一枚の紙に、二つの番号——スケッチブックの表と裏
番号の末尾に、表と裏の語が付く。同じ紙の両面が別々に登録され、題も別々である。表と裏で縦横が入れ替わる件もあり、綴じ穴が写真に残る件もある。素描をどう数えるかを読みたい。四隅が切り落とされた一点もある。

番号の末尾に、表と裏の語が付く
素描を九点、記録の欄で並べてみる。
番号を見ると、末尾に語が付いている件がある。
表。裏。
つまり、一枚の紙の両面が、別々に登録されている。
同じ紙でありながら、番号が二つある。
そして、題も別々である。
表には犬の習作、裏には室内の場面。
まったく違う図が、一枚の紙の表と裏にある。
前の回の記事で、板の表と裏に別の枝番を付ける例を見た。
紙でも、同じ考え方が使われている。
一枚か、二枚か
一枚の紙を、一件と数えるか、二件と数えるか。
館は、二件として数えている。
そのかわり、番号の本体は同じにしている。
枝番まで同じで、そのあとに表・裏の語が付く。
つまり、同じものだと分かるようにしてある。
まったく別の番号を与えれば、関係が切れる。
同じ番号にすれば、面ごとに扱えない。
その中間を取った書き方である。
前の回の記事で、多翼祭壇画の枝番について書いた。
分けて数え、まとめて示す。
同じ工夫が、ここでも使われている。

白黒の写真で写される。
紙の縁が、暗い枠として写り込む。
紙の地は明るく、線が薄い。
左に、犬が一頭座る。
前脚を揃え、顔を右へ向ける。
耳が垂れ、口が開く。
右に、もう一頭の犬がいる。
こちらは後ろ向きで、頭だけを左へ向ける。
尾が下がり、後脚が曲がる。
線は細く、一本ずつ描き足されている。
地面を示す線が、短く一本引かれる。

前の一点と、同じ紙の裏面である。
白黒の写真で写される。
紙の縁が、暗い枠として写り込む。
中央に、女性が立つ。
長い衣を着て、右手を前へ伸ばす。
指の先が、何かを指している。
その右に、男が椅子に座る。
脚を組み、上体を後ろへ倒す。
手に、細い管を持つ。
背後に、椅子の背と机が見える。
左に、暖炉らしい形がある。
線は薄く、途中で消える箇所がある。
表と裏で、縦横が入れ替わる
九点のうち、もう一組の表裏がある。
その二点の寸法を並べてみる。
表は縦16.8センチ、横20.3センチ。
裏は縦20.3センチ、横16.8センチ。
数字が入れ替わっている。
同じ紙なのだから、大きさは同じはずだ。
では、なぜ入れ替わるのか。
紙を回して描いたからである。
表は横長に、裏は縦長に使っている。
館は、描かれた向きに合わせて寸法を書く。
紙の物理的な大きさではなく、絵としての向きで書く。
つまり、寸法の欄は絵の欄である。
物の欄ではない。

白黒の写真で写される。
紙の縁が、暗い枠になる。
中央よりやや左に、犬が一頭座る。
前脚を伸ばし、頭を左へ向ける。
耳が長く垂れる。
胸から腹へ、線が一本流れる。
右上に、もう一頭の犬がいる。
こちらは後脚を上げ、体を掻く姿だ。
首を曲げ、顔が下を向く。
二頭のあいだに、細い横線が数本ある。
地面を示したものだろう。

