題に、別の絵の名が入っている——エドモンズの写生帖と本画のための頁
「ジル・ブラースと大司教」のための習作。括弧の中の名は、この頁に描かれたものの名ではない。別に存在する絵の名である。枠の内と外で線の性質が変わる頁を並べ、下ごしらえという仕事の形を読みたい。顔がほとんど描かれていない理由も、そこにある。

題に、別の絵の名が入っている
写生帖の頁には、ふつう題がない。
だから目録を作る人が、見えるものを並べて題にする。
ところが、この帖の頁には、別の書き方の題がある。
《「ジル・ブラースと大司教」のための習作》。
括弧に入った名は、この頁に描かれたものの名ではない。
別に存在する絵の名である。
その絵のために描かれた頁だ、と題が言っている。
作者はフランシス・ウィリアム・エドモンズ。
館の記録は、ニューヨーク州ハドソン生まれ、同州ブロンクスヴィル没と書く。
一八〇六年から一八六三年。
帖の番号は一九八七・一九六の三。
そこに、a、b、cと枝番が続く。

まず、この一頁である。
左に、腰かけた人物が一人。
長い衣をまとい、片手を前に出している。
その右に、立っている人物。
こちらは短い上着で、身をかがめている。
二人のあいだに、何かのやりとりがある。
背後に、机と階段らしい線。
薄い鉛筆で、位置だけが決められている。
顔の造作はほとんど描かれていない。
配置を試している段階である。

そして、その次の頁である。
題は、まったく同じである。
しかし、絵はずいぶん進んでいる。
場所が決まっている。
奥に、丸い天井の廊下が続いている。
柱が並び、右奥に人影がある。
手前に、腰かけた人物と、立った人物。
左に、書物らしいものを載せた台。
右下の隅に、うずくまる人物が加わっている。
そして、この頁は色が違う。
紙が黄ばんでいる。
館の記録は、二点とも同じ紙と同じ画材を書いている。
見た目の差は、保存の状態か、撮影の条件による。
年の欄には、はっきりした差がある。
前の頁は「一八三八年ごろ以降」。
この頁は「一八三九年ごろ」。
一年ぶん、後の頁と考えられている。
「以降」という年の書き方
年の欄をもう一度読んでみたい。
九点のうち八点が「一八三八年ごろ以降」となっている。
これは、写生帖に特有の書き方である。
帳面は、一日で使い切らない。
買った日から、何年も使うことがある。
だから、始まりの年は分かっても、終わりが分からない。
「一八三八年ごろ以降」とだけ書いて、上限を示さない。
一点だけが「一八三九年ごろ」と、幅の狭い書き方になっている。
こちらは、根拠があるのだろう。
その頁の内容から、年が絞り込めたということである。
館は、根拠を書いていない。
したがって、こちらから理由を推測することはしない。
言えるのは、同じ帖の頁でも、年の確からしさに段差があるということだけである。
本画のための頁と、そうでない頁
九点のうち、題に「〜のための習作」と入るのは三点である。

この頁は、二つに分かれている。
左に、小さな長方形の枠。
その中に、室内の場面が描かれている。
暖炉らしいものの前に、二人の人物が向かい合っている。
枠の外、右側には、伏せた犬が一頭。
こちらは枠を持たない。
題も、それに応じて二つ並んでいる。
「都会の伊達男と田舎の伊達男」のための習作、および猟犬の写生。
前半は本画のため、後半はただの写生である。
同じ一頁に、目的の違う二つが載っている。
そして、枠の有無がその違いを示している。
枠の中は、絵の設計である。
枠の外は、覚え書きである。
前回の第七帖でも、枠の役割を見た。
枠を引くと、頁が画面になる。
ここでは、その働きがもっとはっきりしている。
一頁のなかで、枠の内と外が別のことをしている。

題は《闘鶏》である。
しゃがんだ男が、腕を伸ばしている。
その前に、小さな子どもがいる。
足元に、鳥らしいものが二つ。
石段のような段差が、二人の下にある。
こちらには枠がない。
それでも、場面としてまとまっている。
人物の関係も、位置も決まっている。
題に「〜のための習作」と付いていないので、本画の予定はなかったのだろう。
あるいは、記録を作った人が、対応する本画を知らなかったのかもしれない。
対応する絵が見つかれば、題は書き換えられる。
目録の題は、そういう性質のものである。
同じ紙の、表と裏
この帖にも、両面に描かれた紙がある。

つばの広い帽子をかぶった男が、小舟に腰かけている。
片足を組み、両手を膝の上で重ねている。
舟の板と、その曲線が丁寧に引かれている。
背後は白い。
水も岸も描かれていない。
姿勢と、舟の形だけを取っている。

その裏には、二人の子どもがいる。
左に、帽子の少年。
右に、長い衣の幼児。
二人は向かい合っている。
線は前の頁より薄い。
そして、この写真には帳面そのものが写り込んでいる。
下の縁に、紙が何枚も重なっているのが見える。
厚みのある束である。
写真の撮り方が、これが冊子だと教えている。

