降っている雪は、一点もない——ボヌール・ピサロ・法若真ほか九点

雪が、季節の一つとして並ぶ
日本の掛幅を見たい。
三幅で一組である。
右幅の画面は82.3×30センチ。
表装を含めると166.3×41.6センチになる。
三幅とも、細長い画面である。
各幅の上のほうに、文字が書かれている。
右幅には、雪の景色がある。
低い岸と、水面と、白い土手が見える。
墨は薄く、金の砂子が散らされている。
中幅には、女性が一人立つ。
黒い衣で、袖が広がる。
顔は小さく、うつむいている。
左幅には、水辺と木が描かれる。
館の記録の題によれば、三幅は雪と月と花を表す。
そして、ある遊里の三つの季節を示すという。
雪と月と花を並べる型は、東アジアで古くからある。
三つとも、形の定まらないものである。
雪は積もり、月は満ち欠けし、花は散る。
その三つで一年を示す。

題のなかの雪、四点
語の外れに移りたい。
一点目は、日本の版画である。
紙は30.6×14センチ。
縦に細長い。
画面には、役者が一人立っている。
赤と白の衣を着て、大きく身をひねる。
腰には刀を差している。
顔は白く、目と眉が強く描かれる。
背景には、窓格子と、梅の枝がある。
梅の花は白と桃色である。
館の記録の題には、上演された芝居の名が入る。
その芝居の名に、雪の字がある。
館の記述によれば、その芝居は1769年に上演された。
館はさらに、役の名が右袖に書かれているとも書く。
画面に、雪は一片も描かれていない。

二点目は、素描である。
紙は23.6×30.9センチ。
黒チョークだけで描かれている。
画面の中央に、髭のある男が横たわる。
上半身は裸で、腕を大きな壺に載せている。
体はねじれ、足は右へ伸びる。
その背後に、獣の頭らしい形が薄く見える。
さらに、子どもの顔らしいものもある。
線は速く、重ねて引かれている。
館の記録の題によれば、これは河の神である。
そして、あるフレスコ画のための習作だという。
そのフレスコ画の題に、雪の語が入っている。
つまり、この素描そのものは雪と関係がない。
雪は、完成した壁画の主題である。
しかも、その壁画はこの紙とは別の場所にある。
館の記録の題は、それを括弧のなかに書いている。

三点目は、肖像画である。
90.5×78.4センチ。
九点のなかで、いちばん大きい。
画面には、女性が一人座っている。
濃い緑の衣に、水色の大きな肩掛けをまとう。
肩掛けには、茶色の斑の模様がある。
頭にも、同じ色の布を巻いている。
右手に、閉じた扇を持つ。
背後には、赤い布が垂れる。
その左は、暗い緑である。
館の記録の題は、この人物の名である。
その姓の綴りに、雪を意味する語が入っている。
つまり、姓で集まった一点である。
前の回でも、姓による一致が三点あった。
人名は、こういう一致を起こしやすい。

雪の色は、白だけではない
雪の見える五点で、雪の色を見たい。
純粋な白は、意外に少なかった。
薄い青灰色が混ざるのが、二点。
わずかに黄みを帯びるのが、一点。
紙の地のままなのが、一点。
白飛びして階調がないのが、一点である。
つまり、白一色で塗った雪は一点もない。
理由は、影である。
雪の面にも、影は落ちる。
木の影、家の影、起伏の影。
その影は、白ではなく薄い青になる。
空の色を映すからだと言われる。
油彩の二点では、その青が細かく置かれていた。
紙の地を使った巻子では、影が描けない。
白は一種類しかないからである。
その代わり、墨の濃淡で起伏を示す。
写真の一点では、雪が明るすぎて階調が消えている。
湿板の感光材は、明るい部分の差を写しにくい。
だから雪は真っ白な面になる。
同じ雪でも、材によって色数が変わる。
館の記録は、そこまで書かない。
書かれるのは、使った材の名だけである。
その名から、色数を推すことになる。
雪の絵に、葉のない木が立つ
雪の見える五点で、木の状態を見たい。
葉のない木が描かれているのは、三点だった。
常緑の木があるのは、一点。
木のないのが、一点である。
葉のない木と雪の組み合わせは、当然に見える。
冬だから、葉が落ちている。
だが、絵としては別の意味もある。
葉のない枝は、細い線の集まりである。
その線が、白い雪の面の上に置かれる。
白い面と、細かい黒い線。
その対比が、雪の絵をはっきりさせる。
葉があると、線ではなく塊になる。
塊と白い面では、対比が弱い。
だから雪の絵には、裸の木が向いている。
猪のいる板絵では、細い幹が画面の上半分を埋めていた。
雪のパリでも、枝の線が画面を横切る。
兎の飼育場でも、細い枝が雪の斜面の上に重なる。
三点とも、同じ組み合わせである。
常緑の木がある一点は、中国の巻子だった。
そこでは、木は墨の点の塊として描かれる。
線ではなく点だが、白い紙の上という点は同じである。