ロイツェ《デラウェア川を渡るワシントン》の解説——旗はなぜ史実と違うのか
ロイツェ《デラウェア川を渡るワシントン》の解説。メトロポリタン美術館にある横6.5メートルの大画面を、どこで見られるか、いつの場面か、旗がなぜ史実と違うのかの順に読む。生前に描かれたワシントン像二点とも見比べる。

ロイツェ《デラウェア川を渡るワシントン》は、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある。氷の浮かぶ川を、兵を乗せた小舟が進む。舳先の側に、外套の男が一人だけ立っている。

館の記録では、縦378.5センチ、横647.7センチである。横は六メートルを超える。壁の前に立つと、舟はほぼ実物の大きさで目の前に来る。
《デラウェア川を渡るワシントン》はどこで見られるか
ニューヨークのメトロポリタン美術館にある。館の記録では、アメリカ美術の部門に属し、1897年に寄贈で入った。作品ページは《デラウェア川を渡るワシントン》から開ける。
館の記録では、制作は1851年、技法はカンヴァスに油彩、収蔵番号は97.34である。寄贈したのはジョン・スチュワート・ケネディという人物だと記録にある。
大きな絵でも、展示がいつもあるとはかぎらない。館の都合で壁から下りることはある。行く前に館の展示情報をあたるほうがよい。
同じ館には、この記事の後半で比べるスチュアートとトランブルのワシントン像もある。生前に写した肖像と、七十五年後の記念の大画面を、一つの館で見比べられる。
額にも見どころがある。いまの額は、元の額を作り直したものである。1864年に撮られた写真が2007年に見つかり、そこに写っていた、鷲の飾りを頂く額が再現された。
いつの、どの場面を描いているか
1776年12月25日から26日にかけての夜、デラウェア川を渡った部隊の場面である。渡った先はニュージャージー州の側で、部隊はそこから南のトレントンへ進み、翌朝に町を突いた。独立戦争の流れを変えた一手に数えられる。
ペンシルベニア州立の渡河記念公園の解説では、部隊はペンシルベニア側のマッコンキーの渡し場から出た。日が暮れると雨は吹きつける雪とみぞれに変わり、風も強まった。南で渡る予定だった別の部隊は、氷に阻まれて渡れなかった。
渡ったあと、部隊は吹雪の中を10マイル歩いた。トレントンには、およそ1500人のドイツ兵の部隊がいた。午前8時ごろに不意を突いて破り、多くの捕虜を得た。
画面には、降る雪もみぞれも描かれていない。空は晴れかけ、旗のあたりから光が差している。ここにも、出来事の記録より記念の画面を選んだ画家の判断が出ている。
描かれたのは1851年である。出来事から七十五年がたっている。目撃した者の記録ではなく、記憶が国の物語になったあとの画面である。
しかも描かれた場所はアメリカではない。ロイツェはドイツのデュッセルドルフでこの絵に取りかかった。最初に仕上げた一点はブレーメンの美術館に入り、第二次世界大戦の空襲で焼けている。
なぜドイツで描かれたのか
ロイツェは1816年にドイツで生まれ、子どものころ家族とアメリカへ渡った。大人になってから、絵を学びにデュッセルドルフへ戻っている。
ヨーロッパへ渡る前は、フィラデルフィアで肖像を描いていた。当サイトにある《紳士の肖像》は、館の記録では1839年ごろの作である。象牙の薄板に水彩で描いた、縦7センチの小さな肖像である。のちに横6メートルを超える画面を描く画家は、手のひらに載る大きさの仕事から出発した。
この題に取りかかったのは、1848年にヨーロッパ各地で革命が起きたころである。アメリカ独立の例を示して、ヨーロッパの改革派を励まそうとした。
館の解説では、最初の一点には1849年に取りかかり、1850年にアトリエの火事で傷んだ。修復されてブレーメンの美術館に入り、1942年の空襲で失われた。
メトロポリタン美術館の一点は、1850年に描きはじめた二作目である。1851年10月にニューヨークで公開され、その場で実業家マーシャル・ロバーツが買い取った。1853年には、この絵をもとにした版画も出ている。
スミソニアン・アメリカ美術館の記録では、ロイツェは1841年から1843年まで、デュッセルドルフの美術学校で学んだ。師はヴィルヘルム・シャドウとカール・レッシングである。その後もこの町を拠点にし、1848年のドイツの蜂起を支持した。
モデルには、デュッセルドルフにいたアメリカ人の画家も立った。
ロイツェは歴史の場面だけを描いたのではない。同じ館には、1856年の肖像も残る。

