蘭は、庭の名として生き延びた——ヒード・円山応挙・八大山人ほか九点
九点のうち、蘭の花が確かに描かれているのは二点しかない。三点では、蘭は四世紀の庭の名と、その庭で書かれた文の名として現れる。千数百年のあいだ、その名の中の蘭は一度も咲いていない。花があるときは背景を埋め、題だけのときは余白を残す。

暗い葉のあいだに、白い花が二つ
縦長の小さな画面である。
額なしで38.1×30.6センチしかない。
背景は暗い緑と褐色で、奥行きが分かりにくい。
画面の左から、太い茎が斜めに伸びる。
茎には節があり、そこから根が垂れる。
根は細く、白っぽく、空中に垂れている。
葉は幅広く、厚みがある。
葉の縁は滑らかで、先が丸い。
その葉のあいだに、花が二つ開く。
花びらは白く、下の一枚が大きく広がる。
中心には、淡い紫の斑がある。
もう一つの花は、まだ開ききっていない。
花のまわりには、暗がりが広がる。
右下には、細い枝と小さな葉がある。

館の記録では、この絵を描いたころ、作者は中南米へ三度旅をしていた。
その経験から、熱帯の情景の中の鳥と花を数多く描いた。
とりわけ蘭を描いたという。
館の記録は、そう書いている。
つまりこの花は、遠い土地から持ち帰られた主題である。
根が空中に垂れているのは、この種の蘭が木に着いて育つからである。
土に生えていない植物を描くために、暗い背景が要る。
そして画面は小さい。
38.1×30.6センチしかない。
その中で、花は実物に近い大きさで描かれている。
拡大も縮小もされていない。
つまり見る人は、実物と同じ大きさの花に向かうことになる。
熱帯で見た花を、遠い土地の部屋の壁に掛ける。
その距離を埋めるのが、この寸法かもしれない。
もっとも、それは記録に書かれていない。
書かれているのは、三度の旅と、鳥と花の絵が多いことだけである。
蘭は、花か、地名か
この一点を出発点に、蘭と椿の絵を九点数えていく。
蘭は、東アジアで四つの高潔な植物の一つに数えられてきた。
一方、この語は思わぬところに入り込む。
ある庭の名になり、ある書の名になり、別の花の名にも入る。
先に言ってしまうと、九点のうち、蘭の花が描かれているのは三点である。
三点では、蘭は場所の名として題に入っている。
一点では別の花の名に、一点では椿の図譜になる。
そして一点では、記録の説明に出てくる花が主役になる。
前の回で草を描くことが余白を決めることを見た。
蘭の場合、決まるのは題のほうである。
花が画面にあるかどうかより、題に語があるかどうかで並びが決まる。
その事情は、これまでの回でも何度か見てきた。
茶器の面に、蘭が描かれる
二点目は、磁器の一組である。

小さな急須と、五つの碗である。
急須は横に把手が付く形をしている。
胴は丸く、上に蓋が載る。
蓋のつまみは小さい。
白い磁器の地に、青い線で絵が描かれている。
細い葉が、左右へ長く伸びる。
葉は先へ行くほど細くなり、途中で折れる。
その根元に、小さな花が付く。
花びらは細く、数枚が開く。
蘭である。
碗にも同じ絵が、両面に描かれている。
碗の内側、高台の内には、青い帯が回る。
館の記録では、急須と五客の碗は別々の箱に収められている。
もとは、水を冷ます器などを含む一組だったかもしれないという。
そして館は、箱の印について細かく書いている。
碗の細長い木箱には、外側の蓋と底に小さな赤い印が押される。
同じ印が、黄色い布の五枚にもある。
碗の箱の各仕切りの底に、一枚ずつ置かれている。
さらに、作り手の印を押した黄色い布が別にある。
そのうち四枚は楕円の印で、残る一枚は色がわずかに薄く、印も違うという。
館の記録は、そこまで書き分けている。
つまり、器そのものより、包みの印のほうが詳しく記録されている。
そして急須は、横に把手の付く形である。
館の記録は、その形の名も記している。
茶葉を蒸らし、漉し、注ぐための器である。
蘭の絵は、その胴と、五つの碗の両面にある。
つまり同じ絵が、少なくとも十一か所に描かれている。
同じ図を、少しずつ違う面に繰り返す。
手で描くので、一つずつ線の長さが変わる。
型で写した文様との違いは、そこにある。
椿は、番号で並べられる
三点目は、図譜である。

白い紙に、枝が一本描かれている。
葉は厚く、光沢がある。
縁には細かい鋸歯が並ぶ。
葉脈は太い中央の一本と、細い側脈からなる。
その枝の先に、花が開く。
花びらは幾重にも重なり、円く並ぶ。
色は淡い紅と白が混じる。
中心には、黄色い蕊が見える。
椿である。
花の下には、番号が記されている。
館の記録では、この図譜はツバキ属の品種を集めたものである。
題には第百七十一という番号が入っている。
つまり、この一枚は連作の百七十一番目である。
館の記録は、それ以上を書いていない。
見えるのは、この枝が品種を示すために描かれていることである。
背景を白く残すのも、比べるためである。
九点のうち、番号で呼ばれているのは、この一点だけである。
番号で呼ぶという方法も考えておきたい。
品種には名前が付けられる。
しかし図譜では、番号のほうが先に来る。
第百七十一という数字が、この一枚を組の中に置く。
そして数字は、比べる順序を作る。
前の一枚と、次の一枚のあいだに、この椿がある。
花の美しさより、並びの位置が先にある。
手彩色であることも、比べるための工夫である。
刷りだけでは、微妙な色の差が出せない。
黒い蘭という題の絵
四点目は、油彩である。