太陽は、隠すか、輪にして描く——バーチフィールド・狩野周信・モネほか九点

白い扉の部屋に、窓の形をした光が斜めに落ちている。
床の上の光のまだらが、この版画の主役である。
奥の暗がりでは、女性がうつむいて座り、手元を見ている。
光のまだらの向こう側にいることが、外の世界からの距離を思わせる、と館の記録は読む。
イルステッドはデンマークの版画家で、義理の兄弟に画家ハマスホイがいた。
静かな室内画の型を、二人で開いたと記録は書く。
用いたメゾティントは、当時手がける人の少ない技法だったという。
版を先に真っ暗にしておき、明るくしたい所だけを磨いて起こす。
闇から光を掘り出す作り方である。
床のまだらの明るさは、磨かれた版のつやから来ている。
版の余白には、黒鉛で署名と番号が書き込まれている。
イルステッドの版画の多くは、こうした後ろ姿や横顔の女性の絵だという。
物思いか、勉強か。
記録は、うつむく人の内側までは決めない。
決められるのは、光が窓から入り、床で四角く切れていることだけである。
太陽を描くのではなく、太陽が床に置いていったものを描く。
ここまでの四点のうち、太陽の丸い姿が見えるのは最初の一点だけである。
写真も油彩も版画も、太陽を画面の外か、雲の奥に置いた。
まぶしいものは、働きで描く。
それが一つ目のやり方である。
赤い円なら、見つめられる
では、太陽そのものを堂々と描いた絵はないのか。
ある。
ただし、朝の太陽である。

絹の画面の上のほうに、赤い円がひとつ浮かんでいる。
輪郭のはっきりした、塗りむらのない円である。
その下を、一羽の鶴が翼を広げて横切る。
画面の下には竹が伸び、水辺に亀がいる。
題によれば、松も描き込まれている。
描いたのは、江戸時代の絵師、狩野周信である。
絹に描かれ、掛幅に仕立てられている。
表具まで含めれば、高さは188センチになる。
床にかけて、下から見上げる絵である。
鶴と亀、松と竹は、長寿とめでたさの取り合わせとして知られる。
そこに昇る朝日が加われば、祝いの掛物になる。
正月や祝いの席にかける図柄として、この取り合わせは繰り返し描かれた。
ここで大事なのは、太陽が赤いことである。
昇ったばかりの太陽は光が柔らかく、赤く見える。
一日のうちで、目を向けていられる数少ない太陽である。
初日の出を拝む習わしも、太陽がその時刻なら見られることの上に立っている。
見られるから、輪郭のある円として描ける。
見られるから、円のなかを一色に塗れる。
つまりこの赤い円は、実際に見つめることのできた太陽だと考えられる。
九点のなかで、さえぎるものなしに丸ごと描かれた太陽は、この一点しかない。
しかも、真昼の白い太陽ではなく、朝の赤い太陽である。
直視できる瞬間を選ぶこと。
それが二つ目のやり方である。
太陽に、顔を付ける
三つ目のやり方は、もっと思い切っている。
見つめられないなら、見つめ返してくれる顔を描いてしまえばよい。

翼のある若者が、横向きに立っている。
右手に掲げているのは、顔の付いた小さな太陽である。
若者は太陽を、燭台の火のように顔の高さへ持ち上げている。
背後には、遠い森が細かい線で彫られている。
像の下には、イリアコの名と三十一の数字が彫り込まれている。
15世紀イタリア、フェラーラの版画である。
館の記録では、タロッキと呼ばれる寓意画の組の一枚だという。
光・時・空間の三つの原理と、七つの徳を集めた群に属する。
若者の名はイリアコ、太陽の精霊である。
太陽は世界の魂と考えられていた、と記録は書く。
その魂が翼のある若者の姿を取り、太陽を手に持って立つ。
手に持てる大きさになった太陽は、もうまぶしくない。
顔まで付いて、こちらの視線を受け止めてくれる。
付記によれば、この組には太陽が三度も現れる。
太陽神アポロとして、精霊として、そして星の一つとして。
同じ太陽が、神になり、精霊になり、天体になる。
擬人化は、直視できないものと付き合うための、古い作法だった。
太陽を、着る人
擬人化の先に、もう一つの型がある。
太陽を、人にまとわせる型である。

アーチ形の画面に、人と翼と雲がすきまなく詰め込まれている。
中央の女の体からは、細かい光の筋が四方へ放たれている。
新約聖書の黙示録を絵にした、23枚組の版画の一枚である。
館の記録では、製本された一冊として収蔵されている。
完本は、世界に七部しか知られていないという。
この組はデュヴェを長年にわたり没頭させ、最大の達成になったという。
デュヴェは、フランスで最初期の本格的な版画家に数えられる。
働いた場所は、地方の町ラングルだったとある。
それでも、出回る版画を通じてイタリアの美術を知った。
盛期ルネサンスの、量感のある人体表現を学んだと記録は書く。
ただし空間の理屈は無視して、画面を飾りのように埋め尽くした。
その埋め尽くしのなかで、女がまとう太陽は放射する線になっている。
円ではなく、線の束としての太陽である。
三百五十年ほどのち、同じ句をまったく別の絵にした人がいる。