門は、いつもくぐる前にある——アルトドルファーほか九点
門の下で抱き合う二人の木版画から、パドヴァの街の門、カルナックの塔門、蘇州の裏門、凱旋門、水門、ヨセミテの谷の門まで。九点を数えると、門の真下に人がいる絵は二点だけで、八点までが手前から描かれていた。絵のなかの門がなぜくぐる前ばかりなのかを考える。

門の下で、立ち止まる
石の門の下で、男と女が抱き合っている。
女は男の首に腕を回し、男は女を抱き寄せている。
二人の頭上に、太いアーチが弧を描く。
アーチの内側は、細かな線で編んだように暗い。
その暗がりに、翼を広げた小さな姿が浮かんでいる。
二人の衣は長く、深い襞を刻んで床まで届く。
足もとには、四角い敷石が並ぶ。
左の奥には、小さな家々の壁と屋根が見える。
門の向こうの街である。

十六世紀はじめの、ドイツの木版画である。
抱き合う二人の名と、門の名が、そのまま題になっている。
館の記録では、四十点からなる連作の一つである。
人類の堕罪から最後の審判までを、順に語る連作だという。
刷りの効率のためだろう、一枚の紙に八つの版がまとめて刷られた。
売られる前に、紙は八つに切り分けられたとある。
この館の一組は半分に切られただけで、一頁に四図が残る。
収蔵番号の末尾に付く枝符号は、その切り分けの名残なのだろう。
並びにも癖があって、紙の上の八場面は物語の順になっていなかったという。
切って売ることが、はじめから頭にあったのかもしれない。
木版でこれほど細かく彫るのは離れ業だ、と記録は書く。
デューラーの《小受難伝》に想を得て、その倍近い大きさだともある。
さて、この二人は門をくぐらない。
門の下で立ち止まり、抱き合っている。
再会の場面の舞台として、門が選ばれている。
考えてみれば、門は不思議な建物である。
壁は人を止めるために築かれ、門は通すために開けられる。
通り抜けるだけの場所なら、絵の主役にはなりにくいはずである。
それでも門の絵は、洋の東西にたくさんある。
あちらは家の入口、つまり戸口の絵だった。
門はいわば、その大きな版である。
家より大きなもの——街や寺や庭が、門で内と外に分かれる。
そして門は扉と違って、開いた姿のまま長く画面に立っていられる。
では、絵のなかの門で、人はどこにいるのか。
くぐる前なのか、くぐった後なのか、門の真下なのか。
九点を順に見て、門と人の位置を確かめていく。
街は、門から始まる
広い川が、画面の手前いっぱいに横たわっている。
水の上に、小さな舟がいくつか浮かぶ。
対岸には、建物が横一列に並ぶ。
その列の中に、ひときわ高い塔をのせた門が立っている。
空が画面の半分近くを占め、大きな雲が流れている。
岸辺には、豆粒ほどの人影が置かれている。

十八世紀イタリアの、都市景観画である。
カナレットが描いたのは、パドヴァの街の門だった。
画家は川のこちら岸、つまり街の外に立っている。
門は建物の列の一員として、遠くに小さく描かれている。
門が主役というより、門のある岸辺の全体が主役である。
それでも題は、岸辺の名ではなく門の名を名乗る。
街の眺めは、門の名で呼ばれる。
街に近づく人が最初に見るものが、門だからだろう。
街を出る人が最後にくぐるものも、門である。
舟で来る人にとっては、この川こそが街道だろう。
門は、水の道の行き着く先に立つ、大きな道しるべでもある。
門は、街の始まりのしるしである。
カナレットは、そのしるしが見える距離で筆を止めた。
くぐる前、それもだいぶ手前である。
街は、入る前に眺めるのがいちばん美しい。
都市景観画は、そのことをよく知っている。
門は、塔を二つ従える
乾いた土の上に、石を積んだ塔が二つ立っている。
左は低く、右は高い。
どちらも上へゆくほどすぼまり、上端は崩れて欠けている。
二つのあいだは、大きく空いたままである。
その空きの奥に、小さな石の枠が一つ見える。
足もとには、石くれが一面に散らばっている。