黒い衣に白い襞襟、胸には金の鎖と円い飾りが下がる。右手は剣の柄に置かれ、左腕には白い羽根飾りの帽子を抱える。1856年の普段の装いではなく、昔の貴族の衣装である。人を古い時代の姿に置いて描くことも、この画家はしている。
描かれたホイットレッジは、アメリカの風景画家である。本人の回想によれば、デュッセルドルフに着くとすぐ、ワシントンと舵取りのモデルを頼まれた。この回想の自筆原稿は、スミソニアン協会のアメリカ美術資料館に残っている。
ロイツェはこの友人の肖像を何点も描いた。レイノルダ・ハウス美術館の解説は、1856年の一点を、スペインの昔の貴族に扮した姿と説明する。その肖像は、ホイットレッジがのちにニューヨークで構えたアトリエに、長く掛けられていた。
つまり大画面のワシントンの体つきには、この肖像の人物が重なっている。二点を並べると、二つの絵の結び付きが見えてくる。
画面で何が起きているか
舟は右へ進んでいる。水面には板のような氷が割れて浮かび、舟の腹に当たる。漕ぎ手は長い櫂と棹で、氷を押しのけている。
氷は青白く、縁が角張っている。川の水は暗く、白い泡は立っていない。流れの速さは、氷の傾きからしか分からない。
中央の男は立っている。濃い青の外套に黄褐色の折り返しが見え、腰に剣を下げる。片足を前の板に掛け、進む先へ顔を向ける。
そのすぐ脇で、もう一人が旗を支える。旗は風を受けて斜めに張り、旗竿の先が空の明るい部分に届く。
空は暗い雲に覆われ、左の地平と旗の後ろだけが明るい。雲の切れ目から光が落ち、舟と旗を照らす。両岸は灰色に沈み、形が見分けにくい。
右の奥には別の舟が続く。馬の頭、立てた銃、束になった人影が見える。渡っているのが一艘ではないと、ここで分かる。
舟の中の身なりはそろっていない。毛皮の帽子の者、赤い布を巻いた者、素足に近い者がいる。そろいの軍服ではなく、ありあわせの格好で描かれている。
館の解説では、身なりの違いは出身の違いを示している。鹿革のズボンの開拓地の男や、スコットランドの帽子をかぶった移民の男が、一艘に乗り合わせる。いろいろな土地の者が一つの舟で力を合わせた、という読み方を誘う並べ方である。
メトロポリタン美術館の解説は、ワシントンの脇で旗を持つ男をジェームズ・モンロー中尉とする。のちの第五代大統領である。
旗はなぜ史実と違うのか
画面の旗は星条旗である。青地に星が輪に並び、赤と白の縞が続く。この意匠が議会で定められたのは1777年6月で、渡河の1776年12月より後である。
星条旗が定められる前、十三の植民地が掲げていたのは別の旗である。赤と白の縞は同じだが、左上には星ではなくイギリスの旗が入っていた。渡河の夜に旗があったとすれば、その形だったことになる。
つまり、描かれた夜に、画面の旗はまだ無い。ロイツェは夜を再現したのではなく、のちの合衆国の印を画面の中心に立てた。旗は人物より高い位置に置かれ、画面でいちばん明るい空に重なる。
光も同じ向きに働いている。夜の渡河なのに、空は明け方のように明るい。この絵は出来事の記録ではなく、記念のための画面として組み立てられている。
旗のほかにも、史実と合わない点はある。ペンシルベニア州立の渡河記念公園の解説では、兵はダーラム・ボートで渡った。ふだんは銑鉄を運ぶ大型の舟である。大砲と、おびえる馬は、さらに大きな渡し舟に載せた。
この解説によれば、渡った兵はおよそ2400人である。何度も往復したため、行軍の用意ができたのは午前4時で、予定より遅れた。画面の小舟は、ダーラム・ボートよりずっと小さい。ワシントン自身がどちらの舟で渡ったかは、確かめようがないとも記す。
あの揺れる小舟で胸を張って立つのも、実際には難しい。立ち姿は、記念の画面のために選ばれた形である。
角張った氷については、美術史の教育サイトのスマートヒストリーが、川幅と氷の形がライン川のものに見えると指摘する。画家が、デュッセルドルフで見られる川を手本にしたと考えると筋が通る。ただしこれは推測で、画家自身の言葉は確かめられていない。
ほかの画家が描いたワシントンとどう違うか
ワシントンが生きていたころに描かれた肖像が、当サイトには二点ある。並べると、ロイツェの画面の性格が見えてくる。

