のための形式だった。
中国の書画にはほかに、壁に掛ける掛軸がある。
ただし常設ではなく、季節や客に合わせて掛け替えるのが本来である。
帳面のように綴じて、一葉ずつめくる冊(さつ)もある。
この記事では、手巻と掛軸と冊、三つの形式がすべて登場する。
東アジアの絵の形式については掛軸・屏風・扇でも書いた。
本作では、絵のあとに、絵とほぼ同じ長さの書が続く。
画家自身の手になる詩文の書である。
先に触れた1512年の年記も、この書の部分にある。
絵を見終えた目が、そのまま同じ人の字を読み進めることになる。
絵と詩と書。この三つを分けないのが、中国書画の前提である。
三つをすべてよくすることは「三絶」と呼ばれ、文人の理想とされた。
文人画という営み
文徴明は、絵を売るために描く職業画家ではなかった。
文人(ぶんじん)である。
文人とは、古典を学び、詩文と書をよくする知識人を指す。
多くは科挙(かきょ)という官僚登用試験を目指す読書人だった。
彼らにとって、絵は商品ではなく教養の延長である。
詩を作り、字を書くのと同じ手で、余技として山水を描く。
これを文人画と呼ぶ。
うまく描くことよりも、俗っぽくならないことが重んじられた。
鮮やかな彩色よりも墨を、細密な技巧よりも気韻を尊ぶ。
絵の出来ばえは、その人の学識と人格の反映と考えられたのである。
その理念は宋や元の時代に育ち、明の時代に大きく花開いた。
中心となった土地が、文徴明の住む蘇州である。
蘇州は長江の下流に広がる水郷の都市で、経済と文化の先進地だった。
運河がめぐり、庭園が造られ、収集家と画家が集まった。
絵を描く人と、絵を蓄えて論じる人が、同じ町に住んでいたのである。
この地の画家たちは、蘇州の古名「呉」にちなんで呉派(ごは)と呼ばれる。
文徴明は、その呉派の中心にいた人物と目されている。
もっとも、文徴明自身の役人人生は華やかではなかった。
科挙にはたびたび落ち、都での仕官も短く終えたと伝えられる。
官途よりも、蘇州で書画に生きた歳月の方がはるかに長い。
九十年ちかい生涯を、この人は筆とともに過ごした。
そしてもう一人、同じ蘇州に、同じ1470年に生まれた画家がいた。
唐寅(とういん、1470〜1524)。のちに見る。
だがその前に、この記事の問いを立てておきたい。
問い——なぜ「倣う」と題するのか
中国の文人画には、不思議な題の絵が多い。
「倪瓚(げいさん)に倣(なら)う」「米芾(べいふつ)の様式による」。
過去の画家に倣う、と画家みずからが題に掲げるのである。
しかも、そうした絵が二流の習作として扱われるのではない。
画家の代表作として尊ばれ、大切に伝えられてきた。
西洋の近代的な感覚なら、模倣は独創の反対語だろう。
誰も見たことのないものを作ること。
それが近代以降の西洋で、芸術家の価値の中心に置かれてきた。
その物差しで測れば、人まねを宣言した絵が名画とされるのは奇妙である。
だが中国の文人画では、事情がまるで違った。
「倣」は恥ではなく、堂々たる創造の作法だったのである。
手がかりは、書の稽古にある。
書を学ぶ人は、まず古人の名筆をなぞって書く。臨書という。
千年前の字をなぞりながら、しかし線には必ず自分が出る。
文人たちは、絵にもこれと同じ発想を持ち込んだ。
なぜそれが成立するのか。明の画家たちの実作を順に見ながら考えたい。
実在の庭を、八つの場面に

文徴明が1551年に描いた冊である。八つの葉から成る。
冊とは、帳面のように仕立てて一葉ずつめくる形式である。
手巻よりさらに小さく、さらに手元に近い。
拙政園(せっせいえん)は、蘇州に実在する庭園である。
政治に拙(つたな)い者の庭、という謙遜めいた名を持つ。
役人を退いた人物が営んだ庭と伝えられる。
文徴明はこの庭の景を、一葉に一場面ずつ描いた。
竹林のあいだに小さな園亭が建ち、庭を歩く人の姿がある。
一葉は縦26.4センチ。手のひらより少し大きい程度である。
その小さな画面に、庭のひと隅の空気が閉じ込められている。
線は細く、均質で、震えない。書で鍛えられた線である。
墨の濃淡も抑えられ、声を張らない。
派手さはどこにもない。
だが隅々まで目の行き届いた、庭園そのもののような静けさがある。
実在の庭を写しながら、筆づかいは古典の教養に支えられている。
見たままを描くことと、古人に学ぶこと。
文人画では、この二つは矛盾しなかった。
松の上の、二階の書斎

