同じ椅子が、五点に写る——ギルバート・スチュアートの肖像
金の鋲が並ぶ赤い椅子、紙束とインク壺の載る机、緑の壁。九点の写真に、同じ道具が繰り返し出てくる。倣って描かれた作にも、同じ道具が入る。記録の欄が書かない反復を読みたい。同じ顔の二点は、寸法がミリの単位まで近い。

同じ椅子が、五点に写る
一人の画家に関わる作品を九点、並べてみる。
九点の写真を見ていくと、同じ物が何度も出てくる。
赤い布を張った椅子である。
背もたれの縁に、金色の鋲がぎっしり並ぶ。
その椅子が、五点に写っている。
描かれた人は、いずれも別人である。
年も違い、大きさも違う。
それでも、椅子だけが同じに見える。
館の記録には、椅子のことは書かれない。
作者、題、年、技法、寸法、出所、番号。
欄はそれだけである。
写っているものを数える欄は、どこにもない。

縦長の画面である。
背景は褐色で、人物の周りだけが明るい。
中年の男性が、椅子に浅く腰かける。
体は見る側の左を向き、顔はこちらへ戻す。
髪は灰白で、耳の上でふくらむ。
後ろで黒いリボンに結ばれる。
首に白い布を巻き、胸元にひだが垂れる。
黒褐色の上着に、金のボタンが光る。
その下の胴着は、細い縦畝の織りである。
両手を組み、細い軸を一本つまむ。
羽根ペンの軸だろう。
左下に、赤い布を掛けた机がある。
机の上に、紙の束が置かれる。
その奥に、ガラスのインク壺が二つ立つ。
壺のあいだから、羽根が一本伸びる。
右下に、赤い椅子の肘掛けが見える。
縁に、金色の鋲が丸く並ぶ。
机の上に、同じ道具が並ぶ
九点のうち、机が写るのは三点である。
いずれも、画面の左下に置かれる。
そして、上に載る物がほとんど同じだ。
紙の束。ガラスのインク壺。立てられた羽根ペン。
三点とも、この組み合わせである。
配置も似ている。
紙が手前、壺が奥、羽根が上へ伸びる。
つまり、画室に同じ道具が置いてあった。
そして、注文が来るたびに同じように並べた。
館の記録は、そこを書かない。
書けば、九点の関係が見えてしまうだろう。
しかし、欄がない。

九点でいちばん小さい画面である。
縦が四十三センチしかない。
背景は緑で、左に明るい柱が立つ。
若い男性が、椅子に腰かける。
体は見る側の左を向き、顔はこちらを見る。
髪は赤褐色で、ふくらんで乱れる。
黒い上着の襟が、後ろに高く立つ。
首に白い布を巻き、胸に白いひだが垂れる。
胴着は黄緑である。
左下に、褐色の机がある。
机の上に、紙の束と、四角いインク壺が二つ。
その奥から、羽根が一本立ち上がる。
右下に、赤い椅子と金の鋲が見える。
画面の四隅に、絵具の欠けが白く写る。
倣った作にも、同じ道具が出る
いま見た一点の作者の欄には、名がない。
倣って、という語と、倣われた画家の名だけがある。
つまり、描いた人は分かっていない。
手本になった絵が、どこかにあったのだろう。
それを見ながら、別の誰かが写した。
そして、写した絵にも、机と椅子が入っている。
道具は、手本の中にあったからだ。
写す人は、そこも含めて写す。
画室の癖が、写しを通じて広がっていく。
前の回の記事で、倣う、という語について書いた。
語の意味は分かっても、写された中身までは分からない。
中身は、画像を並べて見るしかない。
緑の壁が、三点にある
九点の背景を見比べてみる。
褐色の霞が四点。
緑の壁が二点。
赤いカーテンが一点。
赤褐色の霞が一点。
暗い褐色が一点。
緑の壁の二点には、左に柱か扉枠が立つ。
板を組んだ枠まで、よく似ている。
一点は倣った作、もう一点は本人の作である。
つまり、写しの背景も、同じ部屋から来ている。
館の記録は、背景の色を書かない。
書くのは、支持体と絵具の名だけである。