前の一点と、同じ紙の裏面である。
こちらは、縦長に使われている。
白黒の写真で写される。
紙の中央に、顔が一つだけ描かれる。
つばの広い帽子をかぶる。
帽子の縁が、左右に大きく張る。
顔は正面を向き、目が細い。
頬に、深い皺が刻まれる。
顎の下に、短い線が集まる。
首から下は、描かれていない。
紙の大部分が、空白のままである。
一葉ずつの寸法が、揃っている
同じ冊子から来た六点の寸法を並べてみる。
いずれも、16.8センチと20.3センチである。
一ミリも違わない。
冊子の紙は、まとめて裁たれる。
だから、揃う。
前の回の記事で、手で裁った紙が揃いきらない例を見た。
こちらは、完全に揃っている。
工場で作られた冊子だからだろう。
十九世紀のなかばには、画材が量産されていた。
規格の紙を綴じた冊子が、店で買える。
その規格が、そのまま寸法の欄に並ぶ。
数字の一致が、買った冊子であることを示している。
番号の枝が、二文字になる
九点のうち六点は、同じ番号の本体を持つ。
そして、枝が二文字のアルファベットである。
つまり、一文字では足りなくなっている。
アルファベットは二十六字しかない。
それを使い切れば、二文字になる。
二文字になるということは、二十六葉を超えているということだ。
つまり、このスケッチブックには少なくとも数十葉がある。
前の回の記事で、画帖の枝番について同じことを書いた。
枝の形を見れば、群の規模が推測できる。
館は、その規模を書く欄を持たない。
枝の長さが、代わりに語っている。

白黒の写真で写される。
紙の縁が、暗い枠になる。
中央に、幼児が椅子に座る。
上体を前へ倒し、両手を前へ伸ばす。
手に、細い紐を握る。
紐の先は、右下へ伸びる。
その先に、小さな馬の玩具がある。
馬は四つの車輪の付いた台に載る。
椅子の脚が、細く描かれる。
幼児の背後に、大きな輪郭がある。
背もたれか、大人の衣だろう。
線は一本ずつ、迷いなく引かれている。
題の括弧に、出どころが書かれる
九点の題には、いずれも括弧が付く。
括弧の中に、こう書かれている。
スケッチブックより。
あるいは、ある人の名を冠した貼り込み帳より。
つまり、この一葉がどこから来たかが書かれている。
もとは冊子だった。
それが解体され、一葉ずつ登録されている。
なぜ解体するのか。
一葉ずつのほうが、展示しやすい。
そして、保存もしやすい。
しかし、順序は失われる。
館は、その順序を枝番で保っている。
前の回の記事で、まとまりを保つ数え方について何度も書いてきた。

白黒の写真で写される。
写真の左端に、手書きの文字が縦に写り込む。
館の番号を、鉛筆で書いたものだろう。
紙の中央に、男が一人腰かける。
階段の段に、腰を下ろしている。
右手を高く上げ、頭の後ろへ回す。
左脚を前へ投げ出す。
段の線が、右下へ何本も走る。
その左に、もう一つの人影がある。
こちらは薄く、輪郭だけである。
線が重なり、下描きが透けて見える。
冊子のまま残る一点
九点のうち一点は、写真の写り方が違う。
冊子が開いた状態で写されている。
左の頁は白く、右の頁に絵がある。
つまり、この一葉は綴じられたままだ。
題には、裏面である、と書かれている。
そして、スケッチブックより、とも書かれる。
解体されていないのに、一葉として登録されている。
番号は、点のあとに数字が一つ。
枝は付いていない。
冊子全体が一件なのか、この一葉が一件なのか。
記録からは、判断しにくい。

白黒の写真で写される。
冊子が、開いた状態で置かれる。
左の頁は、ほとんど白い。
右の頁に、横長の素描がある。
中央から右へ、低い山並みが続く。
稜線は、細く薄い線で引かれる。
その手前に、垂直の線が数本立つ。
木か、柱だろう。
左端に、小さな四角い形がある。
建物の輪郭かもしれない。
紙の地は、写真では灰色に見える。
記録には、青い紙とある。
紙の色が、写真で分からない
いま見た一点の技法の欄には、青い紙とある。
しかし、写真は白黒である。
青は、灰色になって写る。
そして、白のグワッシュも書かれている。
青い地の上に白を置けば、明るい部分が作れる。
黒鉛の線と合わせて、三つの調子ができる。
その効果は、白黒の写真では失われる。
前の回の記事で、紙の色と画材の関係について書いた。
色の付いた紙に描く理由も、そこで書いた。
技法の欄が色を書き、画像が色を見せない。
記録だけが、その情報を運んでいる。