こちらは掛軸である。1543年、文徴明七十代の筆になる。
松の木々のあいだに、二階建ての楼閣が建っている。
上の階に人が座り、静かに窓の外を眺めている。
墨を基調に、淡い彩色がひかえめに置かれている。
松の緑も、楼閣の柱も、声高には主張しない。
高い所に住まい、地上の埃から離れて書物と暮らす。
文人が思い描いた、理想の住まいの図である。
現実の文人が、皆こんな暮らしをできたわけではない。
だからこそ、この図は何度も描かれたのだろう。
こうした絵は、しばしば友人への贈り物になった。
あなたにふさわしい暮らしはこれだ、と絵で語りかけるのである。
虹の橋で、友を見送る

唐寅の手巻である。所蔵館の記録によれば、1508年ごろの作とされる。
垂虹橋(すいこうきょう)は、蘇州の近郊にあった長い橋である。
虹が垂れる、と名づけられた橋である。
画面には橋と舟、岸辺の柳、遠くにかすむ山が描かれる。
柳は昔から、別れの場面につきものの木である。
旅立つ友を橋のたもとまで送り、詩を交わして別れる。
その場面を絵に残し、旅立つ当人に贈る。
送別図という、当時の習慣である。
受け取った人は旅先でこの巻を開き、蘇州の友を思い出しただろう。
なお所蔵館の記録によれば、表具を含めた全長は9.5メートルに及ぶ。
画面自体は1メートルほどだから、後ろに長い紙が続いている。
別れに寄せた詩文が、そこに書き継がれていったためと考えられる。
絵が社交の言葉として働いていたことが、ここからもよく分かる。
月の下、舟の上の酔漢

月が出ている。葦の茂る岸辺に、小さな舟が浮かぶ。
舟の上の漁師は、酔って身を横たえているらしい。
釣りの絵ではない。釣りを口実に、世を離れている人の絵である。
そして画面の上部には、大きな字で詩が書かれている。
絵の面積に迫るほどの、堂々たる書である。
絵の余白に詩を書き入れる。題詩という。
詩が絵を語り、絵が詩を映す。二つは一体である。
ここで、唐寅その人のことを書いておきたい。
唐寅は若くして科挙に挑み、抜群の成績を収めたと伝えられる。
だが試験の不正事件に巻き込まれ、官僚への道を断たれたという。
本人が不正を働いたのかどうか、確かなことは分からない。
ともかく、文人としての正規の出世は閉ざされた。
以後は蘇州で絵を売って生きた才子だった、と伝えられる。
同じ年に生まれた文徴明が、長寿と名望を得たのとは対照的である。
文人の教養を持ちながら、職業画家として生きる。
その両義の立場が、唐寅の絵に独特の陰影を与えたのだろう。
月下に酔う漁師は、世の外へ逸れた男の自画像のようにも見える。
もっとも、それは後世の目が重ねた物語かもしれない。
確かなのは、詩と書と画が一枚の上で響き合っていることである。
董其昌——「倣」の理論家
舞台は蘇州から、同じ長江下流の松江(しょうこう)へ移る。
董其昌(とうきしょう、1555〜1636)。
明末の高級官僚であり、当代一流の書家であり、画家である。
大収集家、鑑定家としても知られた。
古画の名品を実際に手に取り、目を鍛えた人である。
そして「倣」という作法を、理論にまで高めた人物である。

1630年の冊である。題はそのまま、古人に倣う山水の帖。
八つの葉で、過去の巨匠たちの様式を一葉ずつ演じ分けている。
所蔵館の記録によれば、「巌居高士」などの自題が添えられている。
乾いた筆で山と樹が組み立てられ、葉をめくるごとに骨格が変わる。
これは写生ではない。
目の前の山ではなく、記憶の中の古画を描いているのである。
いわば筆による美術史の講義であり、同時に自作の見本帖でもある。
しかも、どの葉も元の絵の複製にはなっていない。
様式の骨格だけを取り出し、あとは自分の筆で押し通す。
倣うことと、自分を消すことは別なのだと、この冊は示している。
倪瓚に倣う、と宣言する

倪瓚(1301〜1374)は元代の画家である。
手前にまばらな樹を置き、広い水面を隔てて遠い岸を望む。
人影のない、乾いて澄みきった構図。それが倪瓚の様式である。
後世の文人たちは、この孤高の画風を敬愛してやまなかった。
倪瓚に倣うことは、その清らかさに連なるという表明でもある。
董其昌はその骨組みを借り、自分の筆致で組み直した。
倪瓚らしさは残り、しかし線の性格は董其昌のものになっている。
軸には別紙の題跋(だいばつ)が添う。
絵をめぐる後人の言葉もまた、作品の一部として伝えられていく。
繻子の上の、潤んだ点