縦長の画面である。
背景は緑の壁で、左に灰緑の扉枠が立つ。
女性が、赤い椅子に深く腰かける。
椅子の縁に、金色の鋲が並ぶ。
白い薄手の衣を着る。
胸に白い布を重ね、腰に水色の帯を巻く。
袖は短く、口にひだが寄る。
髪は細かく巻かれ、真珠の飾りが渡る。
青緑のリボンが、頭の左に立つ。
首に、細い真珠の首飾りが見える。
両手を膝の上で組む。
薬指に、金の指輪が光る。
右下に、赤い布を掛けた机がある。
机の上に、金色の透かしの籠が置かれる。
対の肖像が、寸法で揃う
いま見た一点と、先に見た一点は、対である。
題を読めば分かる。
夫の名と、その夫人の名。
年の欄も同じで、1793年から1794年。
寸法を並べると、縦91.6と92.2センチ。
横は71.8と72.1センチ。
差は六ミリと三ミリである。
同じ丈のカンヴァスを、二枚切ったのだろう。
番号も隣り合う。
1942.8.18 と 1942.8.19。
館は、二点を続けて受け入れている。
前の回の記事で、対の作が枝番で隣り合う例を見た。
ここでも、同じ扱いになっている。
背景だけが、褐色と緑に分かれる。

縦長の胸像である。
背景は赤褐色で、顔の周りが明るい。
老いた男性が、こちらへ顔を向ける。
視線は、わずかに右へ外れる。
髪は白く、耳の上で大きく巻く。
首の左に、黒いリボンの端が垂れる。
黒い上着と、黒い胴着を重ねる。
胴着のボタンが、縦に並ぶ。
首に白い布を巻く。
胸元に、白いひだが大きく開く。
頬に、赤みが強く差す。
目は青い。
同じ顔が、二度描かれる
九点のうち二点は、同じ人物の肖像である。
題の欄に、同じ名が並ぶ。
一方には、括弧で別の呼び名が添えられる。
かつての持ち主の名だろう。
同じ図が複数あるとき、呼び分けが要る。
だから、館は括弧を足している。
年の欄は、1795年と、1800年ごろ。
五年ほど離れている。
その間に、同じ顔がもう一度描かれた。
館の記録は、二点の関係を書かない。
題の欄の名が同じであることだけが、手がかりである。

縦長の胸像である。
背景は暗い褐色で、上が濃く、下がやや明るい。
同じ老人が、こちらを向く。
顔の向きは、前の一点とほとんど同じだ。
髪は白く、前の一点より大きくふくらむ。
首に白い布を高く巻く。
その下に、細かいひだが縦に長く垂れる。
黒い上着の襟に、黒い毛が付く。
頬の赤みは、前の一点より広い。
胸元の白は、縦に細長い。
前の一点では、白が横に大きく開いていた。
同じ顔で、白の形だけが違う。
寸法が、ミリの単位で近い
二点の寸法を並べてみる。
縦は73センチと73.18センチ。
横は60.5センチと60.48センチ。
縦の差が一.八ミリ、横の差が〇.二ミリである。
偶然にしては、近すぎる。
同じ寸法のカンヴァスを使ったのだろう。
あるいは、前の絵に合わせて張ったのかもしれない。
館の記録は、そこを書かない。
書かれるのは、測った数字だけである。
しかし、数字を並べれば差が出る。
差が小さいことは、それ自体が事実である。
前の回の記事で、寸法が揃う例を何度も見てきた。
揃うのは、たいてい作り方が同じときである。
年の欄に、以後、という語が入る
九点の年の欄を並べてみる。
1795年。1800年ごろ。
1793年から1794年が二点。
1793年から1794年ごろ。
1793年から1794年以後。
1796年以後。
1867年。1848年から1879年。
このうち二点に、以後、という語が付く。
いずれも、倣って、と書かれた作である。
手本の年は分かる。
しかし、写した年は分からない。
だから、手本の年より後、としか書けない。
年の欄が、その事情をそのまま抱えている。

