作品を知る

天体の月と、暦の月——岳翁蔵丘の周辺・杜堇・ナヤほか九点

日本語では月が天体と暦の両方を指す。九点で数えると、天体の月は四点、暦の月が四点だった。月はいずれも白い円か細い弧で、模様は描かれない。昼に撮って夜に見せた写真も一点ある。欠けた月は三点で、満月は一点しかない。

水月観音図
岳翁蔵丘《水月観音図》クリーヴランド美術館蔵

満月が、人の背後にある

一枚の掛幅に、大きな月がある。

画面は104.8×44センチ。

表装を含めると207×62.5センチになる。

二メートルを超える。

縦に細長い画面である。

画面の中ほどに、白い円がある。

円は大きく、画面の幅の三分の二ほどある。

輪郭は薄い墨でぼかされている。

その円の前に、人物が一人立っている。

長い衣をまとい、正面を向く。

頭に布をかぶり、髪が肩に垂れる。

右手に、細い枝を持つ。

左手には、小さな壺がある。

足もとには、水面がある。

その水に、小さな円が映っている。

もう一つの月である。

上のほうには、竹の葉が垂れる。

館の記録の題によれば、これは水と月の観音である。

館の記述によれば、水に映る月は移ろいの象徴だという。

そして、枝と壺は癒しと清めを示すと書かれている。

つまり、月は二つある。

空の月と、水の月である。

水月観音図
岳翁蔵丘に帰属《水月観音図》1500年頃。館の記録では、掛幅。紙に墨。画面104.8×44センチ。表装を含めて207×62.5センチ。番号は1985.110。クリーヴランド美術館蔵。岳翁蔵丘《水月観音図》クリーヴランド美術館蔵

月は、夜の唯一の大きな光源である。

そして、形が変わる。

満ち欠けがあるので、日を数える単位にもなった。

日本語では、天体の月と、暦の月が同じ字である。

九点を並べて、その両方を数えたい。

「月」の字が、四点を連れてきた

集めかたは、館の記録の題によっている。

月にあたる語が入るものを拾った。

日本語の題も、英語の題も見た。

すると、九点のうち四点が暦の月だった。

一か月分、十月、十一月が二点。

いずれも、日本語にすると月の字が入る。

英語の題には、天体の月の語はない。

つまり、翻訳の側で起きた一致である。

前の回でも、同じことが何度かあった。

林檎の林、野菜の野、浦島の島。

漢字は一字で意味を持つので、こういう一致が出やすい。

そして今回は、暦という別の体系がぶつかっている。

天体の月が、月数の単位になった。

その名残が、字に残っている。

九点のうち、天体の月が描かれているのは四点だった。

月は、白い円である

天体の月の四点を見たい。

一点目は、いま見た掛幅である。

月は、白く塗り残された円だった。

二点目も、掛幅である。

画面は156.4×72.4センチ。

軸端まで含めると286.4×99センチになる。

二メートル八十を超える。

画面の下のほうに、人物が一人立つ。

長い衣で、袖が広がる。

顔を上げ、右のほうを見ている。

その視線の先に、梅の枝がある。

枝はねじれ、白い花が点々と付く。

画面の上のほうには、岩と木がある。

墨は濃く、太い筆で描かれる。

月は、はっきりとは描かれていない。

上のほうの薄い部分が、それらしく見える。

館の記述によれば、この人物は十世紀の詩人である。

湖のほとりに隠れ住み、梅を妻とし、鶴を子としたという。

そして、月の下で梅を見る場面が、その人の有名な詩にある。

館は、この画家の署名のある作品が少ないとも書いている。

月下に逍遥する詩人・林逋
杜堇《月下に逍遥する詩人・林逋》十五世紀後半。館の記録では、掛幅。紙に墨と色。画面156.4×72.4センチ。軸端を含めて286.4×99センチ。番号は1954.582。クリーヴランド美術館蔵。杜堇《月下に逍遥する詩人・林逋》クリーヴランド美術館蔵