横長の紙が、白い台紙の上に置かれる。
左端に、綴じ穴らしい小さな跡が並ぶ。
冊子から外した跡だろう。
左に、崖が高く立ち上がる。
崖の面は、短い線を重ねて表される。
その上に、細い針葉樹が数本立つ。
中央から右へ、水面が広がる。
水面は白く残される。
奥に、山が低く連なる。
山の稜線は、一本の細い線である。
手前の岸に、岩が黒く固まる。
紙の下部に、地名らしい文字が書かれる。
綴じ穴が、写真に残る
いま見た一点の左端には、小さな跡が並ぶ。
冊子に綴じられていたときの穴だろう。
つまり、この紙は冊子から外されている。
館の記録は、綴じ穴について何も書かない。
題の括弧に、スケッチブックより、とあるだけだ。
しかし、写真を見れば穴が分かる。
穴があるということは、外されたということだ。
前の回の記事で、記録の欄が書かないことを何度も見てきた。
物に残った痕跡は、写真にしか写らない。
そして、写真を見なければ気づけない。
番号の付け方が、三通りある
九点の番号を並べてみる。
一つは、点のあとに数字が一つだけ。
一つは、点のあとに数字と一文字。
そして六点は、点のあとに数字と二文字、さらに表・裏の語。
三通りの形がある。
同じ館の同じ部門で、揃っていない。
受け入れた年が違うからだろう。
1926年、1982年、1987年、1992年。
六十年以上の幅がある。
そのあいだに、番号の付け方が変わった。
前の回の記事で、番号の書き方が年で変わる例を何度も見た。
番号は、その品の受入の記録でもある。

