三枚続の、左の一枚——写楽、歌麿、清長ほか九点

こちらは、二枚が残っている。
三枚のうち、一枚だけが欠けている。
寸法は、縦三八・四センチ、横五二・一センチ。
大判二枚ぶんである。
画像を見ると、二枚が並んでいる。
左に、車のついた大きな箱と、それを引く人々。
右に、建物の縁側と、そこに座る人物。
そして、中央に紙の継ぎ目が一本ある。
右端で、絵が切れている。
つまり、欠けているのは右の一枚だろう。
二枚だけでも、場面の大半は読める。
三枚のうち二枚あれば、そういうことが起きる。
一枚だけとは、見え方がずいぶん違う。
二枚続か、三枚続か

技法の欄が、さらに慎重である。
「二枚続あるいは三枚続の一枚」。
何枚組だったかも分からない。
黄色い地に、役者が一人立っている。
刀を背負い、片足を前に踏み出している。
顔は横を向き、口を開いている。
衣は、緑と赤の模様。
左下に、署名らしい文字。
この一枚から、組の大きさを決めることはできない。
隣にどんな絵があったかも分からない。
分かるのは、単独の絵ではなかったらしい、ということだけである。
写楽の三枚が、三枚とも一枚ずつである
九点のうち三点が、同じ画家の作である。
東洲斎写楽。
館の記録は、活動時期を一七九四年から一七九五年とだけ書く。
生没年はない。
わずか十か月ほどの期間に、多くの役者絵を残した人である。
その三点が、いずれも三枚続の一枚である。
左の一枚。中央の一枚。おそらく一枚。
三点とも、組から離れている。
しかも、三点は別々の受入である。
一九一一年、一九二九年、一九三六年。
二十五年にわたって、一枚ずつ集まってきた。
同じ組の三枚がそろったわけではない。
別々の組の、別々の一枚である。
こういう集まり方が、細判の役者絵では普通だろう。
一枚ずつ流通し、一枚ずつ買われる。
そして、一枚ずつ館に入る。
三枚続としての姿は、どこにも残らない。
残るのは、技法の欄の一行だけである。
判型で、ばらけやすさが変わる
九点の判型を整理してみる。
細判が四点。縦三〇センチから三二センチ、横一五センチ前後。
大判が三点。縦三六センチから三八センチ、横二五センチから二六センチ。
中判に近いものが一点。縦二五・七センチ、横一八・九センチ。
そして二枚残っているものが一点。
細判の四点は、いずれも役者が一人ずつ描かれている。
一枚で完結する作りである。
だから、ばらけても困らない。
大判の三点は、一つの場面が三枚にまたがっている。
一枚だけでは、場面が切れる。
それでも、ばらけている。
つまり、ばらけやすさは判型だけでは決まらない。
売られ方、集められ方、そして偶然が働く。
一枚で完結する細判のほうが、ばらけても自然に見えるというだけである。
大判の一枚は、切れた絵として残る。
その切れ目が、失われた二枚を指している。
「らしい」を、どう判断するか
一枚だけを見て、組の一部だと分かるのはなぜか。
いくつかの手がかりがある。
一つは、画面の端で絵が切れていることである。
人物が半分だけ写っている。
建物の柱が、端で断たれている。
一枚の版画なら、そういう作りにはしない。
もう一つは、視線と姿勢である。
役者が画面の外を見ている。
手を、画面の外へ伸ばしている。
相手が、隣の一枚にいる。
そして、同じ興行の役者絵が他にも残っている場合、組み合わせが推定できる。
館の記録は、こうした判断の結果だけを書いている。
「左の一枚」「中央の一枚」「おそらく一枚」「二枚続あるいは三枚続」。
確からしさの段階が、語の選び方に表れている。
「おそらく」と「あるいは」
技法の欄には、確からしさを示す語がいくつか使われている。
九点のうち、二点にその語がある。
「おそらく三枚続の一枚」。
「二枚続あるいは三枚続の一枚」。
前者は、組の一部かどうかが不確かである。
後者は、組の大きさが不確かである。
不確かさの種類が違う。
そして、残りの七点にはこの語がない。
「左の一枚」「中央の一枚」「右の一枚」と、言い切っている。
言い切れるのは、根拠があるからだろう。
絵の切れ方、役者の組み合わせ、同じ興行の他の版画。
そういう材料から、位置まで決められる。
決められないときは、決めない。
この使い分けが、記録の質を作っている。
前の回に見た年の欄でも、同じことがあった。
「一八三八年ごろ以降」。
「一一九五年以前」。
分かる側だけを書き、分からない側は書かない。
技法の欄でも、同じ作法が働いている。
欠けていることを、記録に書く
前の回の三枚続では、三枚そろっていた。
今回は、そろっていない。
そして館は、そろっていないことを技法の欄に書いた。
これは、当たり前のようで、そうではない。
書かなければ、一枚の版画として通る。
役者絵として、それだけで鑑賞できる。
写楽の《二代目中山富三郎》は、単独でも立派な絵である。
それでも、館は「左の一枚」と書いた。
理由は、そう書かなければ嘘になるからだろう。
もとは三枚だった。
いま一枚しかない。
その事実を消さない。
前の回に見た「散逸した写本の一葉」も、同じ考え方だった。
失われたものを、名前や欄に残す。