これは絵ではなく、写真である。
1860年代、エジプトのカルナックで撮られた。
館の記録では、写っているのは巨大な門の名残である。
門の両脇には、ホルスの像が置かれていたという。
ホルスは、たいてい隼の頭を持つ人の姿で表される神である。
その像も、いまは画面に見当たらない。
塔と塔のあいだにあったはずの門は、崩れて消えている。
残ったのは、門を挟んでいた二つの塔だけである。
それでも題は、いまも塔門と呼んでいる。
門のない門を、記録も題も、門の名で呼び続けている。
館の記録は、この荒涼とした眺めが発見の気分を強めると読む。
1860年代にエジプトを訪れた旅行者が味わったはずの、あの気分である。
右下の小さな人影が、遺構の途方もない大きさを証している、と記録は書く。
言われて探すと、たしかに石くれの中に人が立っている。
九点のなかで、これがいちばん小さく写った人である。
写真の下の隅には、白い字で番号と場所の名が刷り込まれている。
右下の隅には、撮影者の名も入っている。
塔は一本で立つと数えた回がある。
こちらの塔は、二本で一つの門を作っていた。
くぐる建物の両側に、見上げる建物を立てる。
門であると同時に、塔なのである。
遠くの道からも目に入るための、高さだったのだろう。
豆知識の欄には、この遺跡がギザのピラミッドに次いで訪れる人の多い場所だとある。
いまは大勢が歩く場所である。
写真のなかの空白は、百六十年前の一日のものにすぎない。
裏の門にも、正面がある
白い塀が、木立の間を左右へ延びている。
その真ん中に、屋根をのせた門が開く。
門の前には石段があり、道が手前へ下りてくる。
道の上に、小さな人影が見える。

十五世紀末の中国、蘇州の画家沈周の画帖である。
虎丘は蘇州の北西にある名所だと、館の記録は言う。
十二図の連作は、船で麓に着き、山上の僧院へ登るまでの道行きをなぞる。
この図の門は、その道の途中にある。
題の後門は、裏の門という意味である。
裏の門でも、絵は正面から向き合って描く。
塀と門と石段が、きちんとこちらへ顔を向けている。
人影は門の外の道にいて、まだくぐっていない。
道行きの絵では、門はいつも行く手に現れる。
くぐり終えた門を振り返る気配は、この一図にはない。
沈周は官途につかず、隠士として生きた人だと記録にある。
絵を本格に始めたのは中年からで、呉派と呼ばれる画派の祖と仰がれた。
画面には、作者の印が一つ捺されていると記録にある。
来歴の欄には、十八世紀から二十世紀にかけての収集家の名が連なる。
門の絵そのものも、幾人もの持ち主の手を通って、いまの館まで来たことになる。
門の下から、外を見る
九点のうち、この一点だけは向きが違う。

画面の上半分を、アーチの内側が占めている。
天井は格子に区切られ、その一つずつに花の形が彫られている。
左の壁には、行列の浮き彫りが横に長く続く。
台に載せた品々を担いで運ぶ人々が見える。
柱は太く、根もとの石は大きく欠けている。
アーチの向こうには、明るい空がある。
その下に、円い建物が横たわっている。
コロッセオである。
門の下には、四人が立っている。
土地の装いの女と、外套の男と、荷を持つ人である。
外の道には、黒い服の人が一人、歩いていく。
つまりこの絵の視点は、門の下にある。
ここまでの絵はみな、門の手前から門を見ていた。
この一点だけが、門の中に立って外を見ている。
館の記録では、イギリスのクロメクはイタリアとギリシアの古い遺構を細かく描いた。
大旅行の土産を求める英国の旅行者に、その絵は喜ばれたという。
若いうちにイタリアへ渡り、ローマに住みついて二十年を過ごした。
ときどき本国へ帰っては、買い手を探して作品を売った。
その帰国の一度で、宮殿に呼ばれることになる。
女王と王配が、水彩を数点買い上げたと記録は書く。
地誌としての正確さと明快さが、この画家のいちばんよい仕事だと記録は評する。
豆知識の欄には、売り上げの帳面の話がある。
この図と同じ構図を、画家は13回売ったという。
同じ門の下の眺めが、13枚描かれて、それぞれの家へ散っていった。
土産物として選ばれたのが、門の内側からの眺めだったことになる。
理由は、たぶん一目で分かる。
一枚に、有名な門と、もっと有名な円形闘技場の両方が入るからである。
門は、次の眺めを切り取る枠になっている。
くぐる前の門は正面を見せ、くぐった門は外の景色を額に入れる。
同じ石の建物が、立つ位置ひとつで役を替える。
紙の左下には、黒インクの署名と、ローマの地名と、1846年の年記がある。
壁を失っても、門は門か
石の大きな門が、画面いっぱいに立っている。
アーチは三つ。
中央が大きく、左右は小さい。
壁面は浮き彫りで覆われ、上部には文字を刻んだ面がある。
門の足もとだけ、地面が四角く掘り下げられている。
奥には、細い柱が数本、寄り添って立つ。