三点目は、銅版画である。

館の記録に、寸法の欄はない。

画面の中央に、女性が立っている。

幼子を抱き、衣が大きく渦を巻く。

頭には、星の付いた冠がある。

その背後から、放射状の光が広がる。

足もとに、三日月がある。

月は横向きの弧で、先が上を向く。

つまり、月の上に立っている。

前に雲を扱った回で、雲の上に立つ姿を見た。

ここでは、月が台になっている。

館の記述によれば、この一点は写しである。

しかも、左右が反転している。

館は、その作り方まで書いている。

原版の印画を銅板に貼り、その線の上を彫る。

その際、貼った印画は壊れてしまう。

つまり、一枚の版画を犠牲にして写しが作られた。

星の冠を戴く三日月上の聖母
アルブレヒト・デューラーに倣う《星の冠を戴く三日月上の聖母》十六世紀。館の記録では、エングレーヴィング。番号は1924.819。クリーヴランド美術館蔵。アルブレヒト・デューラー《星の冠を戴く三日月上の聖母》クリーヴランド美術館蔵

四点目は、写真である。

画面は42.3×53.7センチ。

横長で、九点のなかでは大きいほうだ。

画面の左に、大きな建物がある。

アーチが並び、壁に模様が見える。

その右は、広場である。

石畳が奥へ延びる。

広場の縁に、二本の柱が立つ。

柱の上には、像が載る。

奥は水面で、その向こうに聖堂の丸屋根が見える。

空には、雲が広がる。

雲の切れ目に、丸い光がある。

月に見える。

建物の窓に、小さな明かりが点々と光る。

館の記述によれば、この写真は昼に撮られている。

当時の感光材では、夜の細部を写せなかった。

そこで、暗室で露光を操作して夜に見せた。

さらに、水面と柱の光、そしてガス灯の炎は、陰画に手で描き加えられた。

館は、そのうち一つを描き忘れたとも書いている。

そして、雲に隠れた太陽が月になった、と締めくくる。

ヴェネツィア:月光のサン・マルコからサン・ジョルジョ・マッジョーレを望む
カルロ・ナヤ《ヴェネツィア:月光のサン・マルコからサン・ジョルジョ・マッジョーレを望む》1870年頃。館の記録では、アルビュメン・プリント。画面42.3×53.7センチ。番号は2009.350。クリーヴランド美術館蔵。カルロ・ナヤ《ヴェネツィア:月光のサン・マルコからサン・ジョルジョ・マッジョーレを望む》クリーヴランド美術館蔵

暦の月、四点

語の外れに移りたい。

一点目は、水彩である。

50.8×40センチ。

縦長の画面である。

画面の右に、女性が座っている。

淡い模様の長い服を着ている。

手に、布と針を持つ。

うつむいて、手もとを見ている。

足もとに、大きな籠がある。

籠には、丸めた布が山盛りになっている。

左には、窓がある。

窓辺には、鉢植えが並ぶ。

葉は緑で、赤い花が咲く。

床は板張りで、光が斜めに落ちる。

館の記録の題は、一か月分の繕い物という。

つまり、一か月ぶん溜まった仕事である。

天体の月とは関係がない。

だが日本語にすると、月の字が入る。

一か月分の繕い物
イーノック・ウッド・ペリー《一か月分の繕い物》1876年。館の記録では、オフホワイトの網目紙に水彩、グワッシュ、アラビアゴム。50.8×40センチ。番号は66.240。メトロポリタン美術館蔵。イーノック・ウッド・ペリー《一か月分の繕い物》メトロポリタン美術館蔵