この手巻の手本は米芾。宋代の書家であり画家である。
横に寝かせた墨の点を幾重にも重ね、雲のかかる山を作る。
その独特の様式を、董其昌は繻子(しゅす)の上で試みた。
繻子とはつやのある絹織物、いわゆるサテンである。
なめらかな布の上で、墨は紙とは違う潤み方をする。
点はにじみ、輪郭は溶け、山はいっそう雨を含んだように見える。
素材の選択そのものが、様式の解釈になっているのである。
古い様式と、新しい素材。「倣」は実験の場でもあった。
董其昌はさらに、画の歴史全体を二つの系譜に整理した。
職業画家の系譜を北宗、文人の系譜を南宗と呼び、南宗を正統とした。
禅宗に南北の二派があることに、なぞらえた命名と伝えられる。
技巧を磨く職業画家より、胸中を写す文人が上である。
そう宣言する、はなはだ党派的な理論でもあった。
だがこの南北二宗の図式は、以後の東アジアの絵画観を長く決定づける。
どの古人に倣うかが、画家の立場の表明になったのである。
青と緑の山に、隠れる

最後は陳洪綬(ちんこうじゅ、1599〜1652)。
明という王朝が滅びへ向かう時代を生きた画家である。
この絵の1633年から十年あまりで、明は実際に滅びることになる。
縦235.6センチの大幅。見上げるほどの掛軸である。
ここまで見てきた墨の絵とは、まるで表情が違う。
絹の上に、鉱物顔料の青と緑が濃く塗り重ねられている。
青緑山水(せいりょくさんすい)という、唐代にさかのぼる古風な様式である。
岩山は装飾的にうねり、そのふもとに白衣の人物が小さく立つ。
俗世を離れた隠者の姿である。
岩の輪郭はどこか硬く、雲の形は図案のように様式化されている。
洗練を知る画家が、あえて素朴に、あえて古めかしく描いている。
わざと古拙に、わざと時代がかって描く。復古趣味の演技である。
これもまた「倣」の一つの形と言ってよい。
特定の一人にではなく、遠い古代の絵画そのものに倣うのである。
崩れていく現在から、絵の中の古代へ身を隠す。
明末に至って、「倣」は切実な避難所の色を帯びたのだろう。
見立て——古い歌を、自分の声で
ここまでを、一つの比喩でまとめてみたい。
「倣」は、ジャズの演奏に似ている。
ジャズの奏者は、誰もが知る古い定番曲を繰り返し演奏する。
曲は借り物でも、演奏はその人のものである。
むしろ同じ曲だからこそ、解釈の違いが際立って聞こえる。
新しい曲を書くことだけが、創造なのではない。
文人画の「倣」も同じである。
倪瓚という曲があり、米芾という曲がある。
それをどう弾くかに、画家の学識と人柄が現れる。
聴き手の側にも、教養が要る。
元の曲を知らなければ、崩し方の妙は聴き取れない。
文人画も同じで、倪瓚を知る目にだけ、董其昌の解釈が見える。
描き手と見る手が、同じ古典を共有している。
「倣」は、その信頼の上に成り立つ遊びだった。
だから「倣」は模倣ではなく、解釈なのである。
冒頭で触れた臨書の発想が、ここで一本につながる。
古人の字をなぞっても、線は必ず自分のものになってしまう。
その「なってしまう」部分にこそ、価値が置かれたのだ。
引き取り——印は、まだ増え続けている
この考え方は、海を渡った。
江戸時代の日本では、南宗画の理念が南画として受け継がれる。
日本の文人たちもまた、倪瓚に倣い、米芾に倣って描いた。
その展開は日本の文人画で書いた。
最初の巻に戻ろう。文徴明の《東の林の夏ごもり》である。
あの赤い印の列は、「倣」と同じことを別の形で語っている。
絵は一人では完結しない。
過去から受け取り、自分の解釈を加え、次の手へ渡す。
歴代の収集家が印を押し重ねたように、である。
「倣」もまた、様式の上に押された印のようなものだった。
倪瓚の構図の上に、董其昌という印が押される。
いま、巻は海の向こうの美術館にあり、紙の上の印はもう増えない。
だが画面の前に立ち止まり、この林を読む人は今も絶えない。
見えない鑑蔵印は、五百年を越えて、まだ増え続けている。