次の紙には、また小舟がある。
こんどは、男が横になっている。
帽子を顔にかぶせ、舟底に身を伸ばしている。
足を舟べりに掛けている。
前の頁の男と、同じ帽子である。
同じ人を、続けて描いたのだろう。
腰かけた姿と、眠る姿。
写生帖では、こういう連続が起きる。
目の前の人が動けば、次の頁に別の姿勢を描く。
一枚では分からないことが、二枚並ぶと分かる。
女性の仕事と、家の中

一頁に、二人の女性が描かれている。
左は、椅子に腰かけて縫い物をしている。
膝の上に布を広げ、両手を寄せている。
右は、背を向けて立っている。
机の前で、何かを見ている。
二人とも、長い衣を着ている。
顔は、左の一人だけが描かれている。
右の人物は、後ろ姿である。
背中と、衣の流れ。
風俗画を描く人にとって、後ろ姿は重要な部品である。
顔がない人物を画面に入れることで、場面に奥行きが出る。

この頁には、三つのものが載っている。
木。猫を抱く少女。牛。
互いに関係がない。
左下に、猫を抱く小さな姿。
右に、少女らしい立ち姿。
中央のあたりに、動物の輪郭。
線は薄く、途中で止まっているものもある。
題は、館が見えるものを三つ並べて作った。
写生帖の題の作り方である。
帖のなかに、二つの層がある
九点を並べると、二つの層が見えてくる。
一方は、本画のための設計である。
「ジル・ブラースと大司教」のための二頁。
「都会の伊達男と田舎の伊達男」のための枠の中。
こちらは、構図を決めるために描かれている。
他方は、部品の採集である。
小舟の男、二人の子ども、縫い物をする女、猫を抱く少女、牛。
こちらは、いつか使うために取っておく形である。
同じ帳面のなかで、この二つが混ざっている。
そして、番号はそれを区別しない。
b、c、d、i、m、bb、hh、iiと、順に振られていくだけである。
区別しているのは、題である。
「〜のための習作」と書くか、見えるものを並べるか。
題の書き方が、頁の性格を分けている。
枠の内と外で、線が変わる
《「都会の伊達男と田舎の伊達男」のための習作、および猟犬の写生》を、もう一度見たい。
枠の中と外で、線の使い方が違っている。
枠の中は、輪郭が閉じている。
人物の外形が決まり、床の線が引かれ、暖炉の位置も決まっている。
小さいながら、絵として成立する形になっている。
枠の外の犬は、そうではない。
背中の線と、前脚の線が引かれ、頭のあたりで止まっている。
尾のあたりには、線が重なったままの部分がある。
決めていない。
同じ鉛筆で、同じ頁に、決めた線と決めない線が並ぶ。
これは技量の差ではない。
目的の差である。
構図を決める線は、閉じなければならない。
覚えておくための線は、閉じる必要がない。
写生帖の頁を見るときは、この二種類の線を見分けると面白い。
閉じているところは、画家が決めたところである。
開いているところは、まだ決めていないところである。
二枚のあいだに、何が起きたか
《ジル・ブラースと大司教》のための二頁は、この帖でいちばん見どころがある。
一枚目には、二人の人物と、わずかな背景がある。
二枚目には、廊下があり、柱があり、奥行きがある。
そして、人物が一人増えている。
右下の隅にうずくまる姿である。
一枚目には、この人物がいない。
つまり、二枚のあいだで、画家は場面を作り直した。
まず、二人のやりとりだけを考えた。
次に、そのやりとりを、どういう場所に置くかを考えた。
場所が決まると、そこに他の人物を入れられるようになる。
奥に人影を置き、手前にもう一人置く。
二人のやりとりが、建物の中の出来事になる。
年の欄の差は、ちょうどこの間隔にあたる。
一八三八年ごろ以降と、一八三九年ごろ。
一年あったかどうかは分からない。
しかし、順序としては、こちらが後だと館は考えている。
その根拠は書かれていないが、絵の進み方は順序と合っている。
帳面を回さない人
前回までに見た二冊の写生帖では、画家が帳面を九十度回していた。
人を描くときは縦、風景を描くときは横。
この帖では、それが起きていない。
九点の寸法は、すべて横長のままである。
縦一六・八センチ、横二〇・三センチ。
二点だけ、横が二一センチになっている。
わずかな差だが、帳面を回した形跡はない。
理由は、描いているものにありそうである。
この画家が採っているのは、室内の場面である。
人が二人以上いて、その間に何かが起きている。
そういう場面は、横長のほうが収まりがよい。
立ち姿の一人を大きく描く必要がない。
だから、帳面を回す理由がない。
寸法の欄がそろっているという地味な事実が、その人の絵の作り方を映している。
本画は、どこにあるか
ここで気になるのは、本画のほうである。
《ジル・ブラースと大司教》という絵は、どこにあるのか。
館の記録は、書いていない。
《都会の伊達男と田舎の伊達男》も同じである。
題の括弧のなかに名があるだけで、所在は示されていない。
これは、目録として当然の作りである。
一件の記録は、その一件について書く。