十九世紀イタリアの版画家ロッシーニのエッチングである。
紙は横68.8センチもある、堂々とした大きさである。
描かれているのは、古代ローマの凱旋門である。
凱旋門は、奇妙な門である。
壁を持たない。
くぐっても、内と外は変わらない。
町を囲いもしなければ、誰かを締め出しもしない。
扉を付ける場所も、そもそもない。
くぐるという動きだけに、意味を持たせた門と言える。
行列がここを通る、その晴れの一度のための門だったと考えられる。
エッチングでは、門の周りに豆粒ほどの人影が散っている。
だが、誰も門の下にはいない。
根もとだけ地面が低いのは、あとから掘り出されたからのように見える。
役目を終えた門は、くぐられる建物から、眺められる石碑に変わる。
廃墟が絵の主役になった回と、地続きの一枚である。
水だけが、くぐる門
川が、手前へ流れてくる。
流れの中ほどに低い堰があり、水が白く砕けている。
左手の岸には、荷船が寄せてある。
対岸には赤い屋根の家並みと、細長い木々が立つ。
空は曇りで、雲が厚い。

ピサロが1872年に描いた、水門である。
館の記録では、場所は画家の住まいに近い川である。
パリの北西にある、田舎町ポントワーズだという。
速い筆で、戸外でひと息に描かれたようだ、と記録は読む。
下描きなしに、色の筆触をじかに置いていく描き方である。
光と大気のうつろいを外で素早く捉えるやり方の、旗振り役の一人だったともある。
画面の左下には、署名と年が書き入れてあるという。
水門は、この九点でただ一つ、人のためではない門である。
くぐるのは水と、水に乗るものである。
人の門は、人を選んで通す。
水門は、水の高さを加減して通す。
役目は違っても、境を締めて、通るものを改める点は同じである。
豆知識の欄には、この川の長さが341キロだと書いてある。
341キロぶんの水が、この幅の門を順々に抜けていく。
水門の絵に、門らしい晴れがましさはない。
働く門は、飾られないのである。
誰も作らなかった門
左右から、岩の壁がせり出している。
間には草地と川が延び、奥へと続く。
岩壁は明るい面と影の面に分かれ、谷の口を挟んで向かい合う。
空は明るく、岩の上に雲がかかっている。

題は《ヨセミテの門》。
門といっても、建物ではない。
谷の入口の岩壁を、門に見立てた名である。
記録の欄は短く、語ってくれるのは年代と画材くらいである。
紙に油彩で描かれ、のちに布へ貼られた小ぶりの一枚だと分かる。
作者は、帖に船を並べた山の画家の回のビアスタットである。
岩の門には、扉がない。
誰も閉じられず、誰も見張らない。
そもそも、幅が川一本ぶんもある。
くぐり抜けるには、歩いて何歩もかかるだろう。
それでも、この入口を門と呼びたくなる気持ちは分かる。
壁のような岩が二つ、道の両側に立っていれば、そこは門である。
門という建物の骨組みだけを、岩で組んで置いたような場所である。
そしてこの門は、くぐった人を数えもしなければ、覚えてもいない。
帖のなかの、薄い門
見開きの紙に、薄い鉛筆の線が走っている。
山の稜線が幾重にも重なり、間に平らな線が延びる。
右下には、小さな書き込みがある。