縦長の胸像である。
背景は暗く、左下だけが黄褐色に明るい。
若い男性が、体を見る側の右へ向ける。
顔はこちらへ戻し、口の端をわずかに上げる。
髪は白く、耳の上で横に巻く。
後ろに、小さなリボンの端が見える。
濃い青の上着を着る。
襟が大きく、肩の上まで返る。
前に、金のボタンが二つ光る。
首に白い布を大きく結ぶ。
結び目から、二つの端が長く垂れる。
胸像でありながら、画面は前の二点と同じ丈だ。
倣った人の名が、書かれる場合
倣って、と書かれた作は三点ある。
そのうち二点は、倣った人の名がない。
残る一点には、名が書かれている。
つまり、記録の書き方が分かれている。
写した人が分かれば、その名を先に置く。
分からなければ、倣われた画家の名だけを残す。
同じ、倣って、という語でも、前に付く名の有無で意味が変わる。
前の回の記事で、作者の欄に付く語について書いた。
語の距離は、そこで見た。
ここで見えるのは、書ける情報の量の差である。

縦長の小さな画面である。
背景は褐色から緑へ移る。
筆の跡が、粗いまま残る。
黒い巻毛の男性が、上体をひねる。
顔は見る側の左へ向き、目を見開く。
眉が寄り、口がわずかに開く。
肩から、赤い外衣を掛ける。
外衣を、左手で胸に引き寄せる。
その下に、白い衣が斜めに見える。
胸の下に、緑と赤の留め具が光る。
舞台の一場面だろう。
前に見た七点とは、様子がまるで違う。
写した年が、手本から遠い
いま見た一点の年は、1867年である。
倣われた画家は、1828年に没している。
つまり、没後四十年近くたってからの作だ。
手本を前に置いて写したのか。
それとも、記憶によったのか。
館の記録は、そこを書かない。
もう一点、倣って、と書かれた作がある。
年の欄は、1848年から1879年。
三十一年の幅がある。
出所の行を見ると、1879年に館が買っている。
つまり、幅の終わりは受入の年だ。
買われた時点で存在したのだから、それ以前の作になる。
年の欄の幅が、記録の限界を示している。

縦長の胸像である。
背景は暗い褐色で、左上が濃い。
白髪の男性が、こちらを向く。
髪は細かく巻き、額が広い。
黒い上着を着て、前を深く合わせる。
首に白い布を巻き、胸に白いひだが垂れる。
頬に、赤みが差す。
右下の隅に、赤い布が見える。
椅子の背だろう。
金の鋲は、この一点では見えない。
写しであっても、椅子は残っている。
背景の霞が、四点で同じ形
九点のうち四点は、背景が霞のようである。
人物の頭の周りだけが明るい。
そこから外へ、暗くなっていく。
境目はなく、なだらかに変わる。
四点とも、同じ作りである。
明るい部分の形も、楕円で似ている。
これは、画室の壁を描いたものではないだろう。
肖像の型として、繰り返されている。
前の回の記事で、同じ型の反復について何度も書いた。
版画では版が同じだから同じになる。
肖像では、手順が同じだから同じになる。