他の作品の所在まで書く欄はない。
ただし、読む側にとっては、つながりが切れる。
習作だけがあり、本画が見えない。
もっとも、そのつながりが切れていても、頁は頁として読める。
腰かけた人物と立った人物の、二つの案。
廊下の奥行きを作った二枚目。
そこに、絵を組み立てる手つきがある。
本画を知らなくても、その手つきは見える。
買った資金の名
出所の行は、九点とも同じである。
「シーラおよびリチャード・ジェイ・シュワーツ基金、一九八七年」。
購入である。
そして資金の名に、二人の名前が入っている。
前回の第七帖では、亡くなった人を記念する寄付だった。
こちらは、二人の名を冠した基金である。
いずれも、館が金を出して買っている。
寄贈で入る品と、買って入る品では、記録の見え方が違う。
寄贈なら、持っていた人の名が残る。
購入なら、資金の名が残る。
どちらにしても、誰かの名が出所の行に残る。
そして、その名は作品とは関係がない。
作品を作った人でも、描かれた人でもない。
館へ渡す道筋に関わった人である。
出所の行は、そういう人たちの記録でもある。
舟の二枚を、並べてみる
《小舟に腰かける男》と《小舟で眠る男》は、続けて見るとよい。
枝番は、hhの表と、ii。
紙一枚をはさんで隣り合っている。
同じ帽子、同じ舟。
違うのは姿勢だけである。
一枚目では、上体を起こしている。
背筋が伸び、腕が膝の上にある。
二枚目では、横になっている。
帽子で顔を覆い、身体が舟の底に沿っている。
この二枚から、時間の経過が読める。
同じ舟の同じ人を、しばらく見ていた。
はじめは起きていて、そのうち眠った。
あるいは、逆の順かもしれない。
枝番の順が描いた順とは限らない。
それでも、二つの姿勢が同じ帳面にあることの意味は変わらない。
写生帖は、同じ対象を続けて見た記録でもある。
一枚だけを取り出すと、この連続は見えない。
番号を頼りに並べ直したときにだけ、見えてくる。
帖には、その往復の片道しか残らない。
出ていくときの記録だけがあり、戻ってきた先の絵はここにない。
それでも、片道は片道として読める。
風俗画という仕事
この画家の頁に出てくるのは、どれも普通の人である。
小舟の男。縫い物をする女。猫を抱く少女。闘鶏を見る男と子ども。
歴史上の人物でも、神話の登場人物でもない。
十九世紀のアメリカで、こういう絵は売れた。
家の壁に掛けて、日常の一場面を眺める。
そのための絵である。
そして、日常を描くには、日常を見ておかなければならない。
大司教の廊下は想像で作れるが、舟に寝る男の姿勢は作れない。
だから、帳面を持って外に出る。
見たものを取り、画室で組み立てる。
九点の頁は、その往復の途中にある。
帖の名が、途中で変わる
小さなことだが、題の書き方に揺れがある。
八点は「写生帖より」と書かれている。
一点だけ「人物と風景の写生帖より」と書かれている。
《ジル・ブラースと大司教》のための二枚目である。
同じ帖の頁なのに、帖の呼び名が違う。
正式な名が「人物と風景の写生帖」で、他は略した形なのだろう。
あるいは、記録を作った時期が違うのかもしれない。
館の記録は、そこまで説明していない。
こうした揺れは、大きな目録にはつきものである。
何十年もかけて、何人もの手で書かれるからである。
揺れがあるからといって、記録が信用できないわけではない。
揺れの形を知っていれば、読み違えずに済む。
同じ番号の頭を持つものは、同じ帖の頁である。
呼び名が違っても、それは変わらない。
顔を描かない、という選択
九点を通して、顔がほとんど描かれていない。
《小舟に腰かける男》の顔は、帽子の影に入っている。
《小舟で眠る男》は、帽子で顔が隠れている。
《二人の子ども》も、輪郭だけである。
《二つの習作》では、右の女性が後ろを向いている。
《「ジル・ブラースと大司教」のための習作》の一枚目でも、二人の顔は空白に近い。
これは、この段階で顔が要らないからである。
場面を組み立てるとき、まず必要なのは姿勢と位置である。
誰の顔かは、本画で決めればよい。
そして、姿勢は現場で取るしかない。
顔は、あとから画室で作れる。
だから写生帖には、姿勢だけが残る。
顔のない人物が並んでいることは、この帳面が下ごしらえの道具だったことを示している。
一冊が、二十四点になる
当サイトが公開しているこの帖の頁は、二十四点である。
枝番はaから始まり、zを過ぎ、aa、bbと続き、iiまで来ている。
前回までに見た帖に比べれば、少ない。
サリーの帖は百四十八点、リチャーズの帖は百点を超えていた。
数の差は、帖の厚さの差でもあり、公開されている範囲の差でもある。
いずれにせよ、ここでも一冊が頁に分けられている。
そして、頁の一つ一つが独立した題を持っている。
そのおかげで、《闘鶏》を探している人は、この一頁にたどり着ける。
《小舟で眠る男》を探している人も同じである。
冊子のままなら、たどり着けない。
数えるという行為は、探せるようにするための行為でもある。






