魚は、光る面として描かれる——青木木米・カールセン・ヒルほか九点
九点の魚を数えると、生きて水にいるのは二点しかなかった。鱗が一枚ずつ描かれるのは三点だけで、静物の魚は白く光る面になっている。残る三点では、魚は人魚の下半身と、金属の地の名と、人の姓だった。光り方だけが、新しさの証明になっている。

盃の底に、一匹の魚がいる
小さな白い盃である。
上から見ると、内側の底に絵が描かれている。
魚が一匹、頭を左に向けて横たわる。
体の輪郭は細い黒の線で引かれている。
鱗は一枚ずつ、細かい線で刻まれている。
目は丸く、大きく描かれている。
背びれは立ち、尾は二つに割れて広がる。
魚のまわりには、緑の色が置かれている。
海藻か、水草のようにも見える。
盃の内側の壁には、赤い線が斜めに走る。
線は太く、勢いよく引かれている。
縁には赤茶の帯が回る。
高さは3.8センチ、径は8.3センチしかない。
手のひらに載る大きさである。

館の記録では、この盃には祝いの歌が添えられている。
描かれている魚は鯛である。
館の札は「魚」の一語である。
酒を注げば、魚は水の下に沈む。
飲み干せば、また現れる。
つまりこの魚は、飲むたびに見え隠れするように置かれている。
九点のうち、魚が器の底にいるのは、この一点だけである。
赤い線の意味も考えておきたい。
内側の壁に、太い赤の線が三本ほど斜めに走っている。
魚の輪郭を描く細い線とは、太さも勢いもまるで違う。
水の流れを示しているようにも、めでたい印のようにも読める。
館の記録は、そこまでは書いていない。
書かれているのは、祝いの歌が添えられていることだけである。
そして京都で焼かれた磁器であることも記されている。
小さな器に、細い線と太い線を描き分ける手が入っている。
魚は、生きているか
この一点を出発点に、魚の絵を九点数えていく。
魚は、水の中の獣である。
人が見るとき、たいてい魚は水から出ている。
網に上がり、市場に並び、卓に載る。
つまり絵の中の魚は、多くの場合すでに死んでいる。
先に言ってしまうと、九点のうち、魚が生きて水にいるのは二点である。
三点では、魚は食べものとして台に載っている。
一点では、魚は売り物として腕に抱えられている。
そして三点では、魚は魚ですらない。
前の回で象の大きさが隣の人で証明されることを見た。
魚の場合、証明されるのは新しさである。
凍った水のそばで、鷺が魚を待つ
二点目は、中国の画帖の一葉である。

たいへん小さな図である。
12.6×17.3センチしかない。
画面の右には、岩が斜めに立ち上がる。
岩の上には、細い枝が垂れる。
枝には葉が付き、赤い実が点々と光る。
葉の縁は白く、氷に包まれているように見える。
画面の左下には、水辺がある。
水面は薄い墨で、静かに広がる。
その岸に、白い鳥が二羽いる。
首を縮め、体を丸めている。
くちばしは細く長い。
鷺である。
水の中に、魚は見えない。
館の記録には、この一葉に添えられた詩が引かれている。
青い竹が雪をかぶって独り立つ。
奥深い谷では、夕暮れの風が軽い。
白鷺は影のように痩せ、冷たいさざなみは凍っている。
そして最後の一行はこうである。
鷺が谷に入るのは、魚を眺めるためだけではない。
館の記録は、その詩をそう訳している。
つまりこの一葉では、魚は水の下にいることになっている。
見えないが、いる。
九点のうち、魚が画面に描かれていないのは、この一点である。
そして館の記録は、赤い実の付いた植物の名も書いている。
葉と実が氷に包まれているという。
つまりこの一葉の主題は、寒さである。
鷺が痩せているのも、水が凍っているのも、その寒さの現れである。
魚が見えないのは、水面が凍っているからかもしれない。
もっとも、それは詩と絵を合わせた読み方である。
絵だけを見れば、水は薄い墨で塗られているにすぎない。
画帖の一葉には、しばしば詩が添えられる。
その詩が、描かれていないものを画面に呼び込む。
網の中で、魚は人と同じ大きさになる
三点目は、エングレーヴィングである。

横長の画面である。
下三分の一は、波の重なる海である。
波は規則正しい弧を描き、線で刻まれている。
その海に、舟が二艘浮かんでいる。
舟のへりは高く、船首が反り返る。
舟の中には、裸に近い人々がひしめいている。
十数人はいる。
みな体をひねり、腕を伸ばしている。
一人は櫂を持ち、一人は綱を引く。
そして舟のあいだの海面に、大きな魚がいる。
体は太く、背びれが立つ。
口が開き、歯が並んでいる。
大きさは、人の胴ほどある。
別の魚は、すでに舟の中へ引き上げられている。
館の記録では、この版はある画家の下絵にもとづく。
その下絵は、宮殿の一室に描かれた壁画と関わりがあるという。
作者は、版画を作る一族の一員だった。
館の記録は、それだけを書いている。
見えるのは、魚と人の大きさが近いことである。
九点のうち、魚がこれほど大きく描かれているのは、この一点だけである。
そして題には「怪」という語が入っている。
館の記録は、この魚が何の種類かを書いていない。
背びれと歯の形からも、種類は決められない。
つまりこれは、実在の魚ではないかもしれない。
大きな魚を描くとき、輪郭は自由になる。
海の中は見えないので、誰も否定できないからである。
舟の人々が裸に近いのも、古代の場面として描いているからだろう。
版の紙は20.7×31.2センチしかない。
その小さな面に、人が十数人と魚が数匹入っている。