縦長の画面である。
背景に、赤褐色のカーテンが垂れる。
左の端から、青い空と白い雲がのぞく。
男性が、椅子に腰かける。
白い鬘をかぶり、横に巻きが二段ある。
黒い上着の下に、黄色い胴着を着る。
胴着の縁に、金の細い模様が走る。
首に白い布を巻き、胸にひだが垂れる。
両手に、灰色の手袋を持つ。
手袋は、握られて形が崩れる。
右下に、赤い椅子の肘掛けが見える。
金の鋲が、わずかに光る。
作者の欄に、帰属、と書かれる
いま見た一点の作者の欄には、帰属、という語が付く。
その画家の作と考えられるが、確かではない。
前の回の記事で、この語について書いた。
九点の中で、この語が付くのは一点だけである。
そして、この一点にも赤い椅子が写る。
金の鋲まで同じである。
椅子が写ることは、帰属の根拠になるだろうか。
道具は貸し借りできる。
写しにも入ってしまう。
だから、決め手にはならない。
しかし、手がかりの一つではある。
館は、根拠を記録に書かない。
書かれるのは、帰属、という語だけである。
出所の行が、二つに分かれる
九点の出所の行を見てみる。
七点が、同じ収集家の名を冠したコレクション。
残る二点が、別の館から来たコレクションである。
前者の番号は、1942年、1947年、1954年に分かれる。
同じ収集の名でも、受入は三度に分かれている。
後者の二点は、2014年と2016年の受入だ。
そして、括弧の中に前の来歴が書かれる。
1926年に入った収集。1879年の館の購入。
つまり、一行に二つの時点が入っている。
前の館での受入と、こちらの館での受入。
館が館を引き継ぐと、行はこうなる。
前の回の記事で、出所の行の読み方を何度も見てきた。
行が長いほど、たどれる過去は遠くなる。
大きさが、三つの群に分かれる
九点の縦を並べてみる。
91センチ台が三点。
73から76センチが四点。
43センチと53センチが一点ずつ。
大きい三点は、腰から上を描く。
手が画面に入り、机や椅子も見える。
中くらいの四点は、胸から上である。
小さい二点は、いずれも写しだ。
写すとき、寸法を小さくすることがある。
控えとして作るなら、小さいほうが扱いやすい。
ただし、写しの三点目は76センチある。
だから、写しが必ず小さいとはいえない。
九点の中では、そういう傾向が見えるだけである。
技法の欄が、九点とも同じ
九点の技法の欄を見てみる。
カンヴァスに油彩。
九点とも、この一行である。
本人の作も、帰属の作も、倣った作も変わらない。
つまり、技法の欄では区別がつかない。
写しであっても、作り方は同じだからだ。
前の回の記事で、技法の欄が長くなる例を見てきた。
紙を貼り、板に移し、金を蒔く。
そういう仕事は、欄が長くなる。
肖像画は、そうならない。
一行で足りてしまう。
足りてしまうから、差は別の欄に出る。
作者の欄と、年の欄である。
姿勢の型が、五点で同じ
九点の人物の向きを見てみる。
体を斜めにして、顔だけをこちらへ戻す。
この型が、五点にある。
斜めの向きは、左が四点、右が一点。
ほぼ正面を向く胸像が、三点。
残る一点だけが、画面の外を見る。
つまり、九点のうち八点は、こちらを見ている。
肖像は、見る人と目が合うように描かれる。
そして、体は正面を避ける。
正面のままでは、板のように平たくなるからだ。
斜めにすれば、肩の奥行きが出る。
これも、繰り返される手順である。
館の記録は、姿勢を書く欄を持たない。
枝番が、群の大きさを示す
九点の番号を、枝で見てみる。
1942年の群には、12番、18番、19番、27番がある。
1947年の群には、106番と111番。
つまり、後者は百点を超える群である。
一度の受入で、それだけの点数が入った。
前の回の記事で、枝番が数を映すことを見た。
ここでも、同じことがいえる。
同じ画家に関わる作が、群の中に散らばっている。
106番と111番のあいだは、五つ空く。
そのあいだに、別の画家の作が並ぶのだろう。
番号は、並べ方の記録でもある。
反復は、記録の外にある
九点をもう一度、並べ直してみる。
赤い椅子が五点。
机とインク壺と羽根ペンが三点。
緑の壁と扉枠が二点。
霞のような背景が四点。
同じ顔が二点。
同じ丈のカンヴァスが二組。
これだけの反復がある。
しかし、記録の欄には一つも現れない。
欄が問うのは、誰が、いつ、何に、どれだけ、である。
何が写っているかは、問われない。
だから、反復は画像の側にしか残らない。
見比べる人がいなければ、気づかれないままだ。
そして、見比べるには、並べる必要がある。
同じ画家に関わる九点を、一度に見る。
そういう見方は、館の展示室では難しい。
作品は、部屋ごとに分けて掛けられるからだ。
記録と画像が同じ画面に並ぶとき、この見方ができる。
反復を数えることは、記録の欄を疑うことではない。
欄が書かないものが、画像には残っている。
その二つを、行き来する。
行き来した先に、九点の関係が見えてくる。