二点目は、油彩である。

81.5×99.9センチ。

画面の中央に、大きな木がある。

葉は黄と橙で、細かい筆が重なる。

その左右にも、木が並ぶ。

地面は淡い紫と桃色である。

草か、落葉らしい。

奥には、低い斜面が続く。

空は明るく、木の間から白く見える。

館の記録の題は、十月の朝という。

季節と時刻が、題に入っている。

だが、月は描かれていない。

朝だから、当然である。

十月の朝
フランク・エー・ビックネル《十月の朝》1910年頃。館の記録では、油彩・カンヴァス。81.5×99.9センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。フランク・エー・ビックネル《十月の朝》スミソニアン協会蔵

三点目は、油彩である。

全体で37.8×51センチ。

画面の中央に、湖が広がる。

水は明るい青緑である。

その岸に、人が長い列を作っている。

数十人はいる。

湖には、大きな舟が一艘いる。

帆を張り、岸を離れようとしている。

右には、砦らしい建物がある。

丘の上に立ち、壁が見える。

空は淡い桃色である。

館の記録の題には、日付が入っている。

十一月十八日、という日付である。

制作は、その百七十年後である。

つまり、これも後から描かれた歴史の場面である。

前に扱った例と同じ種類の作品である。

1678年11月18日、オンタリオ湖のフロンテナック砦を発つ探検隊
ジョージ・カトリン《1678年11月18日、フロンテナック砦を発つ探検隊》1847〜48年。館の記録では、油彩・カンヴァス。全体37.8×51センチ。番号は1965.16.316。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。ジョージ・カトリン《1678年11月18日、オンタリオ湖のフロンテナック砦を発つ探検隊》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

四点目は、水彩である。

紙は38.7×54.6センチ。

画面の右に、大きな崖がある。

崖は桃色と橙と紫で塗られる。

岩の面が、色の帯として並ぶ。

その下に、白い波が砕ける。

波は厚く塗られ、青と白が混ざる。

左のほうは、海である。

水は緑がかった青である。

上には、薄い黄の空がある。

館の記録の題は、断崖と十一月である。

つまり、季節を示す月の名である。

月そのものは、どこにもない。

断崖、十一月
チャールズ・シドニー・ホプキンソン《断崖、十一月》1926〜27年。館の記録では、水彩。紙は38.7×54.6センチ。番号は1928.221。クリーヴランド美術館蔵。チャールズ・シドニー・ホプキンソン《断崖、十一月》クリーヴランド美術館蔵

月が、組物の名に入る

最後の一点は、少し違う。

日本の版画で、21.6×34センチ。

横長の画面である。

画面には、雪の積もった池がある。

水は青く、岸は白い。

中央に、赤い社が建つ。

屋根には雪が厚く積もる。

左右に、木が並ぶ。

枝にも雪が載っている。

手前には、細い橋が架かる。

橋の上に、小さな人影がある。

右上に、題を書いた枠がある。

館の記録の題によれば、これは名所を集めた組物の一枚である。

その組物の名に、雪と月と花の三語が入っている。

つまり、この一枚は雪の景を担当している。

月の景は、別の一枚にある。

前に雪を扱った回でも、同じ三語の組み合わせを見た。

雪月花という並びは、東アジアで古くから使われる。

三つとも、移ろうものである。

井の頭の池弁財天の社雪の景(名所雪月花より)
歌川広重《井の頭の池弁財天の社雪の景(名所雪月花より)》1844〜45年頃。館の記録では、多色木版、大判。21.6×34センチ。番号は1934.283。シカゴ美術館蔵。歌川広重《井の頭の池弁財天の社雪の景(名所雪月花より)》シカゴ美術館蔵