白黒の写真で写される。
紙の四隅が、斜めに切り落とされる。
貼り込み帳から外した跡だろう。
紙の中央から右に、大きな木が立つ。
幹は太く、途中で二つに分かれる。
枝は細かく広がり、葉が点で表される。
木の根もとに、岩が重なる。
その手前に、水面が細い線で示される。
左下に、小さな人影が座る。
手に、細い棒を持つ。
紙の右下に、署名らしい文字がある。
四隅が、切り落とされている
いま見た一点の紙は、四隅が斜めに切られている。
貼り込み帳に貼るときの加工だろう。
角を切れば、めくったときに引っかからない。
あるいは、台紙の切り込みに差し込むためかもしれない。
館の記録は、この加工について何も書かない。
寸法の欄には、縦と横の数字があるだけだ。
前の回の記事で、記録の欄が形を書かない例を何度も見た。
四隅が切られていることは、写真でしか分からない。
そして、その加工が、この紙の来歴を語っている。
冊子から外され、貼り込み帳に貼られ、また外された。
年の欄に、それ以後とある
九点のうち六点の年の欄は、こう書かれている。
1838年ごろ、およびそれ以後。
上限が書かれていない。
前の回の記事で、同じ書き方を見た。
その年に始まり、いつまで続いたか分からない。
スケッチブックは、何年もかけて使われる。
最初の一葉と最後の一葉で、年が離れることもある。
一葉ずつの年を特定するのは、難しい。
だから、冊子全体の年を一葉ずつに書く。
六点とも同じ年の欄になるのは、そのためだろう。
館は、その事情を書かない。
書かれるのは、同じ一文が六度繰り返されるだけである。
題は、誰が付けたか
九点の題を並べてみる。
犬の二つの習作。玩具の馬と幼児。階段の上の男。
いずれも、描かれているものを説明している。
作者が付けた題ではないだろう。
スケッチブックに、題を書く習慣はない。
館が、整理のために付けたものである。
前の回の記事で、題が説明になる例を何度も見た。
素描では、それがとくに徹底している。
同じ主題の素描が何十枚もあれば、区別する必要がある。
だから、細かく書き分ける。
座る姿と掻く姿、というように。
題の長さが、区別の必要から来ている。
下描きの線が、透ける
九点の写真を見ると、線が二重になっている件がある。
一度描き、消して、また描いたのだろう。
あるいは、裏面の線が透けているのかもしれない。
紙が薄ければ、そうなる。
館の記録は、そこには触れない。
技法の欄には、紙と黒鉛とあるだけだ。
表と裏を別々に登録している以上、透けは問題になる。
どちらの面の線か、判別しにくいからだ。
しかし、記録はその区別を書かない。
写真を見て、判断するしかない。
そして、白黒の写真では、なおさら分かりにくい。
出所の行が、四つに分かれる
九点の出所の行を並べると、四つになる。
ある人の寄贈が一点。
基金による購入が一点。
ある夫妻からの受入が六点。
そして、複数の寄贈を原資とした購入が一点。
六点をまとめて贈ったのは、一つの家である。
つまり、スケッチブックが一冊、まるごと入った。
そして、その冊子が解体され、一葉ずつ番号を持つ。
前の回の記事で、群でまとめて入る作品を何度も見た。
素描では、冊子が群の単位になる。
一冊が数十葉なら、一度に数十件が増える。
館の収蔵品の数は、こうして増えていく。
素描を、どう数えるか
九点を並べ終えて、数え方に戻ってみたい。
一枚の紙に、二つの図がある。
それを、二件と数えた。
一冊の冊子に、数十葉がある。
それを、数十件と数えた。
いずれも、分けられるものは分けている。
前の回の記事で、甲冑や三所物や画帖について同じことを書いた。
しかし、画帖では冊子を一件としていた。
素描では、一葉ずつに分けている。
なぜ、扱いが違うのか。
画帖は、綴じられた状態が作品だからだろう。
スケッチブックは、記録のための道具である。
作品として作られていない。
だから、解体してもよいと判断された。
図の下にあるもの
九点の作者の欄には、四人の名がある。
いずれも、描いた人の名だ。
素描には、彫った人も摺った人もいない。
一人で完結する。
その意味で、この記事の九点は例外的である。
前の回の記事で、何人が関わったかを繰り返し数えてきた。
素描では、その数が一である。
ただし、紙を漉いた人がいる。
黒鉛を作った人がいる。
冊子に綴じた人がいる。
そして、解体した人がいる。
最後の一人は、館の中にいる。
その名も、記録には残らない。
最後に、九点の写真について書いておきたい。
いずれも白黒である。
素描は、たいてい鉛筆か墨で描かれる。
色がほとんどないから、白黒でも情報が落ちにくい。
ただし、紙の色は落ちる。
青い紙の一点では、それが大きい。
そして、写真の縁に暗い枠が写り込む件が多い。
古い写真の原板を、そのまま公開しているのだろう。
枠の外に、手書きの文字が写る件もあった。
作品ではないものが、画像に含まれている。
前の回の記事で、同じことを何度も見てきた。
九点の主題を並べてみる。
犬が二点、幼児が一点、男が三点、風景が二点、少年が一点。
いずれも、身のまわりのものである。
スケッチブックは、そういう場所で使われる。
注文された絵ではなく、自分のために描く。
だから、主題が自由になる。
そして、完成させる必要もない。
九点のうち何点かは、線が途中で止まっている。
止まっていても、館はそれを一件として数える。
完成したかどうかを書く欄は、どこにもない。
素描には、そもそも完成という段階がないのかもしれない。
記録は、その問いに立ち入らない。
あるものの大きさと材料を書き、番号を与える。
それだけで、七十年後にこうして並べられる。
番号があるから、表と裏を別々に呼べる。
呼べるから、別々に展示でき、別々に貸し出せる。
一枚の紙でありながら、二つの身元を持つ。
その二重性を、番号の末尾の一語が支えている。
表、裏。たった一字ずつである。
記録の工夫は、たいていそのくらいの大きさで足りる。
足りるように作られている、と言うべきかもしれない。
長い注記を要する仕組みは、続かないからだ。
一葉ずつに番号を与えることは、手間である。
数十葉なら、数十回の記録を書く。
それでも、その手間が後の利用を支えている。





