モネはなぜ、同じ麦の山を二十五回描いたのか——連作という発明
連作という発明
この二枚は、二十点を超える一群の一部である。
モネは1890年の秋から翌年にかけて、同じ畑の同じ麦の山を繰り返し描いた。数え方によるが、二十五点前後とされる。
制作の方法が変わっている。彼は複数の画布を同時に持ち出し、光が変わるたびに別の画布へ移った。
一枚を仕上げてから次へ、ではない。ある時刻の条件に対応する画布が一枚ずつあり、その時刻が来たら続きを描く。
一日のうちに何度も画布を取り替える。手押し車に何枚も載せて畑へ行った、という話が残っている。
そして1891年5月4日、パリの画商デュラン=リュエルの画廊で展覧会が開かれた。近作二十二点のうち、十五点がこの麦の山だった。
結果は劇的だった。批評でも商業でも成功し、作品は数日のうちに売れたと伝えられる。
重要なのは、彼が「まとめて見せる」ことにこだわった点である。一枚では実験にならない。並んでいてはじめて、条件の違いが主題になる。
この展覧会が、いわゆる連作というやり方の始まりとされる。以後モネは、ポプラ並木、大聖堂、ロンドンの橋、そして睡蓮と、同じ方法を繰り返していく。
ロンドンの冬
十年ほど下って、彼はロンドンにいる。1899年の秋から、三度の冬をこの街で過ごした。
滞在先はテムズ川に面したサヴォイ・ホテルの五階。バルコニーに立つと、左手にウォータールー橋、右手にチャリング・クロス橋が見えた。

冬のロンドンは、石炭の煙と霧で有名だった。視界は悪く、色は濁る。普通なら描きにくい条件である。
モネはむしろ、それを目当てに来ている。空気そのものが色を持つ場所として、この街を選んだ。

二枚を並べると、麦の山のときと同じ構造が見える。位置も構図もほぼ同じで、変わっているのは大気の色だけである。
橙色の点は、橋の上を行き来する車両や人の群れだろう。曇りの一枚では、それが灰色に沈んで見分けられない。
同じ場所の同じ眺めが、天候によってここまで違う。彼が繰り返した理由は、この差を並べて示すことにあった。
ウォータールー橋を主題にした作品は四十点を超える。チャリング・クロス橋も三十点以上ある。一つの窓から、七十点以上が生まれた計算になる。
その霧は、何でできていたか
ロンドンの色について、ひとつ補っておきたい。当時のこの街の空気は、自然現象だけでできていたわけではない。
十九世紀後半のロンドンは、石炭を燃やす都市だった。家庭の暖炉も工場も鉄道も、すべて石炭である。
その煤が霧と混ざり、独特の濁りを生んだ。黄色がかったり、緑がかったり、赤みを帯びたりする。
健康にはよくない。呼吸器の病が増え、時代が下ると深刻な事故も起きている。美しい霧の正体は、大気汚染でもあった。
モネはそれを承知のうえで、霧がなければこの街は美しくない、という趣旨のことを語ったと伝えられる。
彼が探していたのは、清潔な自然ではなく、光を散らす媒質だった。工場の煙も、その媒質の一部として画面に入っている。
先ほどの二枚を見直してほしい。曇りの一枚では、煙突から出た煙が空と同じ色に溶けている。
産業の副産物が、絵の主題になっている。近代の風景画には、しばしばこういう転倒がある。
制作年は、完成年ではない
ここで、少し意外な事実に触れておきたい。この二枚の年記は1900年と1903年だが、どちらもロンドン滞在中に始められている。
モネはロンドンで描いた画布をジヴェルニーへ持ち帰り、自分のアトリエで仕上げた。全体として満足できるまで、画商にも渡さなかった。
つまり画面に書き込まれた年は、描きはじめた年でも、現場を離れた年でもない。彼が「これで完成だ」と判断した年である。
戸外で一気に描き上げる画家、という印象は、この事実と噛み合わない。実際には、現場での採取と、室内での調整の二段構えである。
ロランが素描で光の配分を採取し、工房で油彩に組み直したことを別のコラムで書いた。方法としては、二百五十年後のモネもそう遠くない。
違うのは、採取の道具が油彩そのものになったことである。チューブ入りの絵具が普及し、画布を屋外へ持ち出せるようになった時代の産物でもある。
そしてもうひとつ違うのは、仕上げの目的である。ロランは一枚として完成させたが、モネは「群として釣り合うこと」を目指した。
連作では、一枚だけ調子が外れると全体が壊れる。だから彼は、並べたときの見え方を基準に手を入れ続けた。
一つの窓から、三つの主題
ロンドンで彼が描いた主題は、実は三つある。
サヴォイの部屋から見える二つの橋、そして川下の対岸に建つ国会議事堂である。

議事堂だけは、ホテルからは描けなかった。少し離れた病院の一室を借り、そこから川越しに眺めている。
三つの主題を、時刻と天候で分ける。午前は片方の橋、午後はもう片方、夕方は議事堂、というように。
ロンドン滞在で始められた画布は、合わせて百点近くにのぼるとされる。一度の滞在で扱う数としては異常である。
しかも、どれも未完成のまま持ち帰られた。並べたときの釣り合いが取れるまで、彼は手を離さなかった。
この仕事の進め方は、画家というより工場の生産管理に近い。何をいつ、どの条件で進めるかを、光の側の都合に合わせて割り当てている。