月の絵に、人は一人か二人

九点で、人の数を数えたい。

天体の月が描かれた四点では、人は少ない。

一人が二点、二人が一点。

写真の一点には、遠くに数人が見えるだけである。

暦の月の四点では、人の数がばらばらである。

一人が二点、数十人が一点、人のいないのが一点。

つまり、月のある画面ほど人が少ない。

これは、前に夜を扱った回とも重なる。

夜の絵も、人が少なかった。

月は夜の光だから、当然かもしれない。

そして、一人で描かれた三点は、いずれも歩くか立つかしている。

観音は立ち、詩人は歩き、聖母は月の上に立つ。

座っている人は一人もいない。

月を見るには、外へ出る必要がある。

外に出れば、立つか歩くかになる。

室内で月を見る画面は、九点に一つもなかった。

前に窓を扱った回では、外を見る人が少なかった。

窓越しに月を見る絵もあるはずだが、今回は集まらなかった。

九点という数では、そこまで拾えない。

月のある画面は、縦に長い

判型を並べておきたい。

天体の月が描かれた四点のうち、縦長が三点である。

横長は、写真の一点だけだった。

縦長の三点は、いずれも月が上のほうにある。

そして、その下に人や木がある。

上を見上げる構図になっている。

月は空にあるので、見上げることになる。

見上げる姿を入れるには、縦の画面が向く。

上に月、下に人。

その配置が、そのまま縦長の画面を作る。

横長の一点では、月は雲の切れ目にある。

しかも、画面の上の隅である。

主役は広場と建物で、月は添え物にすぎない。

だから横長でも成り立つ。

一方、暦の月の四点は、三点が横長だった。

こちらは風景と場面の絵である。

月とは関係がないので、判型も関係がない。

つまり、天体の月がある画面だけが縦に寄る。

九点の分かれ方は、そこにも出ていた。

館の記録は、判型を選んだ理由を書かない。

書かれるのは、結果としての寸法だけである。

数え直す

九点を並べ直したい。

天体の月が描かれているのは、四点。

そのうち、白い円として描かれているのが二点。

三日月として描かれているのが一点。

雲の切れ目の光として写っているのが一点である。

暦の月が題に入っているのが、四点。

組物の名に月が入っているのが、一点。

つまり、天体の月と暦の月がほぼ半々だった。

月は、円で足りる

天体の月の描き方を見たい。

四点とも、月は単純な形である。

白い円か、細い弧である。

模様も、影も描かれていない。

実際の月には、暗い模様が見える。

だが、四点のいずれにもそれがない。

理由は、大きさだろう。

画面のなかの月は、たいてい小さい。

小さな円に模様を入れても、読めない。

例外は、観音の掛幅である。

そこでは、月が画面の幅の三分の二を占める。

それでも、模様は描かれていない。

輪郭をぼかした、白い円だけである。

つまり、月は記号として描かれている。

前に雲を扱った回で、記号としての雲と観察の雲を分けた。

月には、その区別がほとんどない。

九点の四点とも、記号の側にある。

観察して描かれた月は、一点もなかった。

月は、いつも同じ大きさに描かれない

四点の月の大きさを比べたい。

観音の掛幅では、月が画面の幅の三分の二を占める。

これは、実際の見え方とはまったく違う。

夜空の月は、腕を伸ばした指の先ほどに見える。

画面に写せば、ごく小さな円になる。

写真の一点では、実際にそうなっている。

雲の切れ目の小さな光である。

つまり、四点のあいだで月の大きさは何十倍も違う。

大きく描くのは、月が主題だからである。

小さく描くのは、月が条件にすぎないからである。

前に山や塔を扱った回では、目盛りの話をした。

大きさを示すには、比べるものが要る。

月の場合、比べるものが空にない。

だから、いくらでも大きく描ける。

見る人も、それを受け入れる。

大きな月を見て、おかしいとは思わない。

月は、そういう扱いを許される数少ないものである。

太陽も同じだろう。

九点のなかで、この自由がいちばん出ているのが観音の掛幅である。

人の背丈より大きな月が、背後に置かれている。

月は、水に映る

もう一つ、数えておきたいことがある。

九点のうち二点で、月が水に映っていた。

観音の掛幅と、ヴェネツィアの写真である。