クリーヴランド美術館の記録では、ピールは独立戦争中にワシントンの下で従軍し、親交があった。記録は、この絵がプリンストンでの勝利を記念する一点だと説明する。左奥に捕虜のイギリス兵の列が描かれる、とも記す。
ピールは同じ構図を何点も描いた。館の解説では、アメリカの入植者のほか、フランス、スペイン、オランダ、キューバ、さらにイギリスの支持者からも注文が来た。この一点は、アメリカでの注文による。
画面のワシントンは大砲の砲身に手を置いて立つ。紺の上着に金の肩章、淡い青の帯を斜めに掛ける。戦いのあとの静かな時間が選ばれている。
背後では馬が顔をのぞかせ、従者がその轡を取る。館の解説は、この従者をワシントンに仕えさせられていた奴隷ウィリアム・リーとみる研究者がいると記す。右上には星をちりばめた旗が垂れ、風をはらんでいない。動いている物が画面にほとんど無い。

こちらは胸から上だけである。白い巻き毛、張った頬、固く結んだ口元が正面近くから描かれる。背景は緑がかった布で、物語になる物は何も置かれていない。
トレントンの戦いそのものに結び付けたワシントン像も、当サイトで見られる。

《トレントンの戦いを前にしたジョージ・ワシントン》は、トランブルが描いた小さな一点である。館の解説では、ワシントンは1792年にフィラデルフィアでトランブルのために座った。そのときの写生から、画家は等身大の大作と、この小さな版を作った。大作のほうは、イェール大学の美術館にある。
ワシントンは全身で立ち、右腕を左の若い兵のほうへ伸ばす。背後では鞍を付けた馬が首を上げ、左手は腰の剣のそばにある。荒れた空の下、左下の遠くには兵の列と砲煙が見える。渡河から十数年後、本人を前にして描いた戦いの姿である。
ロイツェの絵と並べると、同じ戦いの描き方の違いがはっきりする。トランブルは本人の顔と立ち姿を写し、戦場は小さく遠くに置いた。ロイツェは顔を小さくし、氷と舟と旗で場面そのものを組み立てた。
ピールとスチュアートの二点も、見ているのは人の顔である。ロイツェの大画面が見せるのは、氷と舟と旗の配置で作られた場面のほうである。同じ人物を描いても、絵の目的が違う。
ロイツェはこのあと何を描いたのか
アメリカの議会議事堂の壁画である。スミソニアン・アメリカ美術館の記録では、1861年から1862年にかけて、下院側の西の階段室に大きな壁画を描いた。題は《帝国の進路は西へ》である。同館は、その小さな下絵を持っている。
議事堂を管理する機関の解説では、注文は1861年7月で、画家は1862年11月まで描き続けた。大きさは縦およそ6メートル、横およそ9メートルある。中央には、幌馬車を連ねた開拓者たちが山の分水嶺に立ち、西の太平洋のほうを望む場面が置かれる。
描き方も変わっている。漆喰の壁に顔料を置き、水ガラスで固める技法を使った。壁画は1998年から1999年にかけて洗浄され、保存の処置を受けている。同じ解説は、画家が北部の連邦の印として、ここにも星条旗を描き加えたと記す。初めの油彩の下絵には無かったアフリカ系の少年を、中央に加えたことも挙げている。南北戦争のさなかの仕事で、《デラウェア川を渡るワシントン》と同じく、旗が画面の要になっている。
ロイツェは1859年にアメリカへ戻っていた。メトロポリタン美術館の記録では、1868年に首都ワシントンで没している。南ドイツのシュヴェービッシュ・グミュントに生まれ、デュッセルドルフで描き、合衆国の議事堂に壁画を残したことになる。
当サイトには、1859年の素描《兵士の別れ》もある。館の記録では、薄い紙にインクと黒鉛で描いた、縦25.1センチの一枚である。大画面の歴史画の陰で、こうした小さな仕事も続けていた。
火事という現実の事件を大画面に組み立てた例はターナー《国会議事堂の火災》の解説で扱った。人物の配置だけで歴史の一場面を見せる作りはダヴィッド《ソクラテスの死》の解説で確かめられる。ほかの作品はエマヌエル・ロイツェの作品一覧から見られる。








