口は、穴の名である——祇園井特・ルドン・カイユボットほか九点

館の説明は、この上下の対比を書いている。
聖母は、へりくだって地面に座り、子に乳を与える。
聖ゲオルギウスと二人の大天使が、近くに跪く。
弟子たちは、光輪から放射する星の形で現れる。
その純潔と対をなすように、下にエバが横たわる。
蛇にそそのかされ、禁じられた果実を口へ運ぶ。
そして、原罪によって人を罪に落とす。
館は、板の傷にも触れる。
蛇の顔とエバの手首のあたりに、深い引っかき傷がある。
つまり、この画面には二つの口がある。
上では、子の口が乳を受ける。
下では、女の口が果実を受ける。
どちらも、口に何かが入る場面である。
前の一点では、口から出るものが描かれた。
ここでは、口へ入るものが描かれる。
そして、入ることのほうが罪とされている。
出るものは、言葉である。
入るものは、食べものである。
罪になったのは、入れたほうだった。
しかもエバは、まだ口に運ぶ途中である。
食べ終わった場面は、描かれない。
口に、くわえる
小さな素描である。
紙は10.8×5.7センチ。
指二本ほどの幅しかない。
男が一人、立っている。
全身が入る。
顔は、やや左を向く。
帽子をかぶる。
つばは、狭い。
上着は、腰までの丈である。
前が、開いている。
下は、長い脚衣である。
靴の先が、外を向く。
両手は、腰の後ろにある。
背をそらし、腹を前へ出す。
そして、口のあたりに細い線が一本ある。
斜め上へ突き出ている。
煙草である。
線は、墨と鉛筆で引かれる。
影は、ほとんどない。

館の札は「男性たち」と「喫煙」の二つである。
口の札はない。
しかし題には、口という語が入る。
口の中の煙草、という言い方である。
日本語では、くわえると言う。
一語で済む。
英語は、場所を指定する必要がある。
手ではなく、口に、と言わなければならない。
前の二点では、口は出入口だった。
ここでは、口は保持する場所である。
入れたまま、出さず、飲み込まない。
手を使わずに物を持つ方法として、口がある。
だから、両手は腰の後ろで空いている。
素描帳の一枚だから、線は速い。
煙草は、たった一本の線である。
それでも、くわえていることはわかる。
この素描帳は、作者が十代の終わりに使ったものである。
画家になる前の線である。
人物の姿勢を、素早く写すことに使われた。
口の一本の線も、その速さの中にある。
舌が、体から離れる
油彩である。
73×54センチ。
縦長である。
画面に、二つのものが吊るされる。
上から、鉤で下げられている。
左は、仔牛の頭である。
皮が剥がれている。
赤い肉が、露わである。
眼窩が、黒くくぼむ。
耳のあたりに、白い部分がある。
その下に、長いものが垂れる。
舌である。
先が、丸い。
根元は、太い。
右は、牛の舌である。
こちらは、単体で吊るされる。
淡い桃色である。
表面は、なめらかである。
下に、白い台がある。
台には、金具が並ぶ。
背景は、青灰色である。

館の記録は、短い。
作者と題と年と材料と寸法だけである。
説明の文はない。
題が、すべてを言っている。
仔牛の頭と、牛の舌。
舌は、口の中にある器官である。
それが、単体で商品になっている。
肉屋の店先の絵である。
ここで口は、解体されている。
頭からは、舌が垂れる。
もう一方は、舌だけである。
前の四点では、口は人の顔の一部だった。
ここでは、口は部品として売られている。
部品になると、それは食べものである。
食べる口と、食べられる口が、同じ画面にある。
この画家は、市場や店先を何度も描いた。
吊るされた肉の絵も、いくつかある。
下の白い台は、大理石らしい。
冷たい面に、肉を置く。
画面は、台から上だけを切り取っている。
鴨の口から、酒が出る
細密画である。
絵の部分は20.6×14.6センチ。
楕円の枠がある。
枠の中に、女が一人立つ。
体は、右を向く。
衣は、緑である。
上に、透ける薄物を重ねる。
頭に、赤い布を巻く。
耳に、飾りが下がる。
首に、真珠が幾重にもある。
右手に、小さな杯を持つ。
左手に、器を持つ。
その器は、鳥の形である。
鴨の頭が、注ぎ口になっている。
嘴が、下を向く。
そこから、赤いものが落ちる。
酒である。
杯は、たいへん小さい。
器の胴には、金の葡萄が描かれる。

館の説明は、この器を詳しく書いている。
硝子か水晶の、鴨の頭をもつ酒器である。
金の葡萄の蔓で飾られ、中身を示している。
赤い酒が、鴨の口から小さな杯へ流れる。
そして、こう書かれている。
こうした鳥の形の酒器は、古い儀式の名残である。
かつての波斯の宮廷にあった、血の供犠の名残だという。
館は、裏面についても書く。
草花の飾りが、中央の書を照らす。
まわりには、対の詩句が小さな字で書かれる。
どれも、恋しい人の美しさと、その人への憧れの詩である。
ここで口は、器物のものである。
しかし、鳥の口として作られている。
つまり、比喩ではなく、形そのものが口である。
そして、そこから液体が出る。
人の口と同じ働きを、器がしている。
そして、注ぐ量は口の細さで決まる。
杯が小さいのは、そのためかもしれない。
細い口からは、少しずつしか出ない。