前者では、水面の小さな円が第二の月になる。

館の記述によれば、それは移ろいの象徴だという。

後者では、水面に光の帯が伸びる。

ただし、その光は陰画に手で描き加えられたものである。

つまり、映り込みそのものが人の手で作られている。

写真でありながら、映り込みは絵である。

館は、そのことをはっきり書いている。

描き忘れた灯まで指摘している。

こういう記述は、写真の見方を変える。

写っているものが、すべて写ったものとは限らない。

前に、記録の疑問符や偽の署名を扱った。

今回は、画面そのものへの加筆である。

館がそれを書き残しているおかげで、こちらも書ける。

記録は、月齢を書かない

最後に、記録の欄を確かめておきたい。

九点の記録に、月の形や日付を書く欄はない。

例外は、題に日付の入った一点である。

十一月十八日、と書かれている。

だがそれは、描かれた出来事の日付である。

その日の月がどうだったかは、書かれていない。

そして画面にも、月は描かれていない。

つまり、日付と月は結び付いていない。

日本語では、月の字が両方を指す。

英語では、天体と暦で別の語である。

だから英語の記録を機械で引けば、この四点は混じらない。

日本語で引くと、混じる。

言語によって、集まる顔ぶれが変わる。

当社は日本語の題を作る立場なので、この差を引き受けている。

引き受けたうえで、外れも並べている。

今回は、その外れが四点あった。

四点とも、暦の月である。

天体の月と暦の月が、同じ字で並んでいる。

その事実自体が、この回で数えられたことである。

そして、この一致は偶然ではない。

暦の月が、天体の月から名を取ったからである。

満ち欠けの周期が、日を数える単位になった。

その関係が、字に残っている。

英語でも、月を意味する語と月数を意味する語は語源が同じである。

ただし、綴りが分かれた。

日本語では、分かれなかった。

だから日本語で引くと、両方が集まる。

言語ごとの事情が、検索の結果に出る。

前の回でも、同じことを何度か書いた。

林の字、野の字、島の字。

いずれも、一字が複数の意味を持っていた。

今回の月の字は、そのなかでも関係の近い例である。

林檎と林は無関係だが、月と月数は関係がある。

無関係な一致と、関係のある一致。

九点の外れは、後者の側にあった。

そのぶん、外れとしての面白さは少ない。

だが、語の歴史を示す材料にはなる。

天体の名が、時間の単位になった。

その痕跡が、四点の題に残っている。

一か月分の繕い物、十月の朝、十一月の探検隊、断崖と十一月。

四点とも、月の光とは何の関係もない。

それでも、同じ字で呼ばれている。

字を共有しているかぎり、機械はこの四点を拾う。

拾ったものを削るかどうかは、こちらの判断である。

今回も、削らずに並べた。

削れば、選定の基準が曖昧になるからである。

そして、削らないことで得られるものもある。

今回でいえば、繕い物の水彩がそれである。

一か月ぶん溜まった布を、一人で繕っている。

籠には、丸めた布が山になっている。

窓辺には、鉢植えが並ぶ。

月の回でなければ、この一点に触れることはなかった。

同じことは、十月の朝の油彩にも言える。

黄と橙の葉が、画面いっぱいに広がっていた。

月とは無関係だが、秋の絵として静かである。

外れは、思わぬ作品に出会う機会でもある。

九点のうち四点が外れというのは多いほうだが、そのぶん幅は広くなった。

観音の掛幅から、繕い物の水彩まで。

同じ字で集まった九点が、これだけ離れている。

離れているものを一つの回に入れるのは、無理があるとも言える。

だが、無理があることを書いておけば読者は判断できる。

なぜこの九点が並んだのか。

理由は、日本語の月の字が二つの意味を持つからである。

その一点だけを説明すれば、あとは読む人の自由である。

天体の月の四点だけを見てもよい。

暦の月の四点だけを見てもよい。

九点まとめて、字の話として読んでもよい。

どの読み方でも、図版は同じ九点である。

並べ方だけが、こちらの仕事になる。

今回は、天体の月から先に並べ、暦の月を後に置いた。

逆にすることもできた。

どちらでも、九点は同じである。

RELATEDあわせて読みたい

作品を知るの記事一覧