アメリカの画家ハンティントンの、素描帖の一葉である。
ここにも、建物の門はない。
山なみの間の通り道を、門と呼んだ土地の名である。
稜線の重なりの間を、平らな線が抜けていく。
その抜け道が、題の言う門なのだろう。
鉛筆の線はごく薄く、消えかけの景色のようである。
旅先で、目の前の眺めを急いで留めた一頁だと考えられる。
完成した絵と違い、帖の頁は人に見せるためのものではない。
それでも土地の名は、薄い線よりはっきりと、ここが門だと告げている。
ヨセミテの門と、ハイランズの門。
九点のうち二点が、建物ではない門である。
人は、土地の形にも門を見る。
谷の口、山あいの狭まり、川幅の絞られる場所。
通れるところが限られていれば、そこに門の名が付く。
門とは建物の種類である前に、ここを通るしかないという場所の名なのだろう。
数えて、分かること
ここまでの九点を、数え直す。
人の建てた門が七点、土地の名としての門が二点。
七点の内訳は、物語の門、街の門、神殿の塔門、名所の裏門、凱旋門が二点、水門である。
人をくぐらせる門が六点、水をくぐらせる門が一点。
媒体も数えておく。
油彩が三点、版画が二点、水彩と素描が二点、画帖の一葉が一点、写真が一点。
門は、描く道具を選ばない主題である。
年代の幅も見ておく。
いちばん古いのは1513年ごろの木版、いちばん新しいのは1882年ごろの油彩である。
四百年近い開きがあるのに、これから見るとおり、立ち位置は揃っている。
そして、肝心の位置である。
門の真下に人がいる絵は、九点のうち二点しかない。
冒頭の抱き合う二人と、凱旋門の下に立つ四人である。
しかも二人は立ち止まり、四人は眺めのために置かれている。
門の下を歩き抜けていく人は、九点のどこにも見つからない。
視点も、ほとんど揃っている。
九点のうち八点は、門の手前か正面から描かれている。
残る一点だけが、門の下から外を向いていた。
くぐり終えて、振り返って門を描いた絵は一点もない。
もっとも、これはこの九点の話にすぎない。
世の門の絵がみな手前から描かれるとは、ここからは言えない。
ただ、見当は付けられる。
門の顔は、正面に作られるからである。
彫刻も、刻まれた文字も、塔も、正面に集められていた。
画家も写真家も、顔のある側に回って構えることになる。
理由は、もう一つありそうである。
くぐってしまえば、門は用済みだからである。
門が絵になるのは、まだ入っていない間である。
向こうに何があるか、まだ見えていない間である。
門の下に留まった二点も、けっきょくくぐり抜けてはいない。
門の絵は、期待の絵なのだと思う。
思えば、門の真下は絵にとって居心地の悪い場所でもある。
手前と奥の、ちょうど境目だからである。
そこに人を置いたのは、九点では二点だけだった。
再会の場面と、土産物のための眺めである。
くぐらない使い方をされたとき、門は初めて人と並んで画面に入るのかもしれない。
門の字は、どこにでも住む
ところで、この九点に日本の門はない。
鳥居も出てこない。
扉を持たない門ということなら、鳥居は徹底した例である。
柱二本と横木だけで、囲うものを何も持たない。
それでいて、くぐる前と後で場所の意味を変えてみせる。
いつか鳥居の並ぶ絵で、あらためて考えたい主題である。
かわりに、探す途中で面白いことが起きた。
候補には、門の字を頼りに、門のない絵が三点まぎれ込んでいたのである。
二点は江戸の役者絵で、役の名が与右衛門と門之助だった。
一点は猿たちの絵で、題が《専門家たち》だった。
門の字は、人の名にも、学問の語にも住んでいる。
鳥居の語も、江戸では絵師の家の名に住んでいた。
鳥居派の初期役者絵の回の、あの鳥居である。
くぐる門を探したつもりが、言葉の門ばかりくぐっていたことになる。
その三点を外して残ったのが、この九点である。
最後に、記録の外のことを少しだけ。
カルナックの石くれの中に立っていた人は、撮影が済んでどこへ行ったのだろう。
くぐるべき門は、もうそこにない。
パドヴァの門も、今日誰かが出入りしているかもしれない。
けれども絵や写真に残ったのは、どの門も、くぐられる前の姿だった。
絵のなかの門は、いつまでもくぐる前である。
向こう側は、額の外にしかない。
次に門の絵に出会ったら、門の下に人がいるかどうかを見てほしい。
たぶん、いない。
そしてあなたは、まだくぐっていない一人として、門の正面に立っている。


